論考

Thesis

「死」の受容

「死」は受容されるものであり、誰もが受容し得るものと私は考えている。医療現場での勤務を含めて私自身の経験した「死」を語ることによって、現在の私がどこまで「死」を受容しているのかを見つめ、「私」の「死」を「私」が受容することについて考えてみたい。

1.「死」と「私」

 今回のレポートでは、人間の「死」について考えてみたいと思う。現代の日本では、人間にとっての「死」がほとんど病院という通常の日常生活とは隔離された場所で起きてしまい、病院とは無関係の日本人にとって「死」に立ち会う機会が非常に減少していると言われる。そのような「死」のあり方の是非はさておき、昔も今も、医療は常に命と向かい合わせになり、多くの「死」を受け止めている現場であることは間違いない。その現場で働いていた私にとって、人間にとっての「死」について考えることは、必須の課題である。

 とはいえ、「死」というテーマは幅広い。そこで今回のレポートでは、私が重要だと考える一つの視点から「死」を捉えていきたい。それは、「死」をどこまで自分に引き寄せて考えられるか、ということだ。すなわち、「死」を客観視し、自分にとってあたかも「死」が自分とは遠い存在であるかのように「死」を語ることは、私自身の人間観を確立するために今最優先の課題ではないように思う。たとえば、輪廻転生の世界や終末期を前提とする天国のある世界の中の「死」を、日本や諸外国の文化を絡めて紐解き、人間にとっての「死」の意味を一般的に考えることは、学問の世界では有意義に違いない。しかし、どの人間にも「死」は不可避であり、「死」はすべての人間にかかわってくる以上、「死」を考える際に、まず自分自身にとっての「死」をどう受け止めるかを考えることが先だと私は考えた。

 ただ、ここで二点の限界をあらかじめ指摘しておかなければならない。フランスの哲学者であるV.ジャンケレビッチは、『人称の死』という視点を提供している(*1)。「死」には『一人称の死』『二人称の死』『三人称の死』があり、『一人称の死』は、「私」にとっての「死」、『二人称の死』はもっとも身近な人の死、『三人称の死』は他人の死であるという。V.ジャンケレビッチは、『一人称の死』は体験できないため、これを語ることは不可能であると指摘している。確かに、「私」が体験できるのは、『二人称の死』と『三人称の死』であり、『一人称の死』はそれらの体験から間接的に考察することしかできない。

 それでも、『一人称の死』にもっとも近づけると考えられるケースもある。悪性黒色腫というガンの中でももっとも転移しやすいと言われる病を患い、十年以上戦った末に亡くなった岸本英夫は、その著書『死を見つめる心 ガンとたたかった十年間』(*2)の中で、『現代人の死生観』と題した文章において二つの立場を述べている。すなわち、人間一般に及ぶ死を考える立場と、自らの心が『生命飢餓状態』にあるときに自らの死を考える立場とである。そして、東大で宗教学の教授の職にあった著者は、前者よりも後者の立場から「死」を見つめ、死生観を述べていく。岸本の言う『生命飢餓状態』を前提とするならば、『一人称の死』についての語りはもっとも体験から得られる語りに近づけるのであろう。

 残念ながら、私は現在のところ『生命飢餓状態』にあるとは言えない。しかし、多くの人間にとって、『生命飢餓状態』にあることは稀である。従って、この限界を前提としたうえで、それでも私は今の「私」にとっての「死」の受容に関する考察のスタートを、この出発点から始めていきたい。

2.受容すること

 すでに最初の段落から述べてきたことだが、私は「死」は誰にとっても受容されるべきものだと感じている。それも、できることなら、「死」が訪れる前に受容されるべきだと思う。

