Thesis
松下政経塾では毎朝塾是、塾訓、五誓と呼ばれるものを唱和している。とりわけ塾是は非常に重要なもので、塾生が目指すべき指針が端的に表されている。そこには「新しい人間観」なる言葉が出てくるが、この意味を理解しなければ塾是の理解もできず目標達成もおぼつかない。
塾是の内容は次の通りである。
「真に国家と国民を愛し新しい人間観に基づく政治、経営の理念を探求し、人類の繁栄幸福と世界の平和に貢献しよう」
この「新しい人間観」は昭和47年に松下幸之助塾主が提唱したものであるが、そもそもなぜ提唱したのか、その思いについては以下のように述べられている。
「人間は本来もっとすぐれたものである、調和ある繁栄、平和、幸福を実現しうるものである、ただそこにそれなりの原因があって、いまだなおその立派な本質を十分に現わすことができないでいるのだ、そういうことを十分に認識し、人間の本質を正しく自覚するならば、人間の共同生活は必ず好ましいものになるのだ、と、そう思うのです」
「この『新しい人間観』によって一つの人間観を提唱することの趣旨は、人間生活の上に、物心ともに豊かな調和ある繁栄、平和、幸福を逐次実現させていくというところにあります」
「このような人間観にもとづいていっさいの活動を営んでいくならば、人間の幸せもより高まっていくであろう、いいかえれば、この人間社会からできるかぎり不幸とか争いを少なくし、平和と幸福を招来していきたいという願いに立って提唱したものなのです」
この言葉には塾主自身が経験した戦争や、経営者の立場から受けた苦しみや疑問などが背景にあると推察されるが、自ら極限状態や困難を実体験しなければ「新しい人間観」に肉迫するのは難しい。私の乏しい人生経験からこの塾主の思いをかみしめることは困難ではあるが、それでも想像力をふくらませ、考察したい。
「新しい人間観」は塾主自身の考える人間観に、学者、宗教家、作家、評論家、政治家、経済人など各界の有識者52名の意見をもとにつくられており、900弱の文字からなる内容は非常に簡潔に平易に書かれている。詳細はPHP文庫『人間を考える 新しい人間観の提唱 真の人間道を求めて』として、内容のあらましは次の通りである。
「宇宙、すべてのものは生成発展しており、それが自然の理法である。人間はこの理法に順応し、万物に与えられたそれぞれの本質を見出し、活用することで物心一如の真の繁栄をもたらすことができる。この人間の特性もまた自然の理法により与えられたものであり、それゆえに人間は万物の王者となり、支配者となる(天命)。しかし、このような優れた特性が与えられているにもかかわらず、個々の現実を見れば争いに明け暮れるなど不幸に襲われている。人間は個々の知恵ではその偉大さを発揮できない。古今東西の先哲諸聖をはじめ幾多の人々の知恵(衆知)が集まってこそそれが発揮できる。人間の使命は、この天命を自覚実践することにある」
そして、人間の使命の意義を明らかにし、使命を達成することを期し、新しい人間観が提唱されているのである。
人間はなぜ生きるのかということを、一度は考えたことはないだろうか。私は生きるということについて、何か人類普遍の答えという大それたものではなく、自分を納得させられる答えを見つけられればよい、という程度で考えていた。そして、このことを考えるとき、いつも人間を物質としてとらえるところから考えを進めていた。非常に無機質な人間だと思われるかもしれないが、理科好き少年だった頃、ある科学雑誌でタバコモザイクウイルスというものを知ったが、環境によってウイルスは結晶にもなるし、生物のように自己増殖もすることを知ったときの驚きが、物質から生命を考えるという思考をつくったのかもしれない。物質の集合が生命に変わる過程の中に、生命としての存在意義、ひいては人間の生きる意味を見いだせるのではないかという期待のもと、あれこれと考えを巡らせていたのである。しかし、なかなか自分を納得させられる解釈を見いだせず、大学院生、社会人になっては日々の生活に追われ、「人間はなぜ生きるのか」ということをあまり考えなくなった。物質からのアプローチも頓挫した。
