論考

Thesis

日本の伝統精神の考察

昨今、凶悪化する事件、無縁化する社会という記事をみるにつけ、日本人の心に悪しき変化が起きているのではないかと危惧してしまう。また、政治をみれば行き詰まりの様相を呈す。このふたつを解決するカギは日本の伝統精神にあるのではないか。松下幸之助塾主とともに考えてみた。

序文

 歴史を振り返って日本は近代国家の歩みの中で二度の大きな経験をした。それは近代国家の建設そのものであり、そして第二次世界大戦の敗戦である。近代国家建設によって日本は「徳」を重んじる徳治の国から、ヨーロッパ発祥の「法」や「原理」を重んじる法治国家へと変わり、第二次世界大戦後はアメリカの唱える「自由」や「民主主義」を政治的価値観としてとらえてきた。このように日本は近代国家の建設と発展のなかで、統治機構や価値観などハードやソフトの両面で新たなもの海外から導入してきた。そして現在は「個人の尊重」や「新自由主義」といった新たな価値観も日本の中で広がりつつある。いずれの価値観も、日本が歴史的に育んできたものでないが、人間の本性にある普遍性を言い表しているように思われるため、受け入れることについて反対の余地は少ないように思われる。また、最近はインターネット環境の普及によって、世界の思想や価値観にいつでも、誰でもじかにふれられるようになった。そして、これらの思想や価値観は経済的商品、生活慣習にも広く影響を及ぼしている。これこそ人類の進化であり、発展なのだろう。しかし、いくら人類普遍の価値観といっても、諸手を挙げて受け入れることに一抹の不安を覚える。なぜか。

 法治国家がある。しかしこれだけでは国家は安定しない。法さえ犯さなければ問題ないとする輩は必ずでてくるだろうし、更にひどければ法は変えられるものであり、変えてしまえば犯罪ではない、という考えも可能だからだ。「自由」にしても「民主主義」にしても同じである。人に迷惑をかけなければ何をしてもいいではないかと主張できるし、洗脳や買収を通じて多数決に勝つことも可能だからだ。極端な例をあげたが、似たようなことはたびたび社会問題としてあげられる。人類普遍の価値観はモラルによって支えられなければならない。しかし、それだけで十分なのか、不安はまだぬぐえない。

 宗教や伝統精神に則った道徳心は国民のモラルを保つ。ヨーロッパにはキリスト教がある。中国には儒教、中東諸国にはイスラム教がある。では、日本には何があるのか。神道や仏教をはじめ、武士道や「恥」、「世間」、「義理人情」など宗教でないものも含め、さまざまな道徳的規範が日本人のモラルを保ってきたし、今後もそうあってほしい。しかし、宗教や伝統精神に則った道徳心はときに荷が重く、脱ぎ去って自由になりたいというのも人情であろう。経済活動においてはそれが顕著である。価値観の異なる外国との競争ともなれば道徳心はむしろ邪魔になり、積極的に否定されることも考えられる。また、「もったいない」という道徳心があるが、これは現在の資本主義経済にとって邪魔ものともいえる。需要を阻害しかねないからだ。道徳心とはときにこういうものである。

 ここまで「モラル」と「道徳心」をはっきり定義せずに使ってきたが、私なりに意識した。学術上の定義があるのかもしれないが、本レポートでは「モラル」は、民族に左右されない、どの国の人々にも共有し理解される「正しさ」を求める心とする。そして「道徳心」は「モラル」を含むが、民族特有の「正しさ」も求める心とする。「人に迷惑をかけてはいけない」はモラルであり、かつ道徳心にもある「正しさ」だが、「自己主張をひかえ、協調を重んじる」はモラルではなく道徳心であるとする(但し、これはかつての、の接頭語が必要かもしれない。このように時間に普遍でないことも道徳心の特徴かもしれない)。この意味で、道徳心は国民のアイデンティティーの側面をもつ。