 塾主、すなわち松下幸之助が「死」について触れた文章の一つに下記のようなものがある(*3)。
『今までは、ただ本能的に死を恐れ、忌み嫌い、これに耐え難い恐怖心をもってまいりました。またいろいろな教えも、死の恐怖を説いてきたのであります。まことに人情として無理もないことと思います。しかしながら、このように死を恐れ、死を避けたいと願う本能に駆られるあまり、そこからいろいろな迷信を生み出し、混乱を招くようになったのであります。
 そこで(中略)、はっきりした死に対する考え方をもたねばならないと思うのであります。死を賛美することは異常な考えでありますが、そうではなくて、真理に立脚し、自然の理法にもとづいて従容と死ぬ死生観をもたなければならないと思うのであります。』

 この発言は塾主が『生命飢餓状態』に陥ったときの発言ではないが、塾主は「死」もまた万物の生成発展の営みの一つである、との考えに立脚し、「死」を受容するべきだとの立場を取っている。受容する方法には、このような自分なりの死生観を持つか、哲学、宗教を持つか、あるいはただ受け止めるのか、個人としての手段に違いはあるだろうし、自分の「死」と家族の「死」ではまた異なってくるだろう。しかし、いずれにしても、この塾主の考えのように、「死」は本当にやって来る前に何らかの形で、受容されるべきだと思う。

 「死」は「受容」される方が明らかに望ましいと私が考えるのは、私がこれまで得てきた「死」の現場の体験に依っている。医療現場で勤務してきたという職業柄、そして、自分の肉親の「死」にあたっても、私がさまざまな「死」を経験してきた中で、受容された「死」と受容されていない「死」では、「死」の現場に明らかな違いがあると実感しているからだ。

 まず、受容されていない「死」については、むしろ受容された「死」よりもよほど遭遇する機会が多かった。それは、小児科および新生児科という科の特徴かもしれないが、日本人の平均寿命をおおざっぱに八十歳とするならば、その十分の一も生きていない、場合によっては産まれてからほんの数日間しか生きられなかった子どもたちの「死」を見た。

 ある未熟児(正確に言えば、超低出生体重児)の赤ちゃんが、生後数日で突然呼吸状態が悪くなって亡くなったことがあった。研修医だった私はその数時間前までは亡くなるとはまったく予期していなかった。心拍と呼吸をモニターするアラームが最初はよくある程度に数回鳴る程度だったのが、一時間後には止まらなくなった。上級の先生方が、一人、二人と駆けつけ、装着していた人工呼吸器の設定をやり直したり、挿管チューブを吸引したりしたが、改善しなかった。そして、挿管チューブを入れ替えるというリスクの高い作業も行ったが、それでも改善しない。心拍数が低下してくるにつれ、あわただしく看護師に薬剤の準備が伝えられ、救急救命に使用する薬剤が次々と点滴の管から投与されていく。そのうち、使用した薬剤を入れてあった注射器のシリンジが二十本以上にもなろうとすると、次第に医師たちの間に、「もう助からなそうだ」というあきらめの雰囲気が共有されるにつれ、次はどこでこの蘇生の処置を打ち切るかという段階になってくる。そして、最後には、「やめましょうか」という主治医の一言で、看護師さんは家族を呼びに行く。

 赤ちゃんの場合には本人の意志があるのかどうかは考えられない。ただ、新生児科に入院した赤ちゃんを産んだお母さん方のほとんどが、産まれてすぐに保育器の中に入ってしまうので、抱っこを経験したことがない。そして、亡くなってしまった場合には、初めての抱っこが看取りになるのである。母にとっては、未熟児での出生も、そして赤ちゃんの「死」に立ち会うという事実も、おそらく受容するにはほど遠い状況にあったに違いない。私は何度その現場を見ても、涙が出るのを止めることができなかった。

 一方で、受容される「死」もある。私は高齢者の医療は経験がないが、最近は在宅においても、施設においてもホスピスが少しずつ広まりつつある。ホスピスの患者さんは多くは死期が迫っているが、治療法がない。しかし、「死」に至るまでの痛みを和らげ、心のケアを行うことによって、安らかな「死」を迎えるための場所である。患者さんの疾患の種類で言えば、圧倒的にガンが多い。ここで迎える「死」は、個々のケースによってもちろん違うのだが、本人や家族が「死」を「受容」するための時間と場所が提供され、最低限の痛みで本人が家族に囲まれながら看取りの時間を過ごすことができる。

