松下政経塾 The Matsushita Institute of
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歴史観
2005年9月

塾生レポート

世界史の流れを変えた日露戦争
日下部晃志/卒塾生

私たちには忘れてしまってもよいことと、忘れてはならないことがある。誇りをもって語り継ぎたい日露戦争戦勝100周年記念、歴史観レポート第二弾

 

1 はじめに

 2005年は日露戦争が終結して100周年、大東亜戦争が終結して60年の年にあたる。そこでふと気づいたことがある。日露戦争に関する公式の式典がない、ということである。大東亜戦争に関して言えば、終戦60周年と銘打って、総理大臣が談話を発表したり、各メディアが特集を組んだりしているのだが、日露戦争に関しては、民間における、記念講演や展示会はあったとしても、圧倒的にメディアに取り上げられる機会は少ない。単純に日露戦争のほうがより昔だから、ということもあるだろう。「敗戦」を反省することのほうが大事だ、ということもあるのかもしれない。また、ことさらに「勝利」を喧伝しないのも日本人の美徳の一つ、ということもあろう。しかし、アメリカであれ、中国であれ、対日戦勝60周年の式典を行っているし、ロシアだって、対独戦勝60周年の式典をおこなっているではないか。各国によって、それぞれの事情や意図はさまざまであろう。しかし、彼らが式典を行う理由の最もおおきなものは、「国民の誇りを涵養する」ということであろう。自分たちの祖先はかつて、強大な敵と戦い、これを打ち負かしたのだ、と国民に伝えることによって、祖国への愛着と誇りを呼び覚まし、先人たちの苦労を偲ぶのである。そうした歴史感覚を宿してこそ、個人は「国民」になるのだと私は思っている。

 一世紀前、わが国の安全を脅かす恐ろしく強大な敵に、先人たちが全知全能を振り絞って立ち向かったこと、そしてその結果は、世界史に新たな局面を作り出すほどのインパクトがあったこと。そして、現代にも通ずるさまざまな教訓があること。たとえ政府が語らずとも、私は誇りをもって語りたいと思う。

2 日露戦争の大義

(1)ロシアの南下政策

 明治維新を達成した日本が最初に対外的な戦争を行ったのが日清戦争(1894)である。この戦争の性格は、戦後の史観によれば、日本と清が朝鮮を我がものにしようとして衝突したかのような印象があるだろうが、日本と清では完全に朝鮮に対する認識が違うのである。日清戦争『開戦の詔勅』には

朝鮮は帝国が其の始めに啓誘して列国の伍伴に就かしめたる独立の一國たり。而して清国は、常に自ら朝鮮を以て属邦と称し、陰に陽にその内政に干渉し
とあるように、日本が独立国として認識しているのに対して、清は宗主権をもつ朝貢国としか認識していない。そもそも、日本が朝鮮に期待したのは、日本同様に近代化を行って、列強の進出、特にロシアの南下に共に備えて欲しいという役割であった。

 ここで、なぜロシアが南下政策をとったか、ということにも触れておきたい。

 ロシアの発祥地はカルパティア山脈の北側、ポーランド東南部、ウクライナの西部と考えられているが、この西洋と東洋の中間に位置する地勢上の特性から、様々な侵略を受けてきた。11世紀にはバイキングの侵略、13世紀にモンゴルの侵入を受け、15世紀にかけての250年間、モンゴル(キプチャク汗国)に支配されていた。いわゆる「タタールの軛」である。ロシアの膨張政策の根底には、度重なる外敵の侵入のため、国の外縁を外へ外へと広げ、緩衝地帯を作ろうという気持ちが作用していると考えられる。その結果、16世紀になると、東方への拡大が始まり、1706年にはカムチャッカ半島を占領し、太平洋に達した。また、同時期、北方戦争によって、スカンジナビア半島へも領土を広げ、バルト海への進出を果たすことになる。しかし、冬季には港が凍って使用不可能になるため、冬でも凍らない不凍港を求めて、南へ拡大する政策を採るようになる。当初は、黒海から地中海へのアクセスをもとめて、オスマントルコ、イギリス、フランスと衝突するのだが、クリミヤ戦争(1853~56)に敗れ、極東方面への南下に方針を転換する。また、中央アジア経由でインド進出を狙ったが、イギリスとアフガニスタンで衝突したため挫折し、極東方面への進出へと変更を余儀なくされるのである。1858年には清国と愛琿条約を結び、黒竜江以北の地を割譲させ、1860年には北京条約を結び、沿海州を割譲させた。

