論考

Thesis

愛すべき国家とはいかなるものか

リーダーを目指す我々、政経塾生が毎日唱和している松下政経塾の理念である塾是の一行目には「真に国家と国民を愛し」とある。松下幸之助塾主がここに込められた思いを紐解き、国家とは何かについて考察する。

1)はじめに ~日本人の国家意識~

 真に国家と国民を愛し
  新しい人間観に基づく
  政治・経営の理念を探究し
  人類の繁栄幸福と
  世界の平和に貢献しよう”

 これは松下政経塾が掲げる塾是である。われわれ政経塾生が追い求めるべき理念である塾是に、松下塾主が込めた思いの結晶である。この一行目には「真に国家と国民を愛し」とあるが、われわれが愛すべき国家とはいかなるものだろうか。本レポートを通じて考察してみたい。

 一般に、国際法において、国際法人格を認められるための要件は、以下の四点を満たすことである。

(1) 永久的住民(=国民)
(2) 明確な領域(=領土)
(3) 政府[国内自治の実効性の確立](=主権)
(4) 他国と関係を取り結ぶ能力(=外交能力)

 近年、日本はこの四要件のうちの一つである「領土」を侵されんとする深刻な事態に数多く見舞われている。これらの事態をニュースで見て思うことは、日本人は本当に国を守るという意識はあるだろうか、ということである。画面を通して伝わってくる他国のそれとは明らかに違うように感じる。確かに領土を侵犯されようとしていることに対して一様の怒りは持っていることだろう。
 しかし、一部の過激論者を除き、自発的な意思を持って行動するということをどれだけの日本人が行うだろうか。反射的に売られた喧嘩を買うと言うようなスタンスで、態度を示しているだけなのではないだろうか。本質的には何に憤りを感じているのであろうか。

 欧亜18か国を対象として国家に対する市民の一般的な態度を探究することを目的とした調査によると、強烈に国民=民族を重要視している周辺国の韓国や中国に比して、日本は、国民=民族に熱情を寄せる人は決して多数ではない。そして、国家に対する一定の肯定的な感情と、国家を全面的に支持することへの拒絶とが入り混じっている国家に対する「ためらいがち」な何とも煮え切らない中庸な態度を示している(Blodel and Inoguchi 2010)。
 この曖昧模糊とした態度が、まさに日本人の一般的な国家に対する意識そのものといえるのではないだろうか。
 しかし、一方で連綿と続く二千年以上の歴史に裏打ちされた国の姿は、特異な形として存在しているはずである。国の形、そして日本について考えてみたい。

2)歴史と風土に基づく日本人の特殊な国民性

 塾主は、人知が進歩するに従い、集団生活が大きくなり、それにつれて、村落から郷、町へと発展し、ついに一民族なり数民族を一つの集団として出来上がったものが、国家であると考えている。そして、国家という集団生活は、結局、人間の繁栄、平和、幸福を増進し、人類の文化を向上せしめるために存在しており、国家があるために、人間がいるのではなく、人間の繁栄、平和、幸福を達成するために国家が存在しているのである。
 すなわち、人間がいなければ、国家は存在しておらず、国家は結局のところ、人間のためにあるのである。
 この考えに立脚すると、結局のところ、国家を考えるということは、そこに住んでいる人間そのものを考えるということに他ならないのではないだろうか。この観点から、日本を捉えてみたい。

 哲学者、和辻哲郎は著書、「風土」の中で、民族の精神構造(国民的性格)を、その歴史を包含した風土の側から把捉することを試みている。日本は言うまでもなくモンスーン気候帯にしており、最も防ぎがたい湿潤によってもたらされるその地域の特性を、受容的・忍耐的であるとしている。
 加えて、四季折々の季節の変化が著しいように、日本人の受容性は大陸的な落ち着きを持たないとともに、調子の早い移り変わりを要求し、はなはだしく活発であり敏感である。さらには梅雨や台風、はたまた大雪など時に突発的に牙をむく自然に向き合う中で、変化においてひそかに持久する感情が育まれてきた。
 日本人の国民的性格は、豊かに流露する感情が、変化においてひそかに持久しつつその持久的変化の各瞬間に突発性を含むこと、およびこの活発なる感情が反抗においてあきらめに沈み、突発的な昂揚の裏に俄然たるあきらめの静かさを蔵すること、において規定されている。つまり、忍耐の中に移り気でせわしない特質を持っていることが日本の特殊性を発揮していると主張している。

