松下政経塾 The Matsushita Institute of
Government and Management

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歴史観
2005年5月

塾生レポート

維新未だ終わらず
日下部晃志/卒塾生

明治維新は西郷隆盛なくしては、なしえなかった国家の大業である。彼が維新において果たした役割と彼が目指した国家像を通じて、現代に生きるわれわれのなすべきを考察する歴史観レポート第一弾

 

1 はじめに

(1)明治維新とは

 明治維新を自らの切り口で論ぜよ、というのが、本歴史観レポートの命題であるが、その前に「明治維新」について考えてみたい。

 教科書的にいえば、1867年の王政復古の大号令から1877年の西南戦争までの間に行われた国家の大変革を指して「明治維新」というのが一般的なようである。この見方の視座としては、「武士の世が終わった」ということになるだろうか。

 この見方からすると、まずは、戊辰戦争によって、幕府及び佐幕勢力を制圧する。残った261の藩は版籍奉還と廃藩置県によって、土地と民を返させ、中央集権の基礎をつくる。さらに残った武士階級は、「士族」とし、残しつつも、秩禄処分、廃刀令によって、その力を削いでいき、止めとして、徴募された農民からなる政府軍によって、一連の士族反乱が鎮圧されて、名実ともに武士は消滅し、近代国家建設の要件が整ったことをもって、「維新」と解釈されているのではないだろうか。

 この、武士階級を消滅させ、近代国家を建設するという視点での維新に最も貢献したのは、疑いもなく、「大西郷」こと西郷隆盛に他ならないであろう。武士階級の消滅に関する3つの大きな結節に西郷の存在が非常に大きく影響を及ぼしているからである。

 西郷の人生については、既に人口に膾炙しているだろうから、本稿では詳しく触れないが、3つの節目にいかに関わり、新生日本国家の誕生にいかに貢献したかということにふれながら、西郷が目指した維新像に迫ってみたい。

2 時代のスターター「西郷隆盛」

(1)戊辰戦争

 第一の結節は、大政奉還から戊辰戦争までの「倒幕」である。薩長土の連合軍、いわゆる官軍の参謀、すなわち実質上の総司令官として、倒幕の原動力となったことである。

 戊辰戦争緒戦の鳥羽伏見の戦い時点では、官軍と旧幕軍の戦力は幕府が断然優勢であった。兵員数は3~5倍であり、名城・大阪城を根拠地とし、また、江戸からの増援も可能であるし、特に海軍力は、幕府艦隊と連合軍では比較にならないほどだった。この劣勢を官軍はひっくり返したわけである。一般的には官軍の火器が優勢だったため勝利したと言われているが、この時点では火器的には旧幕軍の幕府歩兵隊は官軍と互角だったし(両軍ともミニェー銃を装備)、幕府歩兵伝習隊に至っては薩長連合を凌駕していた(幕府伝習隊は後装式のシャスポー銃すら装備していた)。にも関わらず、官軍が勝ちを得たのは、ひとえに指揮官の優劣の差であろう。内村鑑三の『代表的日本人』には、

 最初の会戦が伏見に於いて開始された時、彼の泰然自若たる態度は、官軍の支柱だった。一人の使者が戦場から彼の許に来て言うた、「願わくば援兵を送られたし。我等はわずか一小隊にすぎず、敵の砲火は我等にむかひて烈しくある」と。

 もし、並みの指揮官ならば、他の戦線から兵力を転用して援護するところである。ところが、西郷は何としたか。続きを引用する。

西郷大将は言うた。「皆、死せ、然してのち援兵を送らん」と。使者は帰り、敵は撃退せられた。斯かる大将を有った側は、勝たざるを得なかった。

 一見、冷たい指揮官のようにも思えるが、兵力的に不利な状況で予備兵力が少ないこと、狼狽して兵の配置を換えてしまうようでは、他の戦線にも動揺が拡がってしまうこと等も考慮したのであろう。私もかつて、一部隊を率いた経験からいうと、救援を求めてきた部下に「皆死んだら救援を送る」とは心情的にとても言えるものではない。西郷とて、情においては何とかしてやりたかったはずである。しかし、「倒幕」のために、強靭な意志でその情を押さえ込んだのである。

