Thesis
現在、我が国で用いられる代表的な年の数え方としては、天皇陛下の御即位を紀元とする「元号」と、キリストの生誕年を紀元とする「西暦」が挙げられる。一方で、企業にもその創業を紀元とした紀年法が存在し、代表例として松下電器製作所(現・パナソニック ホールディングス株式会社)が用いる「命知」がある。
本稿は、松下幸之助塾主(以下「塾主」)が命知を定めた背景、理論および実践方法を概観しその意義を考察するとともに、命知が松下政経塾(以下「政経塾」)建塾に及ぼした影響について考察するものである。
昭和2年3月、片岡直温蔵相の失言をきっかけに銀行取付けが発生し、金融恐慌へと拡大した。その余波がある中でも松下電気器具製作所は順調な発展を続け、販売額は10万円を超え、従業員も300人に増えていた[1]。
昭和4年3月、塾主は大阪市大開町の新本店完成を目前に松下電気器具製作所を松下電器製作所と改称すると同時に、「松下電器綱領」を制定する。その内容は、
「営利ト社会正義ノ調和ニ念慮シ、国家産業ノ発達ヲ図リ、社会生活ノ改善ト向上ヲ期ス」
というものであり、事業を単に営利追求の手段ではなく、社会の為に産業人としての本分を尽すという経営基本方針が示された。これと同時に、
「向上発展ハ各員ノ和親協力ヲ得ルニアラザレバ得難シ、各員自我ヲ捨テ互譲ノ精神ヲ以テ一致協力店務ニ服スルコト」
という「信条」も制定された[2]。塾主がこの綱領と信条を制定した背景には、松下電器の規模拡大と、「企業は社会の公器」論の2つが挙げられよう。
まず前者であるが、前述のように当時松下電器は販売額、従業員数の増加、新本店開設というように、当初家内制手工業だった事業が町工場以上の規模へと拡大していたのだが、これによって塾主だけでは会社のすべてを見切れないという事態が発生していたと考えられる。第一次世界大戦後の不況や金融恐慌を背景に労働争議が漸次増加していた情勢下で、塾主は会社の方向性を統一、明文化し、信条によって社内の紀律を守らせる必要性に迫られていたと言えよう。
次に後者であるが、塾主自身事業拡大によって社会的使命を実感したことを綱領制定の理由として述べている。塾主は、「社会のために奉仕することを前提として、いっさいのものが考えられなければならない」と、企業が社会の公器であるという考えを示した[3]。この背景には塾主の税金に関する悩みがある。大正10年、税務署員が塾主に対し、申告以上に利益を上げていることを指摘するが、これに対して塾主は「自分の金だと思うから、悩みも起きるのだ」と悟り[4]、企業が「社会からの預かり物」であるとの考えに至る。
以上の背景から綱領と信条を制定し会社の基本方針を示した塾主だが、後年になって昭和7年以前は-謙遜の気持ちもあるのだろうが-、「経営理念というものについては、何らの考えもなかった」と回顧している[5]。次節では命知について概観し、加えて綱領・信条の制定では達成しきれなかった塾主の目的について逆照射を行い、考察を加える。
3.1 真使命を知る
昭和7年、塾主は知人の熱心な勧めにより、某宗教団体本部を見学する。それまでも塾主は宗教本山に数多く参拝したが、どこへお参りしてもさほど深い興味をもったことはなかったと回顧している[6]。しかしそこで塾主は教祖殿の材木が全国から献木され、信者たちが喜びに満ちた表情で製材や建設作業に奉仕している姿を目の当たりにする。世界恐慌や昭和恐慌のただなかでその光景を目撃した塾主は、宗教が人々の心に安心を、すなわち精神的な豊かさを与えている「聖なる事業」であると観察した。ここから事業経営について深く考えた塾主は、翻って松下電器がこれまで深く考えることなく電気器具を製造してきたことを反省し、日常製品を豊富たらしめ、日本人を貧乏から救うことこそが実業人としての使命であり、同じく「聖なる事業」であると認識したという[7]。そしてこの精神的豊かさと物質的豊かさは車の両輪であり、両者によって人類に幸福がもたらされるとの考えに至った。この時塾主には「稲妻のごとく頭に走るものがあった」という[8]。
このような真使命を知った塾主は、「かつて覚えたことのないほどの歓喜と、全身うちふるえるような熱情と、そして崇高な厳粛さとを犇々と身に感じつつ」、250年かけて生活物資を無尽蔵たらしめ、楽土を建設するという遠大な計画に落とし込んだ。そして事業開始から14年を超えた同年5月5日、全店員を大阪の中央電気倶楽部に集め、松下電器第1回創業記念式を挙行した[9]。この式典において塾主は、