その後松下政経塾に入塾し、塾主の唱える「新しい人間観」に出会ったわけだが、そこには人間の生きる理由が迷いなく、はっきりと書かれており、今までのモヤモヤが一気に晴れた思いがした。「人間は天命を自覚、実践し生きること」。禅の言葉「只管打座」を思い出す。ただ座る。天命に従って生きるだけ。いや、それが難しいのだが、逆にいえばそれだけでいいのだ。長い間ぐずぐず考えてきただけに、塾主の「新しい人間観」はなぜ生きるのかという問いに対して、力強い意味と頼もしさ与えてくれた。人間の本質などについて細かく見るとまだまだ理解できない個所もあるが、人間がよりよく生きていくためにはどうすればいいのか、そして結局生きるとはどういうことなのかについて、示唆をあたえてくれている。「人間は天命を自覚、実践し生きること」
ところで、「天命」ということにつて考えてみたい。日ごろの生活をしているなかで「天命」といってもピンとこない。もっと日常生活の中でこの考えを理解し、尚且つ実践することはできないか。「新しい人間観」を読むと、「天命」とは天が万物に与た個々の役割と理解できる。人間を人間以外全てのものと相対的にとらえたとき、人間に与えられた「天命」は「万物を活かす」、ということである。では人間が人間社会にあって「天命を自覚実践する」とはどういうことか。それは人がそれぞれに与えられた「天命」、すなわち自分の役割を見出して実践することではないか。その姿勢こそが大切であり、ひいては人間としての「天命を自覚、実践する」ことも可能になると思うのである。では「役割を見出し実践する」ことがなぜいいのか。組織において個々人が自分の「役割を見出し実践する」と働きはどのように変わるだろうか。
昭和7年、塾主は取引先の知人に勧められ、ある宗教団体を訪れ、教祖殿の建設現場や製材所を見学している。そこで信者の奉仕ぶり、塵一つない本殿の清掃ぶり、会う人の敬虔な態度を目の当たりにして深く感動している。それはその宗教の宗旨などに対する感動ではなく、人の集団の営みぶり、つまり経営ぶりについて感動しているのである。多くの人が喜びに充ち活動している、真剣に努力している、自己のみならず他人へも熱心に喜びを分かとうとする。そして塾主は業界における「真個の経営」、「正義の経営」、「経営の正義」ということについて深く考えるようになり、「あらゆる人間の生活を富み栄えしめるところの生産、その生産こそわれわれの尊き使命である。」「われらの経営こそ、われらの事業こそ、某教以上に盛大な繁栄をせねばならぬ聖なる事業である。それにもかかわらず閉鎖縮小とは何事だ。それは経営が悪いからだ。自己にとらわれたる経営、正義にはずれたる経営、聖なる事業たるの信念に目覚めざる経営、単なる商道としての経営、単なる習慣に立脚せる経営、これらがみなその原因をつくっているのだ。自分はこの殻から脱却せねばならぬ」という考えが起こっている。
そして、水道水のように貴重な生活物資を無尽蔵たらしめ、無代に等しい価格をもって提供し、貧を除く。それこそが真個の経営である、という「水道哲学」と呼ばれる経営方針、会社の使命を見出し、同年5月5日、全店員に会社の使命、つまり社会的役割を発表している。これを聞いた店員は大変感激し、その日以来、会社の団結が強くなったと、塾主は著書『わが半生の記録 私の行き方 考え方』で述べている。
役割を見出した生き方ほど力強い生き方はなく、個々人それぞれが己に適った役割を見出した組織ほど強い組織はない。しかし、現代の物質的に豊かな社会の中では、自分ひとりで生きる目標を見つけることはなかなか難しい。かといって封建時代のように生き方を定められる社会も耐えがたい。どのような社会が人間にとって幸せな社会なのか。それは親、教師、上司がその後進に自らの役割を見出すことを促し、その達成を支えていく社会が理想であり幸せな社会ではないか。実際は自分の役割を見出すなど至難の業である。まして況や、それを実行するのはなおさらである。しかし、人生の先達が自分のためを思ってくれ「役割を見いだせ」と言ってくれる、それだけでも嬉しさと心強さを感じるのは私だけだろうか。人間関係が希薄といわれる現代こそ、ウィリアム・S・クラーク博士の「少年よ大志を抱け」にならい、各立場の人間が「後輩よ大志を抱け」、「わが社の社員よ大志を抱け」、「国民よ大志を抱け」をもっと伝えていくべきではないだろうか。後進も、導かれる側もそれを待っている筈である。