 西郷の強烈な意思に支えられた官軍は有利に戦いを進め、「錦の御旗」が戦場に翻ると、大坂城にいた旧幕軍総大将・徳川慶喜は江戸城へ退いた。総大将を失った旧幕軍は、当初は有利な状況にありながらも、総崩れとなったのである。この勝利によって、日和見を決め込んでいた西日本の諸藩が官軍に投じ、戊辰戦争は最終的には官軍の勝利となり、新政府の政治的基盤ができたのである。

(2)廃藩置県

 第二の結節は、廃藩置県であるが、これも西郷の存在なしにはなしえられなかったであろう。近代国家建設のために必要な中央集権を実現するためには、廃藩置県は必要不可欠だったのだが、当時、日本に君臨していた261の大名家、家族も含めると約190万人、当時の人口が約3000万として、全国の6.3%の人々が一斉に失業することを意味する。

 藩主は領主権(土地、人民の支配権)、徴税権を奪われ、藩士は、これまで拠り所とした藩を失うわけで、現代でいえば、政府が民間企業を接収して、国営企業にし、社長と社員はすべて国から派遣する、といっているのと同じである。また、鎌倉幕府以来約700年にわたって継続してきた、土地、人民に対する統治・支配権を武士が保有するという構造が、一日にして転換してしまうという意味を持っているのである。しかも、これを断行したのは当の武士階級の人間である。これは、現代の構造改革の比ではない。まさに、明治維新の肝というべき大改革である。

 当然、猛烈な反発が予想され、再び大乱が起こる可能性もあった。「廃藩置県の詔」が出されたのは明治4年の7月14日だが、政府首脳が集まって、諸藩が反抗したら、どうすべきかを協議し、小田原評定のようになってきた。当初、これを黙って聞いていた西郷は「このうえ各藩がグズグズいうのであれば、オイドンが御親兵を率いて打ちつぶす」と言い放ったので、議論は一瞬のうちに片付いたという。

西郷は、廃藩置県に先立って、薩摩、長州、土佐の三藩から兵力を新政府に供出させ、8000名の御親兵を編制し、反乱があれば鎮圧するつもりだったのだが、結局この時は、一切の反乱は起こっていない。

 このとき、西郷が政府の中心にドンと構え、御親兵がにらみを利かせていればこそ、難航が予想された廃藩置県という大事業がスムーズに遂行されたのである。

(3)西郷の役割

 これら二つの出来事をみただけでも、西郷がいかなる重責を果たしたかはお分かりいただけるであろうか。内村鑑三は、『代表的日本人』のなかで、維新における西郷の役割をこう評している。

 勿論、如何なる人も一人にて一国民を再建することはできない。我我は新日本を西郷の日本と評すべきではない。斯く言うは確かにこの事業に参加せる他の多くの人々に甚だ不公平を行うものである。実際、多くの点に於いて、西郷には同僚の間に彼より傑れた人人があった。(中略)併し、余輩は、維新は西郷なくして可能であったか如何かを、疑うものである。木戸なり、三條なりは我我になかったとせよ、而かも維新は、おそらくあれほどに成功はしなかったとしても、我我は其れを有ち得たであろう。必要なるは、全運動に出発の合図を与えうる始動力であり、其に形を与え其を「天」の全能なる法則によりて命ぜられた方向に推進せしめうる、人物であった。ひとたび出発して方向が定まれば、残余は比較的容易な仕事であった。

 維新という大業は、無論、西郷一人のみの力で、為しえたわけではないが、維新という運動のスターターであり、方向指示者は、西郷をおいて他にはなかった、ということである。近代日本を手漕ぎの船に例えてみると、船を動かすための最初の一漕ぎには物凄い力を要するが、何回か漕いで、いき足がついてくると、その後の一漕ぎは勢いがついているので楽なのである。最初の一漕ぎと船の舳先を目的地に方向付ける役目を負っていたのが西郷だったと、内村は述べているのである。