 一例だけ、あるホスピスを見学した際にその看取りを拝見したことがある。

 朝からそろそろ死期が迫っている、ということで家族が集められる。患者さんはホスピスという施設の特性上、モニターをつけているわけでもなく、体中のどこにも点滴などの管はついていない。いつもと同じようにベッドに寝ているが、すでに呼びかけには返事をしない状態で、意識状態は低下している。ここ一ヶ月ほどの間、ホスピスに入る、という行動も含めて、家族には「死」の準備ができていたようである。夕方近くになってやっと家族全員が集まり、ベッドサイドに行くとすでに手足は冷たく皮膚は黒くなっていたが、表情はきわめて安らかで苦悩のあとはないように思えた。医師は「死の三兆候」を確認し、おもむろに「○時○分、お亡くなりになりました」と告げる。明らかにすでに何時間か前には亡くなっていたであろう状態ではあるが、それは重要なことではない。朝から付き添っていた家族は、「死」に至るその状態を見つめていたに違いない。「生」と「死」の境界は時計の針のようにきっかりとしたものではなく、「昼から夜へ移る」ように徐々に進行し、気づけば「死」に至っているというのが普通なのであるが、その様子を見て涙を流している家族はいなかった。

 「死」はもちろん本人にとっても悲しい出来事ではあるのだが、私が小児科で経験したような悲壮感と絶望感は漂ってこない。

 受容されない「死」の現場は、受容された「死」の現場よりも明らかに悲惨だ。もちろん、受容するには時間がかかる。受容するだけの十分な時間が与えられない場合もある。しかし、やはり「死」はできることなら「死」の前に受容されるべきなのだと思う。

3.「私」の「死」の受容

 「死」は受容されるべきであると前段落で述べたが、さらに私は「死」は誰もが受容し得るものだと思う。受容するのが「死」に至る本人である場合と家族など周囲の人である場合にはまた異なってくるが、今回はあくまでも「私」の「死」を「私」が受容することについて考えてみたい。

 鳥取県鳥取市にある鳥取県立図書館では、全国でも珍しく闘病記のコーナーを設けている。そのコーナーに置かれた本を読み進めていくと、ほとんどが最終的に「死」を受容して亡くなっていくのが分かる。闘病記を書くという行為自体が、受容したからこそ書けるという一面はあるだろうし、しかもその文章を書くだけの時間があった方に限られているということは言える。しかし、何らかの形でそれぞれの執筆者が自分の「死」を受容していく過程が事細かにつづられていることが多い。言ってみれば、闘病記は後の人々が「死」を受容するためのガイドなのかもしれない。先述した岸本英夫も、ガンを告知され『生命飢餓状態』に陥っていたころの心情の変化が書き留められ、その後十年間に及ぶ著者自身の「死」についての考察が文章として残されている。そして、「死」は「別れ」である、との一つの結論を導いている。

 受容に至るまでの最大の難関は、「死」への恐怖であろう。「死」の恐怖には、身体的な痛みに対する恐怖と、自分の存在が消えてしまうことに対する恐怖がある。前者は、医学が貢献できる分野であるが、多くの場合は、後者に対する恐怖の方が大きいのではないかと思う。ただ、その恐怖を乗り越えるという段階や、あるいは「死」を宣告されたときにキューブラー・ロスが指摘するような心理段階をたどるとしても(*4)、人間は最後には「死」を受容できるものだと思う。おそらくそれは、「死」が身近でないときから漠然とした「死」への恐怖を乗り越え、そしていよいよ「死」が目前となったときに「死」を受容できて安らかに「死」を迎えられるかどうかである。