 その沿海州に念願の不凍港を建設する。それが、軍港・ウラジオストックである。ウラジオストックとは「東方支配」という意味であるし、また、日清戦争前後の状況からすれば、シベリア鉄道建設しており、これが完成すれば軍隊の大量輸送が可能になる。従って、ロシアの南下政策がとどまらず、朝鮮半島がロシアの領有するところとなれば、対馬・九州も風前の灯火となる。日本が朝鮮の独立をもとめて清と衝突せざるをえなかったのはそういう事情からであった。

(2)祖国防衛のための戦い

 維新以来、営々と軍事力を整備してきた日本は清を圧倒し、結果として、朝鮮の独立を認めさせ、朝鮮史上初めて、「大韓帝国」を名乗ることになったのは特筆すべきことである。このことからも、朝鮮を征服しようという企図は日本にはなかったということは明らかである。日本の自存自衛を全うするためのやむを得ざる処置であったと言いうる。

 また、遼東半島、台湾を領有することになるが、三国干渉(1895)により、遼東半島は返還せざるをえなくなった。「遼東半島の割譲は東洋の平和を脅かすものである」というのが彼らの言い分だったが、それをいうならば、ロシアこそ南下政策を止めるべきではないか、また、ロシアは、破廉恥にも返還された遼東半島を租借し、旅順に軍港を作り、要塞化を進めるのである。しかし、残念ながら、それが当時の国際政治の現実であった。三国干渉により、当時の日本は国力がまだまだ脆弱であること、国際社会における発言力、政治力のなさを露呈し、以来、「臥薪嘗胆」が日本のスローガンとなり、ロシアとの決戦は、避けて通れないという国民的合意と国家目標が醸成されることになる。

 一方で、ロシアはますます露骨に極東進出を進める。北清事変(1900)に際して満州に出兵し、事変解決後も撤兵をせず、占領を続けているのである。更には、親露派が政権を握った韓国を保護国化し、鴨緑江河口の竜岩浦をポート・ニコラスに改称し、不凍港を手に入れるとともに、遼東半島沿岸の制海権を握ったのである。対馬は目と鼻の先である。元寇の際にも、蒙古軍は遼東半島から対馬を経て、九州に達している。当時の日本にはロシアの行動は元寇の再来に見えたとしても不思議はない。日本としては満州まではロシアの勢力圏としてもよいという「満韓交換論」で事態の解決を図るが、一蹴されてしまう。こうして、ロシアの動きを観てくると、日露戦争の意義は、日清戦争と同じく、朝鮮や満州の支配を巡る戦争ではなく、第一義的には日本そのものを守る、祖国防衛戦争と見るのが実態といえるだろう。開戦前に明治天皇が詠まれた御製には「四方の海 皆同胞(はらから)と 思ふ世に など波風の 立ち騒ぐらむ」とある。日本としては、皆同胞と思いたくても、日本に対する波風は如何ともしがたかったのである。

 こうしてロシアとの開戦もやむなしとなったわけであるが、それを決心できたのは日英同盟(1902)によるところが大きい。イギリスもまた、アジアにおけるロシアの南下を憂慮していたが、陸海軍を増派する余裕はなく、日本と同盟を結ぶことで、アジアにおける権益防衛の負担軽減を図ったとみられるが、当時、「光栄ある孤立」にあったイギリスとアジアの国が軍事同盟を結ぶということは、世界の常識を打ち破るエポックメーキングなことであった。しかしながら、それでも両者の国力の差は隔絶の開きがある。特に、陸海の相対戦闘力比は以下の通りであった。


近代日本戦争史(陸戦学会刊)を基に作成


(3)日露戦争の教訓

 この兵力の劣勢を覆しえた要因は何か。戦術レベルでは、奉天の戦いや、日本海海戦など、重要な局面での陸海軍の活躍が有名だが、この戦場での勝利をもたらしたものは、何よりも「情報」だったと、私は考える。

1)西欧列強の情報を取得し得たこと。特に日英同盟によって、世界的なネットワークを誇るイギリスの収集した情報を利用できたメリットが大きかった。特に、戦局の帰趨に重大な影響を与えると考えられたバルチック艦隊東航については、艦隊を追跡していた英海軍によって情報がもたらされ、大本営海軍部では、一週間ごとの、各艦艇の行動状況を地図に詳細に記入した「東航露国太平洋第二艦隊所在表」を作成している。また、ロシアと同盟関係にありながら、複雑な思惑を秘めていた独・仏の情報も得られた。特にロシア宮廷や軍部の内部情報は、このルートから入手できた。