 西郷の最初の一漕ぎによって、スタートした新生日本ではあったが、西郷はどういう方向に船の舳先を向けたかったのだろうか。

3 西郷征韓論説への反駁~西郷が目指した国家像~

 明治4(1871)年11月12日、岩倉具視を特命全権大使とし、副使に木戸孝允、大久保利通が任命された岩倉使節団が、横浜を出港した。この岩倉使節団の目的は、江戸幕府が締結した修好通商条約の条約改正の下準備とヨーロッパ、アメリカなどの文明諸国視察を兼ねていた、とされる。しかし、この時は、まだ廃藩置県が行われて4ヶ月しか経っておらず、いつ日本に騒動が起こるかもしれない状況でのこの使節団の出発は、時期尚早で、実際は、大久保が、島津久光が廃藩置県に対し、大きな不満を持ち、西郷と大久保を憎んでいるということを聞いていたので、ほとぼりがさめるまで、それから逃げ出したいがための使節団の派遣だったという説もある。使節団が出発すると、西郷首班の内閣は、次々と新しい制度を創設し、改革を実行していった。主なものをあげると、

1)封建的身分差別の撤廃、四民平等の原則の推進に関連する政策
 ・華士族と平民の結婚許可
 ・徴兵令の布告
 ・散髪廃刀の自由、切り捨て・仇討ちの禁止

2)基本的人権の尊重に関連する政策
 ・人身売買禁止令の発布
 ・家抱・水呑百姓の解放、農民職業自由の許可
 ・キリスト教解禁

3)近代的土地制度
 ・田畑永代売買解禁・地券渡方規則
 ・地租改正の布告

4)教育の普及政策
 ・学制の発布
 ・東京女学校、東京師範学校の設立

5)その他
 ・警視庁の発端となる東京府邏卒の採用
 ・各県に司法省所属の府県裁判所の設置
 ・国立銀行条例の制定
 ・太陽暦の採用
 ・大坂-神戸間、東京-横浜間鉄道開通

など、小泉改革もびっくりの斬新な改革を次々と打ち出していったのである。当然、これら全ての改革が西郷の発案によるものではないが、西郷が政府の首班(筆頭参議)として成し遂げた改革であることは、まぎれもない事実である。よく、西郷に政治能力はなく、明治政府においてただの飾り物に過ぎなかったと言われているが、しかし、ただの飾り物でしかない西郷を中心として、このような思い切った改革が次々と出来るだろうか。明治新政府がやらなければならなかった諸改革のほとんどが、この西郷内閣で行われたわけで、これをもってしても、西郷の政治手腕を高く評価するべきで、「軍事的指導者としては有能だが・・・」という批判はあたらず、彼自身、明確な近代国家の青写真を持っていたということができるだろう。

 また、ただ近代国家としての様態を整えるだけの近代化だけでなく、彼自身の国家観の芯ともいうべき「道義を守る」国としての「文明化」を強烈に意識している。『南洲翁遺訓』には、

文明とは道の普く行わるるを賛評せることにして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言うには非ず。(中略)予嘗て或人と議論せしことあり、西洋は野蛮じゃと言いしかば、否な文明ぞと争う。否な野蛮じゃと畳みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆえ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇懇説諭して開明に導くべきに、左はなくして未開蒙昧の国に対するほどむごく残忍の事を致し己を利するは野蛮じゃと申せしかば、其の人口を莟めて言なかりきとて笑われける。
とある。

 西郷は「文明」とは、正義が広く行われること、と言っている。この点こそ、西郷が日本の舳先を向けたかった方向だったと考えられる。国家の「みてくれ」だけ整えても、それは近代化ではあるかもしれないが、真の文明化にはほど遠い。道、即ち正義が内にあってはひろく踏み行われ、かつ、国際社会においても、正義を踏み行う国であれ、としているのである。その点からすれば、未開の国に対し、苛烈な扱いをして、搾取する当時の西洋の国々は、とても文明国などではなく、彼にとっては「野蛮」だったのである。