 ここで、「私」自身が自らの「死」をどの程度まで受容できているのか、検証してみたい。

 まず、「私」にとっての「死」の恐怖がどこまであるのかを振り返る。私はまだ三十年弱しか生きていないが、今までで一番「死」を恐怖と感じていたのは小学校三年生のときだったと記憶している。誰か身内が亡くなったという記憶があるわけでもなく、どこで「死」という言葉を学んできたのかも分からない。しかも、「死」が実際に何なのか、そして「死」の何が、恐れているものの本体なのかも分からない。ただ漠然と「死」が恐ろしくてたまらなくなり、毎晩寝る前にお祈りをしたり、今となっては何の意味があったのかよく分からない手作りの巾着袋をお守り代わりに始終身につけてみたりしていた。

 初めて「死」に遭遇したのは、小学校五年生のときで、私の母方の祖父が亡くなったときだった。「おじいちゃんが倒れた」との知らせがあり、父と車で病院に駆けつけた。病室に入り、ベッドに寝ている祖父を見て普通に話しかけようとしたが、周囲の大人たちが異様な雰囲気を漂わせていることや、祖父が変な形をしたマスクをしながら(今思えばただの酸素マスク)、大きないびきを立てている(今思えば痰の音だった)のを見て、何をしているのかよく分からず、何も言えなくなった。母がなぜか涙を流しており、母方の祖母も何とも言えない表情を浮かべていた。とにかくその病室の押しつぶされそうな空気を抜け出して、外に出たかった。私は帰りたいと言って、先に自宅に帰った。しかし、その祖父の姿を見てから私は極端に落ち着かない気分になった。悲しいのか怖いのか、胸をつくような気持ちを自分でどのように整理してよいのか分からず、家でも父母が病院に行ってしまって誰もいなくなると、うろうろと雨戸を閉めたり遊び道具を手に取ったりしていた。大好きだった甘いお菓子も、病院に行ってしまっている母の目を盗んでこっそり食べてみたが、全くおいしいと感じられずに、大急ぎで喉に無理矢理押し込んだ。その後、祖父が亡くなったという知らせが入り、私が病院に再度向かったときには、祖父はすでに霊安室に運ばれていた。死体というものを見たのもこれが初めてであった。

 今思えば、そのころはすでに私も十一歳になっており、「死」ということの意味が分かってもいい年齢であった。ただ、生まれて初めての「死」の体験は、祖父が二度と話しかけてくれない悲しみと、ただ「死」というものを目の前にしたときの漠然とした不安と恐怖がすべて入り交じって自分でもよく分からない心境であった。つまり、その心境は、「得体の知れないものに対する、得体の知れない気持ち」であった。そしてそのうちに、私は祖父が亡くなったということについて何も考えなくなった。

 しかし、実は、この幼い日の思い出以降、特に医学部入学以降には、私の「死」に対する恐怖は徐々に薄れていく。

 時が経ち、私は医学部に入学した。医学部の五年生にもなれば、臨床実習の中で、臨床の「死」の現場を目にする機会が多くなった。病棟には、難病である程度の生命の終わりが分かっている患者さんに出会った。あるいは、救急救命センターに次から次へと運ばれては亡くなっていく場面を見た。あるいは、心臓マッサージをして救命措置をぎりぎりまで行ったにもかかわらず亡くなっていく患者さんと、そこへ駆けつけた家族を見た。

 そして、医学部を卒業すると、医師としての研修が始まった。単なる風邪から、白血病、あるいは未熟児や脳性麻痺の児まで、様々な疾患を経験した。世の中には、人工呼吸器をつけたまま一生を送らなければならない子どもたちや、昨日まで元気に遊んでいたのに急に亡くなった子どもたち、産まれて数日しか生きられない子どもたちがいることを知った。

