論考

Thesis

基本はここにあり!-「家族」から国家のあり方を考える-

もはや現代社会の風潮は、“国家”やら、“日本”と語ることすら、思想に捉われていると思われがちである。“国家とは、家”である。家であるからこそ、その家族全員が楽しく暮らせる社会を構築したい。家族全員の、それぞれの力を発揮させる社会を構築したい。

 「そもそも、繁栄、平和、幸福でありたいという(中略)願いを実現する第一歩として、私たち人類の祖先は、まず第一に家族という共同生活をつくりあげました。つまり、一人一人で生活するよりも、男と女とが、それぞれに仕事を分担して暮らすほうが、生活が便利であります。男は主として外に狩猟に出て食糧を集め、女は内にあって子どもの保育や、炊事をする。これのほうが一人で暮らすよりもよほど便利なわけであります。そのうちに子どもが一人増え、二人増えして、その家族はしだいに大きくなり、父の協力者や母の協力者ができてまいりまして、家族という共同生活は、しだいに充実してきたと思うのであります。
(中略)
だいたい以上のようにして、人類の集団生活というものが生まれてきたわけでありますが、時とともにこの集団生活はしだいに大きくなってまいりました。つまり、人知が進歩するに従って、お互いの繁栄と平和と幸福を、よりいっそう充実させるために、その集団生活をさらに、さらに大きくする、すなわち家族から村落、村落から郷や町へと発展していったのであります。そしてこれとともに、さらに新しい秩序が必要となり、さらに新しい統轄者が必要となってくるというわけで、人間の共同生活はしだいに複雑となり、しだいに整ってまいったのであります。このようにしてだんだん多くなりだんだん整ってきて、ついに、一民族なり数民族を一つの集団としてできあがったものが、今日私たちの見る国家であると思うのであります。」

 「やはり、塾主もそうお考えだったんですね」―。
本棚から何気なしに取り出した『松下幸之助の哲学』を読んで、私は妙に納得していた。明治・大正・昭和・平成と、日本にとって激動の4世代を生きた塾主。実は私の家族にも、塾主同様の人生を歩んできた者がいる。祖父(故人)と祖母(現在98歳)だ。

 私の育った家を一言で表現するならば、「時が止まった家」である。“地主”だの“小作”だの、“家の格”だの“家訓”だのと、それはもう歴史の教科書にでも吸い込まれたかのように、時代遅れの言葉が飛び交うところだ。時流に敏感で、新聞やテレビからも積極的に新しい情報を取り入れる彼らだが、人間としての芯の部分は未だ変わらない。他人から見たら偏屈な老人たちに見えるかもしれないが、「宮川」という名に心身ともに引き締め、武士のように凛として生きる彼らの生き方が、私は好きである。

 そんな彼らは、私が幼いころから口癖のようにこう話してくれた。「“家族”というのは、あなたたちが生きている社会の縮図のようなものなのですよ」と。昔は、当然その言葉の真意などわからなかったのでただ聞いていただけだったが、ある程度大人になった今は実感をもってうなずける。なぜ、家族が社会の縮図だといったのか―。それは、家族に属する人間それぞれの「役割」が違うからである。

 祖父は、家長として家計を支え、家になどこもらず社会活動に熱心に取り組む。
祖母は、妻として母として子育てに専念する傍ら、地域の女性たちを取りまとめ中心的に活動する。
子らは、自分の両親に畏敬の念を持ち、彼らの生き様をみて感じて社会に飛び出す心構えを養う。
孫らは、祖父母の日常の姿や考えに対する理解を深め、次世代に継承していく。

 他のご家庭ではどうか知る術もないが、我が家ではこの体制が決して崩れることなく、また崩されることなく現存し、確実に受け継がれようとしている。祖父母の言葉を借りれば、「それぞれが違う責任を果たすことで、実は調和が生まれていくのです。役割が違うからこそ、そこに存在する意味があると思いませんか。役割に大きいも小さいもありませんし、貴いも卑しいもありません。自分に与えられている本分を果たせば、いい家族をつくっていくことができるのです」ということだ。これは私たちの中に脈々と流れている、「宮川」という家族のあるべき姿なのだろう。

 もう一度あの言葉を思い出す。「“家族”というのは、あなたたちが生きている社会の縮図のようなものなのですよ」―。社会における家族とは一体どんなものなのか、検証してみたい。

 世界的視野からみると、ある時期を境に家族は「伝統家族」と「現代家族」とに分類され、家族には大きく分けて五つの機能があるといわれてきた。

(1)性的機能

 結婚という制度は、その範囲内において性を許容するとともに婚外の性を禁止する機能を果たす。これによって性的な秩序が維持されるとともに、子どもを産むことによって、社会の新しい成員を補充する。

