論考

Thesis

「率先垂範」が人々を動かす

1. リーダーとしての「率先垂範」

松下幸之助塾主(以下「塾主」)は松下電器を起業し以来、零細企業から中小企業、そして世界に冠たる大企業の経営者として、常に人々のリーダーであり続けた。その経営哲学は組織の大小を問わず、広く通用することを塾主は身をもって証明している。今回私はその中でも、特に「率先垂範」を取り上げて研究対象とする。

「経営者は自分の責任を厳しく自覚し、一心不乱に仕事をしなければならない」[i]
「主人公の率先垂範が第一」[ii]

 塾主は経営者を広くリーダーと捉え、社会の中のあらゆる組織における先導者だと考えた。様々な人々の集合体である組織については、「十人が十人とも自分の思うとおりに働いてくれることは、めったにあるものではない」[iii] と言い、諦念ともいえる認識を示している。そのような「粒より」ではない組織を動かしていくのは、他でもない経営者自身であり、その行動指針の一つとして示したのが、この「率先垂範」である。

 そもそも「率先垂範」とは、中国の古典に由来する熟語の組み合わせである。「率先」とは歴史書『史記』に由来し、「人の前に立って、物事を進んで行うこと」。「垂範」は歴史書『宋書』に由来し、「自ら模範を示すこと、人の手本になること」とされている。すなわち「率先垂範」とは「人々の先頭に立ち、自ら模範を示す」ことに他ならない。塾主は、リーダーとしての心構え、根本的な姿勢・態度を「隗より始めよ」と説いたのである。

2. 塾主による「率先垂範」

 塾主の生涯を振り返った時、各々の時代によって「率先垂範」を実践したことが分かる。1923年の12月、工場の年末大掃除において誰も便所を掃除していないのを見かねた塾主は、所主(社長)の立場でありながら、自らほうきとバケツを持って、ゴシゴシと擦り始めたという。「便所もきちんと掃除せよ」と言うは易しだが、この時塾主は「便所掃除が終わったら、何と言われようが、みんなに強く注意をしよう。」と先ずは自らが活模範となり、後から皆に気付きを持ってもらおうと考えたのである。創業から5年というまだまだ事業規模もそう大きくない時期から、塾主は人々を自らの行動で引っ張っていこうという覚悟と気概を持っていたことが象徴的に表れているエピソードだ。

 1930年代初頭には、ラジオの重要部分の特許を、ある発明家が所有しており、これが原因で国内電器メーカーは安価で質の高いラジオを作ることが出来なかった。これを憂慮した塾主は「必要な技術を必要ある者が使えないのでは業界の発展はあり得ない」[iv]と考え、1932年に特許を買収。同業メーカーが自由に使えるように無償で公開するという大胆な決断のもと、これを実行した。業界全体の発展に繋がるこの決断は、各方面からの称賛を浴びることとなった。

 終戦直後の1946年の正月、塾主は「絶対に遅刻しないぞ」と心に決めた。体調が優れないことも多かった塾主は、この大変な時期に無遅刻無欠勤で通そうと決意したのである。ところが初出勤の1月4日朝、運転手の不注意により、悪天候も相まって迎えの車が遅れたことにより、とうとう10分の遅刻をしてしまう。この遅刻を受け、運転手はもとより多少なりとも責任のある8名を減給処分にした上で、会社の責任者たる塾主自身も1ヶ月分の給与を返上した。自ら範を示すこの行動は、戦後の混乱期にあった会社を立て直す原動力となった。

 1964年、東京五輪のあったこの年、金融政策の引き締めもあり各業界は不況に見舞われた。特に電器業界は、一般家庭の強い需要に支えられた家電ブームが一巡したこともあり、とりわけ状況は深刻であった。経営の第一線から退き、会長に就任していた塾主は、全国の販売会社、代理店の窮状を見聞きし、「このままではまずい」と考えた。熱海のニューフジヤホテルに全国の販売会社等の社長を招いてその窮状を聞くと、「非常時には非常時のやり方がある」と販売本部長代行として現場復帰。いわゆる「熱海会談」である。3つの「新販売制度」を核とした経営改革を70歳前後の塾主が自ら断行し、松下電器は最高益の達成へと向かう。これもまた、塾主が自ら必死に現場で奮闘する姿に、会社全体が頑張ろうという雰囲気を醸成した好例である。