「凡ソ生産ノ目的ハ吾人日常生活ノ必需品ヲ充実豊富タラシメ而シテ其生活内容ヲ改善拡充セシメルコトヲ以テ其主眼トスルモノデアリ〔後略〕」
という所主告辞を読み上げ、文字通り「真使命を知った」という意味で命知元年を宣言した[10]。その際、塾主は全店員に対して意見を言うよう求めると、「催眠術にかけられたように全員が興奮し」、壇上に駆け上って所信を述べたと丹羽正治氏は回顧している[11]。
3.2 命知の理論
ここからは命知を理論と実践方法の2つに大別してその構造を分析する。まず命知の理論であるが、命知は大きく3つの理論に支えられている。
1つ目に、水道哲学である。水道哲学とは、「水道の水は加工された価のあるものなるにもかかわらず、その量があまりにも豊富であるために乞食が水道の栓をひねって存分にその水を盗み飲んでもとがめることはない」という事例から、生活物資を無尽蔵たらしめることで貧をなくすという考えで[12]ある。
2つ目に、250年計画である。これは楽土建設の真使命を達成するため250年の期間を定め、それを10分割し、1節の25年をさらに10年の建設時代、10年の活動時代、5年の社会への貢献時代とした計画である。大森弘氏の研究によると、塾主は「なんで25年にくぎったかというと、人間はこれでだいたい代が一つかわりますやろ。つまり、十代かわったところに一つの理想をおいたわけでんな」と語っている[13]。
3つ目に、遵奉すべき5精神である。昭和8年に制定し、昭和15年には7精神となるこの規則によって、昭和4年に制定した綱領・信条の精神を松下電器社員に徹底し、規律することを意図していたと考えられる。
3.3 命知の実践方法
次に命知の実践方法について概観する。250年で楽土を建設することを打ち出した塾主は、大きく以下の3つの手法によってこの実現を目指した。
1つ目に、事業部制の導入である。昭和8年に、この製品分野別の自主責任経営体制が実施されるが、この背景には昭和7年当時1,200人余りの従業員、200余種の製造品目に拡大した会社の実態があり、そこから「自主責任経営の徹底」と「経営者の育成」が求められていたことが挙げられる[14]。
2つ目に、朝会と夕会の実施である。前述の事業部制は社員の自主自立を促すものであるが、会社としての統一性が欠如しては元も子もない。そこで方向性を共有する機構として導入したのが朝会と夕会であると考えられる。実際、塾主は朝会に関して、「集団的に業務を営む上で最も必要効果的なもの」と評している[15]。
3つ目に、フォードからの学びである。塾主は米国自動車王ヘンリー・フォードの自伝から事業家としての使命感を学ぶが、昭和12年にはフォード横浜工場を見学しライン生産方式を目の当たりにする。この見学について「すべての点に徹底的合理化」されており、「学ぶべきところが多大」と評している[16]。効率化された流れ作業によって無尽蔵に物資を生み出すという、生産におけるヒントを得たものと考えられる。
3.4 命知の意義
以上命知について概観したが、前述のように塾主が「稲妻のごとく頭に走る」という表現を使用した一方で、打ち出された理念には「社会生活ノ改善」という点で昭和4年の綱領と共通性が見られる。このことから再考すると、命知には以下の2つの意義があったと考えられる。
1つ目に、命知によって「社会生活ノ改善」を行う目的とその手段に方向性が見え、塾主自身が納得するような言語化、明文化ができたことである。塾主は命知以前の段階からフォードの大量生産方式に興味を持ち、昭和2年のスーパーアイロンに代表されるように安価かつ大量に物資を生産することによって国民生活を向上させることを実践してはいたが[17]、宗教から得たひらめきと命知によってその考えは塾主の中で言語化された形で腹落ちしたものと考えられる。そのため、前述の如く昭和7年以前は、「経営理念というものについては、何らの考えもなかった」と述べているものと思われる。
2つ目に、松下電器の方針を全社員と共有し、一致させる一種の象徴的な式典が実施されたということである。前述のとおり、当時は大正後半から不況の連続で、昭和7年時点でも昭和恐慌の影響を受けている情勢であったが、そこで懸念されたのが労働争議の発生である。というのも、塾主は某宗教本部に参拝した際、知人より、
「いま方々ではいまわしい労働争議というものが繰り返されております〔中略〕この時代において、精神的に確固たる安心をもって事業を進めていくためには、この教えは非常に力強いものがあります」