(2)社会化機能

 家族は子どもを育てて、社会に適応できる人間に教育する機能をもつ。子どもは家族のなかで人間性を形成し、文化を内面化して、社会に適応する能力を身につけていく。

(3)経済機能

 共同生活の単位としての家族は生産と消費の単位として機能する。

(4)情緒安定機能

 家族がともに住む空間は、外部世界から一線をひいたプライベートな場として定義され、安らぎの場・憩いの場として機能する。

(5)福祉機能

 家族は家族成員のうちで働くことのできない病人や老人を扶養・援助する働きをする。

 これらは伝統的な家族には大なり小なり観察される機能である。ところが、このような家族機能を現代家族にそのままあてはめるとなると、大きな問題につきあたることになる。たとえば、性的機能についてみれば、結婚以外の性に対する統制力がゆるんだため、婚前交渉や不倫などのように性的関係がかならずしも夫婦だけの特権的なことでなくなったし、少産化傾向や後述するディンクスに示されるように、子どもを産むことが家族の必要条件ではなくなってきた。子どもの社会化についても、もはや社会化のエージェントは学校や塾・スポーツクラブそしてマス・メディアヘと主軸が移動しつつある。また経済機能も、第一次産業中心の時代にもっていた生産の場としての機能はほぼ喪失したといっていいだろう。生活維持の責任を家族が負う形で、いまはかろうじて消費の単位であるにすぎない。

 また、共働きによる家族の役割構造変動も叫ばれて久しい。家族の役割構造の基本となっているのは、「男は仕事、女は家庭」「夫は外、妻は内」という性別役割分担である。たとえばある調査によると、90%近くの家庭が「生活費を得る」のを夫(父親)の役割としているのに対して、掃除洗濯・食事のしたく・食事のあと片づけ・家計管理・日常の買い物は、ほぼ90%の家庭が妻(母親)の役割になっている。また、子どものしつけと勉強・親の世話・近所づきあい・親戚づきあいがもっぱら夫の役割という家庭は10%にも満たない。

 性別役割分担はあたかも封建時代の遺物のように論じられることが多いが、日本の場合、「男は仕事、女は家庭」式の性別役割分担が一般化したのは、ちょうど高度経済成長が本格的にはじまった1960年あたりからのことである。家事労働だけに携わるいわゆる「専業主婦」が一般化したのも同じころと考えてよい。もちろん一部の上流・中流の家庭ではずっと早く性別役割分担は存在していたが、多くの一般庶民は農業を中心とする職住一体の生活をしており、ともに家業に従事していた。広い意味での「共働き」だったわけだ。

 しかし、1960年代に「腰かけ就職→退職・結婚→主婦として出産・育児」という女性の生活史のスタイルが確立され始めてから、育児を終えた既婚女性の職場進出がさかんになる。「腰かけ就職→退職・結婚→主婦として出産・育児→パートタイム」というパターンが、まさにそれである。現在、少なく見積もっても800万組をこえる共働き家族が存在しているといわれるが、この場合の「共働き」は伝統的な意味での共働きではなく、妻の賃労働者化をともなう共働きのことである。この意味での共働き家族の圧倒的な増加によって、家族のあり方が大きく変わりつつあるが事実であろう。「新・性別役割分担と女性の二重役割」ともいうべき今の時代、社会の方向性として考えられるのは、さしあたりの3つであるだと言われている。第一に、家族内の性別役割分担を見直し、固定された性役割からの解放を意識面と実践面の両面で行うこと。第二に、性別役割分担を個々の家族に強いてきた男性型企業文化を再編成する方向。第三に、地域に看護・介護サービス体制を確立すること・・・。

 たしかに、社会の縮図である家族には、大きな問題が存在し、変容する時期がやってきているのかもしれない。しかし、時間が流れるからといって、どんどん形を変えてしまっていいものだろうか。

 正直に言うと、私はフェミニストでもないし、男女共同参画とかいう考え方もあまり好きではない。なぜなら、そもそも、この世に男性と女性とが存在している以上、その役割や立場が“平等”になることなどあり得ないと思うからである。性別の違いがあるからこそ、そこにお互いが存在する価値が生まれ、それぞれに見合った役割がなされていくのだ。“平等”という概念についても私は社会全体の認識がずれているのではないかと思うのだが、ここでいう“平等”とは「機会の平等」であり、各々の立場がすべて同じになるということでは、決してない。そして、これは悔しがったり悲しんだりする事実でもない。役割を、時には我慢をして果たし、時には楽しく果たし、家族なりを形づくる責務を担う。そうすることこそが当たり前の、人間としての姿そのものだからだ。