 しかしながら、日本という国を彼の言う「文明」国にする前に、西郷はいわゆる「明治6年の政変」により、下野することになる。

 明治6年の政変とは、征韓論争に敗れた西郷や板垣退助、江藤新平ら参議5名が辞職、下野したという事件で、一般的には西郷らは外征派(朝鮮を武力で征伐する派)で、大久保ら内治派(財政的困難を考慮し、内政を優先する派)と認識されている。しかし、それはまったく事実と反している。まず、西郷は公式の場で、朝鮮を武力で征伐するなどという論は一回も主張しておらず、また、今まで書いてきたように、当初は板垣らの兵隊派遣に反対し、平和的使節の派遣を主張し、自らがその使節に当たろうとしている。何より、未開の国に対し、苛烈な扱いをして、搾取する当時の西洋の国々を「野蛮」と断じていた西郷が、隣国を武力で征服するということを主張するはずがない。いわば、「征韓論」ではなく「遣韓論」の立場であった。私は、この政変の本質は、外交問題の処理の方法を巡る対立などではなく、政府内の権力争いだと考えている。おそらくは、岩倉使節団に参加していた木戸孝允、大久保利通らの薩摩・長州派がめざましい業績をあげていた西郷留守内閣の板垣退助、江藤新平ら土佐・肥前派から政権を奪還しようと企図し、留守内閣が決定していた朝鮮への使節派遣を潰そうとしたところから生じた政争である。あくまで、西郷はその巻き添えを食った形になったのだろう。その証拠に、内政を優先させるのが先決であると主張した大久保らがその後にした事と言えば、明治7年には台湾を武力で征伐して清と事を構え、翌8年には朝鮮と江華島で交戦し、朝鮮と事を構えている。朝鮮に対しては、軍艦に兵隊を乗せて送りこみ、兵威をもって朝鮮を屈服させ、修好条約を強引に結ばせた。西郷の平和的使節派遣に反対し、内政の方が優先するといった大久保がこんなことをやってのけているわけで、これをもってしても、外征派対内治派という構図が、いかにまやかしであったかが分かる。いつの間にか歴史の通説において、西郷を征韓論の首魁と決め付けるようになったのは、大久保らが自分らの正当性を主張したいがため、後付でそういう理由付けをせざるを得なくなったからであろう。

 こう考えれば、西郷は、外交においても、きちんと道義を踏まえる国家像を追求したかったのであろうが、それは叶うことはなかった。下野(本官の陸軍大将はそのまま)した西郷は、鹿児島で私学校を設立し、人材養成をしていたのであるが、武士の消滅という時代の流れの渦中に身を置くことになる。それが、第3の結節である西南の役である。

4 第3の結節

 西南戦争をモチーフにした軍歌「抜刀隊」の歌詞にはこうある。

吾は官軍我が敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大将たる者は 古今無双の英雄で
これに従うつわものは 共に慄悍決死の士
鬼神に恥じぬ勇あるも 天の許さぬ反逆を
起こせし者は昔より 栄えしためし有らざるぞ(以下略)

 「敵の大将」が西郷のことであるが、しかし、「敬天愛人」の人、西郷が「天の許さぬ反逆」にどうして与しようか。

 西南の役の戦況をみると、明治10年の2月15日に鹿児島を出発した薩軍は、当時、鎮台が設置されていた熊本城に直行し、総攻撃をかけたのだが、頓挫し、長囲策に転じて、時間を浪費してしまう。その間に、政府軍は増援を九州に送り込むことに成功するのだが、なぜ、西郷ほどの者が、天下の名城・熊本城を強攻するような戦略をとったのだろうか。時間がたてばたつほど、彼我の兵力の差が大きくなるのはわかりきっている。兵力の一部を割いて、鎮台への抑えとし、主力は九州北部に進出して、長崎・博多などの九州の重要な港湾を押さえておけば、政府軍の上陸地点は制限されるし、船を使っての大坂や神戸への進出も可能になる。にもかかわらず、それをせずに熊本城に拘泥してしまったのはなぜだろうか。実は、勝つつもりがなかったのではないかとすら思えるのである。薩軍の作戦計画は西郷ではなく、桐野利秋や篠原国幹がたてていたとされるが、本当に勝つつもりならば、西郷は作戦の変更を指示することは可能であったろう。でも敢えてそれをしなかったように思えてならない。

