論考

Thesis

「慈しみ」のチカラ-教育現場からの体験的一考察-

厳しい今の時代を生きる子どもたちにとって、いや、誰にとっても普遍的に必要とされる「愛情」って何だろう?ある人の言葉がきっかけで考え始めた、愛のある生き方。こんな時代だからこそ、人間としてもっていたい愛情を模索した一考。

 「先生は鬼です!」と何度言われただろうか。
 「どうしてそんなに私たちに厳しくするんですか?理解できません!」と何度反発されただろうか。

 「デーモン宮川」と呼ばれていた私は、「子どもたちに深い愛情をもって向かい合おう」と心がけていた一教師であった。いや、きっと私だけでなく、教育に携わる者は誰でも子どもたちに愛情を注ごうと思っているはずだ。しかし、この「愛情」というコトバは厄介で、あまりにも幅がありすぎる。怒ることなく生徒に優しくすることが愛情だという人もいれば、厳しくして突き放すことが愛情だという人もいる。「愛」と一言で言ってしまえば簡単だが、その中に含まれる意味合いは非常に深い。無論、「デーモン宮川」と呼ばれた私も、この難題に頭悩ませていたことは言うまでもない。教育について考える時、愛情は欠かせないキーワードである。今一度、今の子どもたちに大切な「愛情」とは何であるか、求めていきたいと思う。宗教的・哲学的要素を少し織り交ぜながら。

 「敬神」「愛人」「自修」―神を敬いなさい、人を愛しなさい、自らを修めなさい。私が中学校に入学して、初めて出会った言葉だ。学校の教育理念がこの言葉に集約されるとし、ミッション系の学校であったためキリスト教を学ぶこととなった。カリキュラムの中にも「聖書」の時間があって、牧師先生から聖書についての講義を受けることもあった。その授業の中で、印象に残る講義がある。

 「キリスト教は愛の宗教であります。聖書に書いてあることは、あなたたちのように現実的な視点で見たら信じられないような話ばかりかもしれません。しかし、聖書は歴史の教科書ではない、愛を教えてくださるものです。また、学校の教育理念をきちんと理解なさい。主イエス・キリストの愛の行いを知りその精神を学ぶことで、あなたたちは周囲の人を愛せるようになるでしょう。その愛をもって私心を捨てることで、やっと自分というものを確立できるのです。聖書を隅から隅まで覚える必要はありません。自分の中で愛とはいったい何なのか、『隣人を愛せよ』という言葉に主がどんな思いを馳せておられたのか、そのことを自問自答しなさい。それが、この授業の意味です。」

 聖書の時間がおもしろくなかったわけではないが、私はどこか斜に構えていた。そんなこと言われなくてもわかっている、とちょっと反発的な感情さえ抱いていたからだ。もっと言えば、自分にはそんなこともうできているとも思っていた。友達には優しくしているし、家族にも誠実に接しているし、先生方にも忠実に従っている、と。しかも、聖書に書いてある話は、現実的に考えたら理解のできないことばかりだし、空想の中の物語にしか、私には考えられなかった。しかし、そんな私の心中を知ってか知らずか、牧師先生が私にこう語りかけてこられた。

 「許しなさい、そうすれば愛することができます。許しなさい、そうすれば信じることができます。誰かを信じることは難しい。でも、この難しさを乗り越えるには、98%信じて、2%は許すために残しておくといいでしょう。このような気持ちを何と言うのか、よく考えてみて、見つけた答えを教えてください。」

 私は、頭を殴られたような衝撃を受けた。生徒会長として全校生徒をリードする中で、私が大切な何かを失っていたことを、先生は気づいておられたのであった。リーダーシップと傲慢さ、思いやりと自分勝手な愛情の違いに、私は気づいていなかった。それからというもの、私は聖書やその他の本を読み込み、先生がおっしゃったことを集約する言葉を探した。そして、「慈しみ」という言葉を見つけ出したのだった。

 聖書を見てみると、「私たちが戸惑ったとき、神は恵みと慈しみを与えたもう。アダムとエバが罪を犯したとき、恵みと慈しみの神はその裸を被う毛皮の衣を着せられた(創世記3:21)」「貧困と飢餓のなかでも神は食物を与えてくださる。神はエリヤに食物を与え、またカラスに命令して彼を養わせました。神は恵み慈しんでくださる。(Ⅰ列王記17:4-5)」「神の御守りは永遠です。サマリヤの女に、決して乾くことのない、その人の内で湧き出る泉となり、永遠の命となる水を与えると言われました。(ヨハネによる福音書4:14)」などの一節にあるように、主イエス・キリストの行いは「慈しみ」であると書いてある。どんな困難に直面していようと、どんな窮地にあろうと、神は私たちを愛し私たちの必要を満たしてくださる存在であるとされている。「全ての重荷を私に任せなさい、私があなたを恵み慈しむ。」という表現からもわかるように、弟子が金に目が眩んで自分の命を売ったことを知っても、主イエス・キリストはその罪をも許し、そして重荷を自分が背負うという慈愛をもって十字架にかかることを決心したのである。