 では、塾主の言葉、私の祖父母の言葉を通して、「国家」というものを考えてみよう。家族が国家を形成する集団生活のもっとも小さい単位であり、それが社会の縮図であるとするならば、やはり人々はそれぞれに与えられた“役割”をもっているのではないだろうか。

 私が描く国家像というのは、塾主の言葉を借りれば「適材適所」、つまり各々がもつ本分を果たしていくことで成長する国家である。国民が社会の一構成員として自らの役割を認識し、その役割に邁進することが大切だと思うのだ。現代日本を振り返ってみると、人々が良しとするものが画一化されているような気がしてならない。「○○大学へ行って、△△会社へ入社して、出世してお金を儲けて・・・」と、高学歴主義などに代表されるエリート階層への憧れや拝金主義など、その流れにはずれてしまったら社会の中で落伍者とレッテルを貼られかねない。本当は素晴らしい能力をもっているのに、その“道”にはずれてしまったばかりに、ニートやフリーターになったり、自分の人生を悲観して命をなげうってしまう人が後を絶たない。こんな現状を、私は憂いてならない。

 一人一人が違っていいのである。人はそれぞれに異なった能力を持っているのだがら。だから、高度成長期の「一億総中流」の発想のように、日本人全体が同じ価値観をもって、同じように生活し、同じように死んでいかなくていいのである。「こんな人生が理想的だ」などということを、私は口にするつもりは毛頭ない。ただ、私たちが自覚せねばならないのは、お互いがちゃんと果たすべき「役割」をもっているということである。そして、お互いの役割が全うされ、機能していくことこそが国家を形成することそのものにつながっていくのではないか。

 「知己知足」という言葉がある。我が国の右肩上がりの成長が望めなくなった以上、幻想の中に虚構の幸せを求めることはできない。幸せを得るためには、本当の幸せを知る必要がある。幸せとは、自分を知ることなのだ。自分を知り、その現状に満足することから幸せは始まる。その対局にあるのが、「高望み」だ。分をわきまえず、高望みをしている限り、幸せは手に入らない。高望みとは、どこまでいっても満足できない無間地獄である。対照的に、「知足」こそ幸せへの第一歩である。今の自分に満足し、それ以上を求めない。これができてはじめて幸せは手に入る。ある種「知足」とは、江戸時代の美学であり知恵である。今あるモノで充分、それで満足すべきであり、その先は求めない。自分を見つめ、内面を磨く努力こそすれ、量や規模は追求しない。あるレベル以上のヒトが、皆こういう価値観を持っていたからこそ、エコロジカルでサステイナブルな社会が構築できた。これはまさに当時の日本が、量的成長ではない、質的な深化を目指す社会だったからこそ成し遂げられた。幸か不幸か、今後人口減少が進み、将来的には江戸時代の程度の人口になることが予測されている。いやが上にも、成長は望めない。そして、それが「知足」の時代のスケール感を取り戻す。これからの日本人だって、やれば足るを知れるはずだ。少なくとも、江戸時代の日本人には、それができたのだから。

 今日本が抱えている問題は、その多くが、自分自身の分をわきまえていないことにより引き起こされていると言っても過言ではない。何が自分にできて、何ができないのか。何が自分にふさわしく、何が自分には過分なのか。これらの答えは、自分が何たるかを知ってはじめて出すことができる。もちろん、そもそも自分を客観視できない人間のほうが多い以上、誰でも答えが出せるわけではない。しかし、本来答えを出す能力を持っているヒトがあえて現実から目をそらさない強さをもっているなら、それほど難しいことではない。

 己を知り、分を知ること。己を戒め、足ることを受け入れること。適材適所。

 これこそが私の国家への想いであり、このシンプルなことを一人一人が実行に移すだけで、日本はもっと「考えられる国」になっていくのではないか。今は、そんな未来の訪れを祈り、動き、待つばかりである。

【参考文献】

松下幸之助 『松下幸之助の哲学』(2002年/PHP研究所)
森岡清美・望月嵩 『新しい家族社会学』(1983年/培風館)
総理府広報室 『家族・家庭に関する世論調査』(1986年全国調査)
湯沢雍彦 編 『図説現代日本の家族問題』(1987年/NHKブックス)
本田優 『日本に国家戦略はあるのか』(2007年/朝日新書)

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宮川典子の論考

Thesis

Noriko Miyagawa

松下政経塾 本館

第28期

宮川 典子

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