 西南の役は俗に言う「士族の反乱」の最大のものである。明治4年の廃藩置県以後、武士階級は士族となるが、未だ、封建制度の下で保持していた特権を「秩禄」として支給されていた。しかし、国家財政を圧迫していたため、漸次縮小・整理され、明治8年の金禄公債発行条例をもって、廃止されることになるが、これに伴って士族の不満は高まり、反乱が頻発する社会情勢であった。しかし、秩禄処分はいわば、廃藩置県の当然の帰結であり、廃藩置県の一翼をになった西郷がそのことに対して責任を感じていたであろう事は想像に難くない。だからとて、士族の反乱を全国規模に拡大させるわけにもいかず、すでに動き出した近代日本を停滞させないためにも、政府軍が維新の英雄が率いる反乱を完膚なきまでに鎮圧するという演出をしてみせる必要があったのではないか。これは、私の推論でしかないが、私学校党の決起がもはや不可避であると感じた西郷は、武士階級の消滅という最後の仕事を自らが創設した政府軍をもって、自らを討たせることでもって行おうとしたのではないか。先に西郷は「時代のスターター」と述べたが、武士階級を完全に消滅させ、新たな時代を創造するためには、この究極の人身御供が必要不可欠であったわけであり、その役割を引き受けられるのは西郷しかいなかったであろう。

5 維新が完結するとき

 西南の役を経て、明治日本は更に近代化を進めていくわけであるが、西郷の言うような「道義」を踏み行う真の「文明国」になりえたのだろうか。その後の大東亜戦争までの歴史をみれば、道義を踏まえるというよりは、むしろ西郷が「野蛮」と断じた西欧により近くなってしまった部分が大きいのではあるまいか。そして、戦後は、敗戦の反動からか、自らの信ずる「道義」を主張することに、あまりにも臆病になりすぎてしまった。

 西郷はこうも言っている。

正道を踏み国を以て斃るるの精神なくば、外国交際は全かるべからず。彼の強大に萎縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順する時は、軽侮を招き、好親却って破れ、終に彼の製を受けるに至らん。

 国家にとって、最上の価値を持つものは何か。西郷は「正義」「道義」だとしている。それを踏み行う覚悟がなければ、例え結果として関係が円滑であっても、国際関係を全うしている、とは言えないのである。この意味からすると、戦後60年、日本は一切、戦争に関与こそしていないが、真の道義国家たりえたかは疑問である。

 薩人というのは、ふしぎな文化をもっていました。
「貴方(おはん)、たのむ」
という文化です。自分は利口だと思うより、自分はバカだと思い込む文化で、むろん、すべての薩人がそうではありません。しかし、そのようにする薩人が節目の薩人だとされたことはたしかです。(中略)ここで、幾人でも明治の薩摩人のなかから、そういう型のひとびとの例をあげることができますが、この型の最大の具現者が西郷隆盛でした。

作家・司馬遼太郎の西郷評である。西郷は彼が目指した道義国家の建設を、後の世代に託して、城山の地に散っていったと私は考えたい。

 自らの「正義」とするところを自らの主体性に基づき判断しつつも、独善に陥らず、「正義」のひろく踏み行われる世界の実現を目指していくような国、真の「文明」国にして、真の「道義国家」を実現したときにこそ、西郷の目指した「維新」は完結する。
西郷と同じく、「時代のスターター」としての役割を担い、「維新」を完結させることが恐らく、あまりに大きなテーマだが、私なりの使命だと考えている。

<参考文献>

・内村鑑三著『代表的日本人』 岩波文庫
・山田済斎編『西郷南洲翁遺訓』岩波文庫
・司馬遼太郎著『「明治」という国家[上]』NHKブックス
・伊牟田比呂多著『征韓論政変の謎』海鳥社
・芳即正、毛利敏彦編著『図説 西郷隆盛と大久保利通』河出書房新社
・三宅雪嶺著『同時代史(明治六年、三傑論)』
2005年5月 執筆
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