 今、数学の写像を思い出す。写像fとは{x}という集合と{y}という集合を対応させ結ぶもの(y=f(x))だが、国家はあくまで日本人の道徳心Xの写像f(X)であることがのぞましいと思う。モラルxだけの写像f(x)では足りない。そこに日本らしさがないからだ。日本人の道徳心と国家の統治体制が整合性をもって対応していることが望ましい。そして、もしそのような国家が達成されるならば、新たな国家を海外から導入してもよい。しかし、それが可能なのは純粋に人類共通のモラルにもとづいた国家に限られる。日本人らしさはそこに加えていけばよい。ところが、日本人にそぐわない思想や価値観を含む国家を導入すると、そこから生まれる思想や価値観は社会にひずみや軋轢をもたらす恐れがあることは想像に難くない。そのような国家の逆写像は日本人の道徳心にもモラルにもない価値観だからだ。

 以上、話が抽象的になってしまったが、私の不安を整理すると以下の三点になる。

(1)道徳心の衰退。道徳心は時に荷重く厄介に感じられ、残念ながら”痩せ細って”いく運命なのかもしれないこと。先ほどの経済の例がそうである。これはアイデンティティ喪失への不安でもある。インターネットをはじめ情報媒体の発達や普及、世界中の価値観を反映した商品の普及はますますこれを促すだろう。

(2)モラルの衰退。宗教や伝統精神に則った道徳心はモラルを保つと先に述べたが、(1)の理由で道徳心が衰退するとモラルもあわせて衰退する恐れがある。そのとき人々は道徳心をもって子供を教育するだろうか、それともダイレクトにモラルのみを教育するだろうか。

(3)日本の近代国家の歩みにおいて、日本人にそぐわない価値観が紛れ込んだ国家体制が導入され、それが日本社会にひずみをもたらしているのではないか。つまり現在の民主主義体制への懸念である。民主主義は概ね人類に共有されうる価値観のようだが、その形態は国によってさまざまあるはずだ。現在日本で行われている民主主義体制は日本の道徳心なり国民性にあったものなのか。

 これらの不安をぬぐうためには、そもそも日本の伝統精神とはどのようなものなのかを知る必要がある。道徳心は時とともに変化するかもしれない。しかし、日本人として守っていくべき精神はあるはずだ。そうした日本の伝統精神を明らかにすることで日本に合った民主主義を考えることができるのではないか。松下幸之助塾主(以下塾主)は同様の問題意識のもと、日本の伝統精神を『日本と日本人について』の中で考察している。以下、この著書をベースにそもそも日本の伝統精神とは?について考え、そして今後何をすべきかについて考察する。

日本の伝統精神について

 『日本と日本人について』の中で塾主は、日本の伝統精神について

衆知を集める
主座を保つ
和を貴ぶ

の三つを挙げている。

 まず「衆知を集める」についてである。塾主は「衆知を集める」を挙げた理由として、記紀に八百万の神々が衆議を諮っている記述があること、武家社会においても軍議などの際には殿様が家臣に諮り意見を集めていた、等としている。

 ところで日本において神は人間である、という考え方があるそうだが、日本では優れた業績をもつ人物も、神社に神として祀られることがある。そして、人々がそこに参詣するのは、見方によっては、そこに祀られた人の業績を改めて考え直し、その知恵をわがものとしてとりいれて、それを自分の人生なり共同生活運営に生かしているのではないか、というのである。確かにこのような謙虚な姿勢がなければ衆知を集めるということはできない。海外では自分の意見をはっきり主張することがよいとされることが多いが、まずは相手の意見を聞く、というのは日本人の特質なのかもしれない。

 衆知を集めるには、話し合いの場をもたなければいけないが、その伝統は農村社会にあると考える。村の運営は村の成員が寄合いを通じて行っていた。農作業や祭礼、年中行事である。年末に祖父母のふるさとで過ごすことが多いが、大晦日に四宮様と呼ばれる村の小さな神社にいくと、いつも数名で夜中の2時くらいまで神社の守りをしている。そういった共同作業が年間を通じて何度かあり、どのように運営していくのか話し合っているようだ。若衆組などと呼ばれた青年団も衆議し、共同で村の運営にかかわっていたのであろう。人々が集まり、自分の意見を言う前に人の意見を聞き、衆知を集めるということは、日本人の神という考え、神社や農村社会の存在から生まれたのではないかとも思える。そのDNAは今なお日本人にあるのだろうか、日本の会社は会議が多いといわれるが、それは措く。