 医療現場で働くというのは、「死」を考えるという意味では特殊な環境であろうと思う。そこには、常に「死」がある。「死」は常に意識されると同時に、日常生活の中で「死」が起きている。つまり、「死」が日常になっている現場に、人々は日常でない「死」をかかえてやって来る。その意識にはかなりギャップがあると思う。その人々にとって、日常でない場所だからこそ、生(なま)の感情がそのままぶつかり合う場所でもある。時に医療現場では、日常生活で普通に目にすることのない怒り、悲しみ、喜びといった感情がさらけ出される。付け加えれば、病院は同時に、「生(せい)」を意識する現場でもある。小児科では、リスクのある分娩に立ち会うことも多いが、赤ちゃんの最初の産声は、本人にとっては初めてだが、病院では一日に何人も経験する。

 私も例に漏れず、「死」がいつの間にか「普通」のこととして認識されるようになった。もちろん、「死」を軽視するという意味ではない。そうではなくて、人間は「生」を受け、そして「死」を迎えるという当たり前の繰り返しが、当たり前のこととして自然に受け止められるようになった、ということである。それは人間が、食べ物を食べ、睡眠を取り、勉強や仕事や遊びをする毎日を繰り返し、子どもから大人になり、やがて老いるという営みの中で際だって特別なことではなく、その始まりと終わりを示す当たり前の出来事であるように私には思えるのだ。そしてその際に顕わとなる、悲しみ、怒り、驚き、喜び、といった感情も、それが起きることが「普通」の姿として、ある意味では客観的に受け止められるようになった。そのうえで、私自身が一緒にその感情を共有したり、あるいは患者さんや親御さんの気持ちを和らげたりする行動も、それが「普通」の人間の営みの一環であると私は感じながらも、そのような行動を取るようになった。この経験は、私の「死」の恐怖のイメージを軽減させ、むしろ受容する方へ向けたのではないかと思う。

 医師となってから、それまでとは違ってきたことがもう一つある。それは、自らが命を左右するかもしれない立場に立った、ということである。自分の指示一つで、目の前の患者さんの将来が決まってしまうかもしれない、というプレッシャーが、私を襲った。特に夜間の救急で当直をしているときには、私一人の責任で患者さんの治療方針を、瞬時に決めていかなければならない。小児科の場合は、夜間訪れる子どもたちのほとんどが軽症だが、時に最重症の患者さんが運ばれることもあった。

 患者さんの治療を行う際に、いつも心がけることは、常にリスクを考慮することだった。たとえば、二歳の男の子。朝から四十度の熱が出ているとする。小児の発熱の最大の原因は感染だ。感染で気をつけなければならないのは、どこに、何が感染しているのか。一番のリスクと言えば、急性脳症や髄膜炎である。その場合は意識障害や、項部硬直(首を曲げると首の後ろに痛みを感じたり、首が曲がらない)などがサインとなるため、そのチェックが必要となる。また、髄膜炎や急性脳症にも、さまざまな種類がある。いくつかの種類では後遺症も残らず完全に治癒する。しかし、重ければもちろん死に至る可能性がある。意識障害が認められれば、次に血液検査やCTなどの画像検査、髄液検査といった検査が必要になってくるし、認められなくても項部硬直が疑われる場合には血液検査をする、といった検査の取捨選択をする。

 このように書いていくときりがないが、医師の頭の中で、リスクは低いものから高いものに振り分けられ、その可能性を考慮しながら現状の状況判断や対処を導き出す。この過程において、医師は最大のリスクを「死」と考えたとき、その「死」までの距離を常に測っている、ということが言えるのではないかと思う。つまり、私が医学も知らない普通の学生から、医学部に入り、体の仕組みを勉強し、疾患や治療を勉強し、さらに現場を見て、自分で責任を取る立場になる、というプロセスの中で、私の頭の中には「死」までの距離を、漠然とでもイメージできたのではないだろうか。それはたとえば、目の前に川があり、そこへ飛び込む状況に似ている。底の見えない川へ飛び込んでいくよりも、底まで見えている川へ飛び込む方が恐怖感は少ない。「死」までの距離がつかめるということは、自らの「死」に対しても、他人の「死」に対しても、常に心の準備をいち早くすることができるようになった、ということだと思う。