 別の宗教に目を向けてみても、この「慈しみ」という言葉は、神のもつ偉大な力、もしくは人間が最終的に目指さねばならない極意のように書かれている。例として仏教を挙げるが、ヴィパッサナー冥想という瞑想の実践に入る前に、まず心を落ち着かせるために「慈愛の冥想」を行うという話を聞いたことがある。基本的に「慈愛の念」「慈しみの心」があると、実践の土台として大変役立つのだそうだ。人間というものは、自分は個別の「存在」だと思っていて、「私は、私です」と思っている。「私は...」と思った瞬間で、人間はこの世界の全体的 な生命のエネルギーから自分を別なものだと、ある個体的な存在だと思ってしまい自分と他とを区別してしまう。区別することによって、自分がとても小さなものになってしまい、いろいろな苦悩が生じてきて、煩悩に至ると言われている。

 簡単に言えば、この「私」という実感さえなければ問題は何もないのであるが、しかし、これはなかなか消えるものではなく、結局煩悩の範疇から抜け出せないことが多いのである。そこで、「慈しみの心」だと仏教は教えるわけだが、いくら「私が私が」と言っていても、実際にはここに自分が生きていられるのは他の生命があるからであり、その存在なしには「私」は成り立たないと明言されている。「慈しみの心」をもっていないとすべてのことが無駄であり、仏の心を知るためには慈愛という土台なしには始まらないというわけだ。故に、以下のような言葉を並べた『慈愛の瞑想』をするのだという。

『慈愛の冥想』の言葉

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように

私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願いごとが叶えられますように
私の親しい人々にも悟りの光が現れますように
私の親しい人々が幸せでありますように

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように

 キリスト教にも仏教にも共通しているのは、やはり「慈しみ」である。つまり、この心を育て上げられなければ、諸々の宗教が同じようにもっている宗教の真髄を実践することはできないといっても過言ではないのだろう。中学生の時、自分の思いばかりで突っ走っていた私に、本当の貢献とは私心を捨て相手のためを思って行う、その行いの中にこそあるのだと、先生が教えてくださったのである。哲学者・ヘーゲルは「愛はたしかに、人々のあいだに通う『合一の感情』だ。しかしそれは二人や数人、せいぜい小集団のなかで通い合うだけで、それ以上には広がらないのである。つまり、愛はもともと狭い範囲にしか通用しない」と言って、「慈しみ」を広く伝える宗教に頼らざるを得ないと考えた時期があった。人間が社会や国家といった社会的組織の中で生きるために「大人とは何か」という単純な問いから『精神現象学』という哲学思想を生みだしたヘーゲルにとって、私心に囚われない「慈しみ」こそが大人がもっているべき愛情だったのだ。

 改めて今思うのは、子どもたちが成長する場所である教育現場にこそ、この「慈しみ」が必要であり、現場にいる大人、つまり教師は慈愛をもって子どもたちに接していかなくてはいけないのではないだろうか。私心のない、彼らの幸せを願う純粋な愛情が、子どもたちにとって必要なのではないだろうか。

 しかし、現実を見れば、教師は「慈しみ」をもてるような状況にはないと私は思う。子どもたちの心と真剣に向き合う時間など、与えられていないと言ってもいい。そして、きっと「慈しみ」という愛情がいったいどんなものなのかも知らないだろう。あの頃、自分自身も含めて、日々の激務に追われる中で生徒がうまく立ち回らないことに腹を立て、滅多やたらに生徒に怒鳴り散らす光景を何度も目にした。教師も「こんなことやってはいけない」と心のどこかで思いながらも、感情に任せた指導をしてしまうことがある。言うまでもなく、こんな指導は意味を成さないし、子どもたちのほうがよほど冷静で冷めた目で教師を見ていることがほとんどである。深い信頼関係など、成り立つわけもないのである。

 「国民教育の父」と言われた森信三は、「教師が窮地目標に到達するには少なくとも3つの段階を通過しなければならない」とし、その第2段階は「自分の受け持っている子どもたちの一人びとりが実にかけがえのない大事なお子たちだということが、真に実感としてわかること」だとしている。また、「生命の息吹を吹き込むことが、教師の使命でもある」とも言っている。すなわち、私心のない日々の上に教育の本来の姿を実現させることができ、真の愛情をもって子どもたちに向き合うことができるのである。そして、その先に、「教師」と「生徒」という立場で結ばれた関係ではなく、人間と人間との信頼関係が生まれていくるのであろう。

 イエス・キリストが自らを裏切ったユダに対して思ったように、教師という仕事は「信じる心」と「許す慈愛」をもっていないと続けられない職業だと、私は常日頃思っている。成長段階にある子どもたちは、いい意味でも大人を裏切ってくれるが、当然悪い意味でも裏切りを働く。教師は純粋に子どもたちを信じているから、裏切りに対しては異常な怒りを見せることもあるが、しかし信じているからこそ許すことができる存在であってほしい。何度裏切られても、やはり信じて愛してあげることを根気強く続けていくことで、自らに真の「慈しみ」が宿ることはもちろんのこと、きっと子どもたちにとっても深く確かな愛情を示してくれるかけがえのない存在でいられるのではなかろうか。ユダにとって、イエス・キリストがそうであったように。

 教師の精神性は、「慈しみ」という土台があってこそ育まれる。

 私は、その土壌をしっかりと整え、「慈しみ」の芽を生み出す人間でありたい。今、そう強く願うのである。

【参考文献】

・聖書
・西研『ヘーゲル・大人のなりかた』(1995年/日本放送出版協会)
・メディテーションインジャパン『仏教へのイントロダクション』
・田川健三『イエスという男』(2004年/作品社)
・森信三 他 著『現代の覚者たち』(1988年/致知出版社)

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宮川典子の論考

Thesis

Noriko Miyagawa

松下政経塾 本館

第28期

宮川 典子

みやがわ・のりこ

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