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アジア・太平洋戦争での旧日本軍戦没者遺骨収容事業に参加して 〜パプアニューギニア・ブーゲンビル島戦域にて散華された英霊に捧ぐ〜

アジア・太平洋戦争での旧日本軍戦没者遺骨収容事業に参加して 〜パプアニューギニア・ブーゲンビル島戦域にて散華された英霊に捧ぐ〜 アジア・太平洋戦争での旧日本軍戦没者遺骨収容事業に参加して 〜パプアニューギニア・ブーゲンビル島戦域にて散華された英霊に捧ぐ〜 アジア・太平洋戦争での旧日本軍戦没者遺骨収容事業に参加して 〜パプアニューギニア・ブーゲンビル島戦域にて散華された英霊に捧ぐ〜

この度、自衛官経験者という経歴から、パプアニューギニアにて、アジア・太平洋戦争における戦没者の方々の遺骨収容事業に参加する機会を得ました。今回は、その事業の内容と参加にあたって考えた事について、報告したいと思います。
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Ⅰ.旧日本軍戦没者遺骨収容事業とは?
—はじめに、参加した事業に関して概説したいと思います。
 
1 本事業は、アジア・太平洋戦争(※前後の紛争も含む)における戦没者の遺骨を収集するため、日本が主権を回復した昭和27年から今日至るまでの一連の活動に当たります。地理的には、北はアリューシャン諸島から南はパプアニューギニア、さらに西はインドに至り、広範囲で展開されています。
2 アジア・太平洋戦争における海外戦没者数は、約240万柱(※本レポートでは、戦没者の数える時に“柱”を用います。)とされており、これまで約70年間の捜索で約128万柱が収容されました。しかしながら、まだ全体の半数の御柱が未収容のままにあります。
3 近年では、戦後長期間が経過し、戦友(※出征者を指します)の多くが他界し、遺族の高齢化が進んでいます。そのため遺骨収容事業は年を経るごと困難になって来ています。そうした中で、国は平成28年に“戦没者遺骨収集推進法”を制定し、防衛省、外務省及び厚生労働省などの政府機関の連携により、平成36年(戦後80年)を一つのベンチマークとして遺骨の収容の促進を図っています。
 
Ⅱ.パプアニューギニア・ブーゲンビル戦域とは? 
—収容活動の現場について、ここでまとめておきたいと思います。
 
1 ブーゲンビル島は、現在はパプアニューギニア独立国に属する島であり、南北に約200km、東西に約80kmの熱帯雨林に覆われています。同時に火山島であり、島の中央部には2000〜3000m級の山間部が存在します。急峻な地形とジャングルが共存しており、島内での移動は今日でも簡単ではありません。天然のパパイヤ、ココナッツなどはあまり見られず、また鳥獣も多くなく、食糧の現地調達は殆ど望めない地域です。
2 また、ブーゲンビル島と聞くと、帝国海軍・山本五十六元帥が戦死された場所として連想されます。一方で、ガタルカナル島と同程度の戦没者がいる戦場でもありました。今回の収容現場であるタロキナ地区では、日本軍は米軍航空基地の破壊を企図した水陸挟撃作戦(※内陸部から陸軍、海岸部から海軍の攻撃)を2度試みました。しかしながら、装備の乏しい日本軍は米軍の反撃に敵わず、さらには豪軍の追撃も重なったことから、生還者が殆どいない凄惨な状況であったと言われています。軍籍名簿などから照合すると、未だに数千を超える御柱が遺されていると見られています。
 