ここで、注意しておきたいのは、役割といっても、なんでもいいわけではないということだ。わが国の発展のため彼の国を衰亡させること、は役割ではない。個々の利害得失は抜きにすべきである。塾主は「共存共栄」ということを折に触れ言っているが、「共存共栄」の達成を目指すことこそ天命に従った姿である。
また、この世が「生成発展」することは自然の理法であり、それを受け入れ順応することも天命を達成するうえで大切である。死もまた生の萌芽のひとつの姿であり「生成発展」の道程であるととらえている。身近なことでも、昨日より今日、今日より明日はよくなっていく、よりよくしていく、という姿勢こそ天然自然の「生成発展」の姿に適っており、ものごとがうまくいくのではないか。「生成発展」とポジティブにとらえる精神的効果がよいという形而上の話だけでなく、現実の全てのことは実際に「生成発展」を目指して行動したほうがうまくいくのではないかと思う。これ、ということは一口に言えないが、日々行動していてそう思うことが多い。「生成発展」ということを意識すると、どういう行動をとればいいのか、無理なくうまく進める道筋もなんとなく見えてくる気がする。(実行できるかどうかはまた別問題だが。)
それから塾主は、人間は天命により万物の本質を掴み、それを活かす特性を与えられている、と言っている。確かに、身の周りの生活物資、どれをとってみてもその通りである。人間は自然の中で、土や岩として眠っていたものを精製し加工し生活の役に立てている。動植物に対してもしかり。ただここで大切なのは、活用の仕方を誤ってはいけないということである。塾主もあげている一番よい例が原子力である。核分裂に伴うエネルギーは発電に使うべきであり、殺戮のために使うべきではないのである。ものごとの活殺の権を人間は握っているということを人々は強く自覚し、慎重にならなければならない。特に、科学技術が非常に発達した今日にあってはそのことは自明である。
生成発展はしかるべき姿であり、その姿に沿うことが人間にとって自然であり繁栄のための行動である。そして万物を活かすことができることもまた人間に与えられた特性である。しかし、その考え方だけでは非常に危ういのである。個々人は完ぺきな神でなく、到底全てを把握できるはずもなく、ときに一人よがりになり、失敗もする。故に衆知を集めなさい、と塾主はいっている。但し、塾主は新しい人間観のなかで誰が、どのように衆知を集めるべきかはいっていない。組織作りの要はここにあるのだろう。会社しかり、国しかり。今後さらに考察が必要である。
以上御覧の通り、まだまだ理解が浅い。しかし、この塾主の「新しい人間観」をもとに、私自身も私なりの人間観をもちたいと思っている。仕事をしていていも、ニュースを見ていても、全てのことは結局は人間がやることだ、と思うことが多い。だからこそ、人間観をもつことができれば、政治をするにしても、経営をするにしても、仕事をするにしても、人づきあいにしても、もっとうまく人間生活を営んでいくことができるのではないかと思うのである。そして、一番近く一番やっかいな人間が自分である。まずは自分をコントロールできること。いまだに欲にくらんでは失敗し、保身に走っては失敗をしている。日々是修身。自分にはうんざりすることが多いが、一歩ずつ成長を続け、自分の天命を見出し実践できる人間になりたい。
参考文献
PHP文庫 松下幸之助著『人間を考える 新しい人間観の提唱 真の人間道を求めて』
PHP文庫 松下幸之助著『わが半生の記録 私の生き方 考え方』
財団法人松下政経塾 政経研究所編 「新しい人間観」について
財団法人松下政経塾 政経研究所編 塾是・塾訓・五誓について
Thesis
Tadashi Uchida
第31期
うちだ・ただし
福岡県みやこ町長/無所属
Mission
過疎対策および地方経済の活性化策の研究