 さて、「私」自身の「死」に対する意識は、このような体験によって形成されてきたが、さらに付け加えるならば、私は現段階で「死」の後にあるものは「無」であると考えている。その「無」の死生観は、多くの「死」を目にする医療現場で実際に死後の世界に遭遇したことがないからという理由にとどまらず、現実問題として、自らの「死」の受容に関して、死後の世界や現実を超える世界を語る世界観のどれもが役立つと思えないところから来ていると思う。「無」の世界では、「死」が自らに訪れた後には、「自分の存在がこの世から消えてしまった」という恐怖すらもう存在しない。「あのときもう少しこうしていればよかった」という後悔や、「もっとこんなことがしたかったのに」という願望も「死」の後にはない。だから、生きている間から自分の「死」を恐怖に思う感情を持つ必要はないし、実際自分にはないのだと思う。そうは言っても、「死」をあえて自ら選ぼうという気持ちがあるわけではないし、「生」をただ漠然とやり過ごそうという投げやりな気持ちがあるわけでもない。ただ明日私に「死」が訪れても、それが自然のことではないだろうかと私には思え、同時に「死」の後に私が体験するものは何もないということも自然のことではないかと思う。これを「受容」というべきかどうかは分からないが、私は自らが『生命飢餓状態』にはない、という限界のある現段階では、「死」への恐怖はほとんどない。

 以上が、私が考える「私」の「死」の受容の段階である。まとめれば、私が体験したことのある「死」への恐怖は、漠然とした得体の知れないものに対する恐怖であったこと、医療現場での経験から「死」が人間の営みとして「普通」のことだと認識されるようになり、さらに「死」までの距離感がつかめるようになったこと、そして、『生命飢餓状態』に陥っていない状態を前提とするという限界はあるが、現段階では「死」への恐怖はほとんどないと自分では認識しているということだ。

 私が医療現場で働いていたという特殊性はあるにしても、誰もが「死」という自分の身にかかる事実は共有するものであり、だからこそ「死」は誰もが受容し得るものであると思う。むしろ、「死」は誰もが受容し得るようにできているものではないかとさえ思えてならない。

4. さらなる考察へ向けて

 今回は「死」の受容について、特に「私」の「死」を、「私」が受容することについて、私自身になるべく引きつけて考えて来た。これは「死」に対する考察のスタート地点であり、まだまだ不十分な点を含めて今後も考察を進めていきたい。特に、「死」をどのように捉えているのかを多くの人々と語ることは、「死」の受容への第一歩であり、より多くの「死」の語りの機会を持っていきたいと思う。

■脚注
*1 V.ジャンケレビッチ 『死』 仲沢紀雄訳 みすず書房1978年
*2 岸本英夫 『死を見つめる心 ガンとたたかった十年間』 講談社文庫 1990年
*3 『松下幸之助発言集』第37巻 PHP研究所 1992年
*4 キューブラー・ロス 『死ぬ瞬間』 中央公論新社 2001年
(死を目前にした人の心理状態を、否認と隔離、怒り、取引、抑うつ、受容の五段階に分類した)

■上記以外の参考文献
・ 鷲田清一 『死なないでいる理由』 小学館 2002年
・ 小浜逸郎 『死の哲学』 世織書房 2002年
・ 徳永進 『死の中の笑み』 ゆみる出版 1982年
・ アルフォンス・デーケン 『死とどう向き合うか』 NHK出版 1996年
・ 松下幸之助 『私の行き方考え方』 PHP文庫 1986年

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坂野真理の論考

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Mari Sakano

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第26期

坂野 真理

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虹の森クリニック院長/虹の森センターロンドン代表(子どものこころ専門医)

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