Ⅲ.従事した遺骨収容作業について
—この度、私が従事した作業について説明したいと思います。
 
1 遺骨収容のうち、特に『遺骨鑑定』という作業の補助を致しました。主な内容として、現地の住人などにより発見された遺骨の洗骨を行うことや、遺骨を部位毎ごとに分けること、遺留品について調べることなどが挙げられます。鑑定とは、医師や人類学者などの専門家によって発見された遺骨が日本人であるか、複数と思われるときは何柱であるか、などを見定めることです。
2 タロキナ地区では、まだ遺骨収集団が調査に入っていない地域も存在し、今回の派遣においても多くの柱を発見することになりました。長い年月を経ていましたが、若者の遺骨であることから、歯がしっかりと生え揃った下顎の骨や、太くがっしりとした大腿骨、更には完全に近い状態の頭蓋骨などが多く見つかりました。
3 一方で、
 ・小さく砕け散った頭蓋骨、
 ・遺骨とともにひしゃげた弾頭、
 ・人骨と獣骨が重なり合い、混合している状態の遺骨
  なども発見されました。これらが意味する事は、
 ・空爆や艦砲射撃によって、身体がバラバラになったこと、
 ・銃撃によって死亡したこと、
 ・米軍又は豪軍により、日本軍の死体は残飯などと共に打ち捨てられていたこと、
  をそれぞれ示していると思われます。
 この様な遺骨と相対すると、筆舌に尽くしがたい当時の日本軍兵士の苦しみや、今日でもなお供養されない戦没者がいる現実を直視せざるを得ません。
4 以上のように、収容・鑑定した御柱は現地にて荼毘に付して(※戦没者を戦死した土地で荼毘することは、戦中からのならわしであり、現地での火葬は栄誉あることと考えられています。)、日本に帰還します。しかしながら、終戦から長い時間が経過しているため、身元が特定された遺骨であっても引き取り手が無い場合もあると聞きます。その様な場合には、靖国神社や護国神社に合祀したり、千鳥ヶ淵戦没者霊園に納骨することにより、戦没者を供養することになります。
 
Ⅳ.今回の遺骨収容から考えたこと
—遺骨収容事業への参加を通じ、考えたことについて述べたいと思います。
 
 戦後70年以上が経過し、収容された遺骨は約半数であり、未だ100万を超える柱が遺されていることを鑑みると、今後の遺骨収容については遥かなる道のりです。また実際の戦争経験者がほとんどいなくなって来ていることから、アジア・太平洋戦争は記憶から歴史上の事実になり、遺骨収容に関しては、行政が担当する数ある内の1つの事業としての位置付けであると言えます。それでもなお、日本人が戦没者の遺骨収容を続けることの意義は、遺骨を遺族に届けるためや、戦没者を弔うことのみならず、“日本を取り戻すことにある”と私は考えます。
 日本とは、何で有るかを考えると、『人』、『国土』、『主権』及び『心』であると思います。先の大戦では、日本の国土は破壊され、主権は奪われ、多くの人が亡くなりました。現在においては、戦争の爪痕が残るところは国内では殆どなく、大方、戦争から日本を取り戻せたと考えられます。しかしながら、本土から離れた地で散華した人(=日本)は、半数以上も取り戻せていません。本当の意味で、日本を取り戻すに至っていない、今回の遺骨収容でこの事を特に強く感じました。
 アジア・太平洋戦争に関する評価は、日本国内でも画一でありません。例えば、ブーゲンビル島における玉砕などについては、国家のための究極の自己犠牲であるとの見方や、若者に無駄死を強制したとの見方など、人・時代により様々あるといえます。しかしながら過去の戦争にどの様な評価を下そうとも、戦争において、異国の地で戦死した兵士達がいたことは永久に変えられない不変の事実です。
 現在の日本では、戦争における戦没者数を単なる統計上の数字、特攻や玉砕を遥か昔に行われていた国家による殺人といった扱いとして、歴史の事実に蓋をして過去の事実から目を背けている様に思えます。それは日本の『心』を捨てることではないか?と私は考えます。日本は、“現在”の我々日本人だけのものではありません。子々孫々未だ見ぬ、将来の日本人に受け継ぐものです。そうした日本を現在の事情(財政、国際情勢、政治状況など...)によって、不完全なものにすることは到底許されることではないと考えます。
 遺骨収容は、戦争で失われた日本を取り戻す事業と考えています。この様な事業を、より国民へ普及し、政府はより促進させて行くことが、現在を生きる我々日本人の責任であると考えます。
 
Ⅴ.さいごに
 
 今回の活動は、国家とは、国民とは何かを深く考えるに至ったものになりました。遺骨収容事業に自衛隊経験者として、国防に携わった者として、参加出来たことは生涯の誇りと致します。今後とも引き続き、戦没者の方々が日本に帰還出来るよう、活動に邁進して行きたいと思います。
 この度の遺骨収容の結果について、靖国神社へ合祀された英霊へ奉拝し、本レポートの締めくくりと致します。

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