 そして、この日本人的性格は「家」という概念により大きく規定されているとしている。日本人は、自然と共生することで、その特殊性を維持し続けていると記しているが、その成立には日本人が襖や障子と言った部屋間の隔ての無い日本家屋に住んでいることを前提としている。
 日本人にとって「家」は「うち」であり、居間を共有し、障子や襖などで仕切られているだけの自分と他との間に「へだて」が無い状況である。一方、西洋では、「家」の意味が個人の私室にまで縮小され、家が無くしてただ個人と社会とがある状態である。そのため、町全体を共有しているという意識が成立している。
 日本では「家」の内部における「へだてなさ」への要求が強ければ強いほど、共同への嫌悪も強くなり、垣根で守られた外の世界、社会はまさに家の外であり、自分のことではないのである。

 こういった背景を考えると日本人が公共心、社会に対して資する意識が低く、また政治など公共への影響力に無関心であることについても一定の納得感が得られるように思う。
 その気質から社会や政治の影響を忍従しつつも、時に感情を表現し、またその感情を仕舞い込み、変化に対応してしまうという極めて特殊な国民性を有しているのである。日本人が何故、国や社会に対してある種、達観したような無関心であるのは、ここに起因しているのではないかと理解することができるのではないだろうか。

 また民族の気質、性格が歴史的風土に起因しているとするならば、東西南北に細く長く伸びる国土の上に成立しており、地域、地方によって大きく異なる風土を持つ我が国においては、「くに」とは「国」ではなく、「郷」という意識が大きいと考えることができるのではないだろうか。そう考えると、日本人が日本という国を全体感として捉えることが苦手な国民であるとも言えるのではないだろうか。

 しかしながら、和辻が生きた時代とは異なり、現代日本を鑑みると、日本人の気質の成立条件のその前提となるはずの家はほぼ崩壊しているようにも感じられる。襖や障子が全く無く、横に這いつくばるように広がっている日本家屋ではなく、縦に伸びる西洋形式の家屋に育ち、「家」に起因するその精神構造を有しない日本人が増えていることを考えると日本人の特殊性は失われつつあるとも考えられるのかもしれない。

3)国家に経営理念を

 国や社会に対する意識、態度の積極性如何によらず、人間が共同生活を営み、またその共同生活が拡大するにつれて、国という発展の手段を活用する立場にあるとするならば、自ずと国がいかにあるべきか、を考えることは避けて通れない道であるだろう。

“一国を経営するということについても、まったく同じことではないだろうか。家には家の方針、会社には社是のあることが健全な営みのための一つの大きな条件であるように、国に国是のあることが、一国の繁栄のために欠くことのできない一つの条件だと思うのである。もとより私がここで言う国是とは、国民の思想の自由を拘束するものではない。国民がその思想において自由であることは大いに尊ばれなければならない。しかし、そうしたいろいろの思想を超えて国民共通の基盤となりうる方針というものが考えられるであろう。それが国是であり、一国の繁栄のために欠くことのできないものだと思う。つまり、国民がその力を結集し活動の結果を能率よく生かして、真の繁栄、平和、幸福を生み出していくためには、やはり国としての信条というか、国民共通の努力目標というものが必要だということである。
~中略~
国として国民共通の努力目標をもつことが、国家経営の上で大きな力を発揮するものだといえるであろう。正しい国是というものが必要とされるゆえんである。”

 塾主はこのように事あるごとに、我が日本に国家経営の理念、国是がないことを嘆いていた。
 それは、塾主が松下電器産業(現パナソニック)の経営を実践する過程において、理念や目標を定めることの重要性を実感として強く感じていたからに他ならない。塾主は企業規模が大きくなるにつれ、経営上の課題に多く直面した。その時にその課題を解決するために立てたのが経営理念である。特に「企業は人なり」という強い信念の基に、経営を形作っている人知、人の力を如何に結集し、力強い活動にしていくかが経営の要諦であるとの認識に立っていたからである。