 次に塾主が挙げる日本の伝統精神は「主座を保つ」である。『日本と日本人について』の中でこう述べる。

 「昔から日本には、“王は十善、神は九善”ということばがあります。つまり、神仏よりも天皇の徳の方が高いということで、天皇の位を神よりも上においているわけです。(中略)いっさいの宗教の上にあるといいますか、天地に冠たる天皇の主座というものがうかがわれるのではないでしょうか」

 「そしてそのように天皇にみられる、つねに主座を保つという姿、いいかえれば自分を失わないで、自主性、主体性をもって教えをうけ入れ尊びつつ、これを生かしていくということが、一つの日本人の国民性であり、伝統の精神だと思います」

 欧米やイスラム教国において一神教は道徳的、精神的思惟の原理である。日本は神道の八百万の神に代表されるように、これが原点、原理といえるものはない。ゆえに立ち返る原点がなく不安になる。しかし、塾主のこの考えを読むと、日本人が立ち返る原点は天皇にあると理解できる。このように天皇が日本の伝統を保つという主座を守っているため、仏教や儒教をとりいれたり、漢字の文化をとりいれたり、明治期においては西欧の文物をとりいれることができたと解釈できる。ものごとの本質はとりいれず、表面的なもの、形式的なものだけをとりいれているにすぎないのではないかとも考えられる。クリスマスや仏式の葬式をみるにつけ、本質を追究しない気質が日本人にある気がする。本質にさえふれなければどんな外来品をとりいれようが、本来の主座を保つことができるというのが日本人の本能であり知恵なのかもしれない。

 最後は「和を貴ぶ」である。『日本と日本人について』ではその理由として、聖徳太子の十七条憲法の第一条にある「和をもって貴しとなす」や、敵に塩を送った上杉謙信や、敵であっても死者を大切にする武士の心、そして徳川体制による二百五十年の平和を挙げている。初めは島国だから外乱の影響も比較的少なくてすみ、平和が保たれたと考えていた。しかし、同じ島国英国は日本のように資源もなく、隣国には大国がひしめきあっているなかで敢えて外に出て戦争をし、大英帝国を築き上げた。歴史的要因がさまざまあるとしても、少なくとも英国に比べると日本は平和的な国民性をもっているのかもしれない。またこの「和を貴ぶ」は先述のとおり、コメ作の農村社会であったことが要因の一つとも考えられる。協働ができてこそ運営ができる農村において和を重んじることは重要なことだったと想像される。日本人は本質を避ける嫌いがあるのではないかという趣旨のことを述べたが、相手の本質をあからさまに衝くことはいざこざのもとになる。和を保つには本質の議論はなるべくさけたほうがよかったのではないか。そこから「本音と建前」といったややマイナスイメージの国民性や、個を捨て他を思いやる国民性も生まれたのかもしれない。

 他にも日本の伝統精神と考えられるものはあるだろうが、以上「衆知を集める」「主座を保つ」「和を貴ぶ」の三つが主な伝統精神であると塾主は説く。では、これら日本の伝統精神を守っていけば、日本人のモラルの低下を防ぐことができるのか、また、これらの伝統精神に則った政治体制とはいかなるもので、それは政治の行き詰まりを防ぐことができるのか、ということに話を移す。

日本の伝統精神を守った末に(モラルのこと)