2)ロシア帝国内部の民族対立や反体制運動を利用できた。明石元二郎大佐がフィンランド、ポーランド・ユダヤ人の民族主義グループやロシアの革命勢力に資金援助を行い、反体制運動を扇動し、そのため、ポーランドやフィンランドや治安が悪化し、徴兵業務が妨害され、また治安維持のため、各地に警備の部隊を貼り付けなければならず、本来ならば極東に転用されるはずの兵力を欧州に足止めした。約10コ軍団をヨーロッパに足止めしたとも言われる。

3)秘密情報組織として世界中に張り巡らされているユダヤ・コネクションを利用できた。当時、ロシアは「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人迫害を行っており、当然、ユダヤ人のロシアへの憎悪も強く、ロシアと戦った日本に多くのユダヤ人が協力した。外債の募集でも大いに助けられたが、ロイターをはじめとする欧米の主要新聞・通信社にはユダヤ人の勢力が強く、貴重な情報が得られた。

情報、または情報活動によって、圧倒的に優勢な敵の兵力を、極東方面では、ほぼ互角にすることができたのである。

 一方で、欠陥もあった。

1)情報活動が、組織的というより、属人的性格が強かった。すぐれた情報活動は、明石大佐、石光大尉、青木大佐のような個人の資質と努力に負っている部分が大きかった。

2)開戦前では、陸海軍の情報活動が全く分離しており、協力関係がなく、このためのロスが大きかった。

3)暗号解読能力は、西欧列強やロシアに比べて格段に劣り、ロシアの軍暗号や外交暗号は解読出来なかった。逆に日本の暗号は秘匿性が低く、外交暗号は完全に解読されていた。

 以上のように、情報活動には長所と短所があったのだが、いずれも、現代に通じる教訓といえよう。一元的な情報組織を持たず、各省庁が個別に情報収集を行い、また、防諜も行わず、スパイやエシュロンによって情報をとられ放題の今の日本にとって、先人達が行った情報活動は大いに参考になる。と、いうよりはなぜ、明治時代にできていたことが今できないのか。忘れてしまったのか、それとも過剰な自己規制をしているのだろうか。

3 世界史の流れを変えた日本の勝利

 ともあれ、この劣勢を覆して白色人種の大国・ロシアに勝利したことは、アジア及び世界の抑圧された民族に希望と自信を与えたのである。有色人種でも白色人種に負けない近代国家を作れるのだと。インド独立運動の指導者ネールの「日本の情熱が私をかき立てた。民族主義的な思想が私を満たした。私はヨーロッパの束縛からインドとアジアの自由を取り戻すための瞑想にふけった」という言葉は象徴的である。

 この勝利に影響され、インドでガンジーによる独立運動が始まり、清では日本式に教育プログラムを改善するため、隋唐以来の科挙制度を廃止して、それに代えて日本への留学を行うようになった。また、日本の勝利は有色人種だけでなく、ロシアに抑圧されていたポーランドやフィンランド等の独立にも寄与した。

 日露戦争の意義は、何といっても、自国の防衛が第一であって、当時の日本として、他民族の独立まで考える余裕などなかったに違いない。しかし、結果を見れば、日本の勝利は、世界史の流れを変えるほどのインパクトを持っていた。それまでの「世界史」といえば、コロンブス以来の白色人種中心の世界史に他ならなかった。しかし、日本の勝利によって、白色人種以外の国が、世界史のプレーヤーたりえることを示したのである。

 世界史の流れを変えるほどの壮挙から今年で100周年。当時、世界最大の陸軍国ロシアを破り、わが国を守ったことは、他の国がやってくれたわけではない。ほかでもないわが国が、私たちの祖先が実現したことである。もっと感謝と誇りの気持ちをもって、全国民的に思いを致す機会があってもよいと思うのだが。


<参考文献>

・平間洋一著『日露戦争が変えた世界史』 芙蓉書房出版
・中村粲著 『大東亜戦争への道』 展転社
・清水馨八郎著 『破約の世界史』 祥伝社
・近代戦史研究会編 『情報戦の敗北』
・陸戦学会編 『近代日本戦争史』
2005年9月 執筆
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