 中でも塾主は昭和7年に産業人としての真使命を自覚し、再創業したとされる「命知」によって、一つの経営理念というものを明確に持った結果、塾主自身がそれ以前にくらべて非常に信念的に強固なものができてきただけでなく、従業員や得意先に対しても、いうべきをいい、なすべきことをなすという力強い経営ができるようになった。従業員も非常に感激し、使命感に燃えて仕事に取り組む姿が生まれてきた。いわば経営に魂が入ったといってもいいような状態になった、と述懐している。目標を持つことが人間の力を引き出し、力強い活動を生み出すことを強く実感されたのである。

 人間が目標を持って行う諸活動をすべてこれ経営であると考えていた塾主からすれば、当然、国を動かす政治は国家経営であり、これを人間が行う限りは企業経営と本質的に同じであると考えた。国を形づくっているのが人だとすると、その国を動かす政治は、まさに人を動かすことに他ならない。
 国家にも強い目標があれば、必ず人間は力強く活動できると信じていたのである。

 経営理念を打ち立てることにより、会社に属する社員全員で目標を共有することで、各々の持てる力を引き出し、力強い活動が生み出されていく。そして、企業体全体としては、大きな困難に差し掛かった時に、乗り越えていく規範、力の源泉となるべきものなのである。

 今日の日本は、この国家経営の理念が存在しないため、この大苦境、大困難の時代に寄って立つものが存在せず、皆が右往左往しているような状況ではないだろうか。まるで時代の波に抗えずに流されていく小舟のように、ただただ困難に飲み込まれていってしまっているような印象を受ける。そして、近年の派遣切りや若者のワーキングプアの増加などの社会状況を見るにつけ、ついには同じ日本国民同士での切り捨てまでもが行われているようにも感じてしまうのである。
 例えていうなれば、棒倒しで日本という棒を必死に守っていたが、いつの間にか守っているべき棒がなくなっており、おしくらまんじゅうになってしまっていた。そして、同じチームメイトのはずの人間同士で、お互いに押し出しあってしまっているような状況であろうか。

 この国難に際しての拠り所、中心の芯となるべきもの、それが国是に他ならないのである。
 確かに周囲を見まわしてみると、個々人、各個企業は、必死で頑張っているのである。しかし、その各々の頑張りが国という我々が乗っている舟にとっての大きな推進力となっていないのは、取りも直さず、目標、すなわち、目指すべき方向性、目的地が定まっていないが故に他ならないだろう。

 一億二千万人以上の人口を抱え、生産活動の受け皿として扶持力の高かったこれまでの日本は、地域ごとに個別最適することが全体の利益に繋がった。しかし、人口が縮小し、国力が弱まった上、グローバル化が進展する現代においては、全日本の総力を結集し、全体最適の視点で臨まなければ、国としての成長は見込めないであろう。
 私は転勤族の親を持ち、その成長過程において全国を転々としたため、故郷に対する意識というものはやや薄いように思う。しかし、人口の都市集積が進む中、私と同じような意識を持つ日本人はそう少なくないことは想像に難くない。人口の流動性が高まり、結果的に、郷里に対する意識が薄れ、内向きの村意識が消失へ向かっている今こそ、そしてグローバル化する中、日本国内だけの視点で物事を捉えていくことができなくなってきた今こそ、日本とは何かについて総体として積極的に捉え直し、この国をどのようにすべきか、この国はどこに向かうべきかについて指し示すべき時なのではないだろうか。

 そして、国を形づくっているのも人ならば、その国を経営し、動かしていくのも人である。であるが故に、その人間をいかに成長させるか、育てていけるかということも、これからの日本の姿をより強固なものにしていくためには必要な視点である。国に目標があって初めて、それに必要な人材の姿を規定することができ、個々人についても人生の目標を設定し、それを力強く推進することができるのである。