 昨今、個人主義という言葉をよく耳にする。この言葉は誤解されているのかもしれず、一番悪いケースでは自分さえよければいい、という表現のときにこの言葉が使われる。個人を尊重するのは時代の流れのようである。かつて封建制で身分の差があり、農奴から王族がいた当時から考えると、徐々に社会的階級というものが解消され、社会的階級に埋もれていた人々が個として社会と直接接するようになり、そして昨今、「私らしさ」「自分らしさ」が強調される時代になっている。そうした歴史の流れをみても今後個人が大切にされるというのは時代の必然なのかもしれない。しかし他方で、人と人の絆が希薄になっていることが社会問題として指摘されている。「衆知を集める」「和を貴ぶ」は日本人の伝統的精神であることをみた。「衆知を集める」には人が集まり、話をする必要がある。そして「和を貴」べば相手の意見を聞き、相手を思いやる心も生まれるのではないか。「衆知を集める」精神と「和を貴ぶ」精神は個を大切にする時代にあっても矛盾することはないと思う。そして、日本人の精神的、文化的原点は何かというと、それは天皇にあるのかもしれない。国際情勢が目まぐるしく変化し、多くの情報やさまざまな価値観に埋もれ、自分の、そして日本人としてのアイデンティティがみえなくなったとき、「天皇」ということに立ち返って考えてみると良いかもしれない。そこから自分が保つべき主座を見出し、また国際舞台に躍り出ることができるのではないか。日本として、日本人としての主座を守り続けて下さっている天皇は誠にありがたい存在である。

日本の伝統精神を守った末に(政治の行き詰まりのこと)

 最後に考察したいのは、日本の伝統精神に則った政治体制、特に民主主義、というものはつくることができるのか、そもそもそのようなものは存在するのか、ということである。

 実は今ここでどういう民主主義体制がよいというような答えは持ち合わせておらず、宿題とさせてほしい。ただ、ぼんやりと思うにアメリカのような大統領制は違うと思う。アメリカでは小学校で“show and tell”という教育を行っているそうだ。それは生徒が皆の前で自分の意見を伝える訓練らしい。そういった文化というか教育環境で育ったアメリカの政治家は、ディベート力が日本の政治家と比較して高いという。政治家もふくめ国民一人一人が自分の意見をもち、それを伝える訓練を受けているアメリカだからこそ、あの大統領選挙もダイナミックに機能するのだろう。それを考えると、アメリカを想像し、それを日本に取り込むのは、そもそもの土壌を考えても無理ではないかと思う。

 日本では道州制が浮沈を繰り返しつつも議論されている。現在、各都道府県知事は県民に直接選挙で選ばれ行政を行っているが、それは比較的うまくいっているように思う。しかし、道州制になった場合、首長を道州民が直接選挙で決めるのは問題がある気がする。なぜなら各道州内における県レベルの人口格差が大きく、人口を抱えた都市出身者の選出が有利になり、政策もその都市に有利なものになる恐れがあるからだ。道州制の導入は日本の伝統精神をくみ、日本にあった民主主義を確立するチャンスである。今は不勉強ゆえこれ以上踏み込んだ議論はできないので、今後も引き続き考察し、改めて日本にあった民主主義について述べてみたいと思う。

最後に

 今回、このレポートをもって、日本人ということについて真正面から考えることができ大変貴重であったし、自分にとって天皇とは何なのかを考えることができ勉強になった。松尾芭蕉の言葉に不易流行があるが、いかに変化する世の中でもかならず変わらないものはあるはずで、それを見出し守っていくとことが大切だと改めて実感した。まだまだ中途半端な理解ばかりだが、これをきっかけに更に日本や日本人ということについて考察を進め、残った宿題に取り組んでいきたいと思う。

参考文献

松下幸之助『人間を考える 新しい人間観の提唱 真の人間道を求めて』 PHP文庫
松下幸之助『人間を考える 第二巻 日本の伝統精神 日本と日本人について』 PHP研究所
松下幸之助『政治を見直そう』 松下政経塾
佐伯啓思『自由と民主主義をもうやめる』 幻冬舎新書
司馬遼太郎、ドナルド・キーン『日本人と日本文化』 中公文庫
船曳建夫『「日本人論」再考』 講談社学術文庫
ルース・ベネディクト『菊と刀』 講談社学術文庫
宇野重規『<私>時代のデモクラシー』 岩波新書

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内田直志の論考

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Tadashi Uchida

内田直志

第31期

内田 直志

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