 塾主は最晩年の1978年、ますます混迷を極める日本への憂いから、次世代の指導者を養成する松下政経塾(以下「政経塾」)の構想を発表。実はこの「政経塾」構想は1960年代にも練られていたが、「政治に関連した仕事で、いままでに実業家が成功したためしはない。」[v]という当時の経済界指導層の強い反対に遭い、塾主は一度断念している。しかし、止むに止まれぬ気持ちから、10年を経過した後にこの構想を発表したところ、経済界からも「やはりあの時、松下さんの言う通りだった」と賛意が示された。こうして1979年に設立、1980年に開塾された政経塾は、塾主の国づくりに対する「率先垂範」の体現とも言える。こうして生涯を通じて「率先垂範」を実践した塾主は、1989年、94年の生涯を全うした。

3. 一心不乱こそ「率先垂範」

政経塾のモットーである「五誓」のひとつに「先駆開拓の事」がある。
既成にとらわれず、たえず創造し開拓してく姿に、日本と世界の未来がある。時代に先がけて進む者こそ、新たな歴史の扉を開くものである。[vi]

 塾主は、1932年の「命知」以降、世の中の当たり前を常に疑い、どうしたらこの世から貧困を無くせるかということを考えて、行動した。塾主の斬新かつ先駆的な言動は、時に称賛を浴び、時に世間から批判を浴びることもあった。それでも塾主は「社会のために必要不可欠である」という強い信念があったからこそ、世相にぶれることなく、「率先垂範」の精神で何事にも取り組んでいたのではないだろうか。

 責任感溢れる行動は、人々の心に響く。だから人は、そうした「率先垂範」を旨とする経営者・指導者についていこうと考える。つまり「率先垂範」とは、頼れる仲間を増やす特効薬なのである。

 実は私自身の人生経験においても、「率先垂範」の効用を強く感じる出来事があった。陸上自衛隊において、小隊長として新型コロナウイルス水際対策災害派遣に従事した際、小隊の誰よりも早く現場に来て状況を掌握し、活動間も現地現場に進出して隊員の心情把握や状況変化の確認を実施し、最後の1名が任務完了するまで現場を見届けた上で撤収作業を行なった。塾主はこう言う。

『だれよりも早く起き、だれよりも遅くまで働く。やはり経営者自身が身をもって示すことが第一です。ああすればこうなるとか、こうすれば社員はどう動くかという意図的なことに神経を使うよりも、まず自分が一心不乱にやることです。[vii]

4. まとめ(決意)

塾主は生前、経営哲学を語るときにこのような言葉を残している。

『事、非常時に臨んだときは(中略)率先垂範する。身をもって率先垂範するか、精神的に率先垂範するか、その両方をもって率先垂範するか、何らかそういうものをもたなならん。
そうすると無言のうちに、空気が変わってくる。
そういうことが(中略)首脳者の私は責任態度やと思うんですね。[viii]

 私はこれからも、この「率先垂範」をあらゆる現場で実践することで、多くの人々の賛同を集める指導者を目指したいと思う。その為には自分自身が、目の前の研修に対して一心不乱に取り組むことが重要だ。その姿からは熱意が感じられ、それが覇気を生み、仲間が集まる原動力となっていくことを信じて、突き進んでいきたいと思う。

引用・参考文献

[i] 松下幸之助『実践経営哲学/経営のコツここなりと気づいた価値は100万両』株式会社PHP研究所、2014年、p.130

[ii]松下幸之助『実践経営哲学/経営のコツここなりと気づいた価値は100万両』株式会社PHP研究所、2014年、p.130

[iii]松下幸之助『実践経営哲学/経営のコツここなりと気づいた価値は100万両』株式会社PHP研究所、2014年、p.128

[iv]パナソニックミュージアム 松下幸之助歴史館『松下幸之助歴史館』2019年、p.23

[v]松下幸之助『リーダーを志す君へ 松下政経塾 塾長講話録』株式会社PHP研究所、1995年、p.51

[vi]松下政経塾「塾是・塾訓・五誓」1979年

[vii]松下幸之助『実践経営哲学/経営のコツここなりと気づいた価値は100万両』株式会社PHP研究所、2014年、p.129

[viii]「松下幸之助講話(音声)『率先垂範』」松下幸之助創設 PHP研究所、2016年10月14日、
https://www.youtube.com/watch?v=tKE8e4hXWps (2024年5月9日参照)

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斉藤竜貴の論考

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Ryuki Saito

斉藤竜貴

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