 さらに塾主は経営理念を立てることの効果を、経営する側の視点からもみている。経営者は自ら孤独な決断をしなければならない。そこで、迷った時、苦しい時に、経営の目的、初心に立ち返るための心の拠り所となるものだと言う。
 今の国を動かす指導層が、この国難に差し掛かって今なお、右往左往し、場当たり的な対応を繰り返していくように見えるのは、この目標が定まっていないがためではないだろうか。指導者層が困難に際して、当座の対応に終始するのではなく、本質的な判断をし、抜本的に対処していくためにも国に目標が必要なのである。

 また目標を持つべきことに加えて、それを周知徹底し、皆の目標として共有することも重要であると塾主は説いている。目標は立てただけでは絵に描いた餅になってしまうのである。

 自分自身の経験にも照らし合わせて考えてみると、前職の印刷会社での勤務時代に、数々の得意先企業の経営層や本社、本部から、現場に対してビジョンや目標を浸透させることをお手伝いしてきた。その中で、ビジョンや目標が形式のみの掲出になってしまい、現場に一切伝わらない、それらが無いも同然という状況に数多く出くわした。
 その原因は、それらがどこか借り物のようで熱を帯びていないものであったり、伝える側は受け取り手のことを考えずに、単に発信しただけになっており、伝わる、理解するという状況にはほど遠いことに起因していたように思う。伝えると、伝わったは、違うのである。

 理念や目標を受け取る側の力強い活動を引き出すためには、発信側の強い信念と魅力が必要なのは言うまでもなく、受け手である彼らのことを理解し、彼らに共感してもらうよう努力すること、そしてさらには語り続けることが重要なのである。

4)終わりに ~愛すべき国家と国民を自己認識して~

 塾主は、前述のように政治もまた経営であると考え、その考えにおいて、政治は生産性を高めなければならないと常々言っていた。日本は、ほぼ一国一民族、一言語であり、狭い国土に支えられた日本の政治は、世界で最も政治の生産性が高い日本式民主主義を確立することが可能であると強く信じていた。

 そして、日本の将来のあり方を考えていく上で、どういうことがいちばん大切か、を問われた塾主は、こう答えている。

“日本の国として、日本人としての自己認識ではないでしょうか。日本の国はどういう国であり、日本人はどのような特質をもった国民かということですね。そのことを的確に把握しないことには、日本のあるべき未来像は描けないと思うのです。”

 これから日本国民みんなで邁進すべき国全体での目標を立てるにあたっては、何をおいてもまず、日本、日本人の特性の上に立っていなければならない。いくら、立派な目標を打ち立てたとしても、その目標を達成するために活動するのが、そこに居る人である限りは、その国、国民の特性、性質に沿っていなければ、力強い推進力は生まれてこないのである。
 愛すべき国家と国民について正しい認識と理解の上に立ち、日本と日本人のための理念を構築し、国民全体を力強い活動へと導いていくことが、これからの日本を背負うリーダーを目指す私達に課せられた責務であると自覚し、自らを律し、更なる研鑽を積んでいきたい。

参考図書:

松下幸之助『PHPのことば』PHP研究所 1975年
松下幸之助『人間を考える 第一巻』PHP研究所 1975年
松下幸之助『人間を考える 第二巻 日本の伝統精神 日本と日本人について』PHP研究所 1982年
松下幸之助『実践経営哲学』PHP研究所 1978年
松下幸之助『私の行き方 考え方』PHP研究所 1986年
PHP総合研究所研究本部「松下幸之助発言集」編纂室『松下幸之助発言集1-45』PHP研究所 1991-1993年
佐藤悌二郎『松下幸之助成功への軌跡 その経営哲学の源流と形成過程を辿る』PHP研究所 1997年
猪口孝/ジャン・ブロンデル『現代市民の国家観 欧亜18か国調査による実証分析』東京大学出版会 2010年
和辻哲郎『風土 人間学的考察』岩波文庫 1979年

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林俊輔の論考

Thesis

Shunsuke Hayashi

林俊輔

第33期

林 俊輔

はやし・しゅんすけ

株式会社de la hataraku 代表取締役/アジアユニバーサル農業研究会 事務局

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日本農業の再生と価値創造 ~モンスーンアジアのリーダーを目指して~

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