と諭されたと昭和29年初出の著書で回顧している[18]。このことから、宗教から学んだことを通じて労働争議の発生を抑えるないしは社内の方向性一致を考えていたことが推察される。その点では丹羽氏の回顧のように、命知を宣した創業記念式典は所主の告辞に感動した店員が壇上で所信を述べ、熱狂の裡に幕を閉じたとされることから、方向性の共有と社内の統一感情勢という意義があったことは確かであるといえると考える。その上、会社の規模が塾主の管理しきれない規模に拡大した時、企業経営方針の共有と一定の権限移譲という仕組みづくりが求められたのではないだろうか。
命知から約50年時代が下って、命知が松下政経塾建塾に与えた影響とは何であろうか。まず1つ目に、塾是である。塾是とはいわば塾の経営方針であるが、経営方針そのものを明文化して立てることが綱領や命知に通ずるものである。また内容としても松下電器、PHP研究所の綱領、松下政経塾の塾是には人類の繁栄幸福を追求するという使命が共通していると言える。加えて、長期的な展望を立てるという点でも共通性を見出すことができよう。
2つ目に物心一如の真の繁栄を目指すことである。これは設立趣意書に盛り込まれていることであるが、建塾時の問題関心であり塾生に求められているのは物心一如の繁栄の実現である[19]。
このような点で松下政経塾は命知から発する理念を継承しており、命知91年を迎えた今日も未達成の課題である物心一如の真の繁栄を成し遂げる実践者の育成機関として位置づけられると考える。
一次資料
二次資料
論文
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[1] 創業五十周年記念行事準備委員会『松下電器五十年の略史』(松下電器産業株式会社、1968年)、p.70。
[2] 同上、pp.72-73。
[3] 松下幸之助「生きがいをどうつかむか」(PHP総合研究所研究本部「松下幸之助発言集」編纂室『松下幸之助発言集10』PHP研究所、1991年)、1970年、pp.56-57。
[4] パナソニックホールディングス株式会社「松下幸之助の生涯 28. 税金に悩んで悟ったこと 1921年(大正10年)」、(閲覧日:令和5年4月30日)(https://holdings.panasonic/jp/corporate/about/history/konosuke-matsushita/028.html)
[5] 松下幸之助『実践経営哲学/経営のコツここなりと気づいた価値は百万両』(PHPビジネス新書、2014年)、pp.23-24。
[6] 松下幸之助『私の行き方 考え方―わが半生の記録―』(PHP文庫、1986年)、pp.278-283。
[7] 松下幸之助「命知五十年を期して決意を新たに」(PHP総合研究所研究本部「松下幸之助発言集」編纂室『松下幸之助発言集28』PHP研究所、1992年)、1980年、pp.373-377。
[8] 前掲、松下幸之助『私の行き方 考え方―わが半生の記録―』、p.290。
[9] 同上、pp.292-293。
[10] 松下幸之助「実業人の真の使命」(PHP総合研究所研究本部「松下幸之助発言集」編纂室『松下幸之助発言集31』PHP研究所、1992年)、1932年、pp.20-23。
[11] 石山四郎、小柳道男編『求 松下幸之助経営回想録』(ダイヤモンド・タイム社、1974年)、pp.44-45。
[12] 前掲、松下幸之助『私の行き方 考え方―わが半生の記録―』、pp.291-292。
[13] 大森弘「「二百五十年計画」論考―企業者論・松下幸之助研究(五)」(PHP総合研究所『論叢 松下幸之助』第11号、2009年、pp.48-65)、pp.55-56。上坂冬子『心ひかれた男たち』(PHP研究所、1980年)、p.195によるとのこと。
[14] パナソニックホールディングス株式会社「社史 事業部制を実施」(閲覧日:令和5年5月1日)(https://holdings.panasonic/jp/corporate/about/history/chronicle/1933.html)
[15] 松下幸之助「昭和15年7月9日 朝会は単なる形式ではない」(PHP総合研究所研究本部「松下幸之助発言集」編纂室『松下幸之助発言集29』PHP研究所、1992年)、p.219。
[16] 松下幸之助「昭和12年6月10日 フォード工場の見学」(前掲、PHP総合研究所研究本部「松下幸之助発言集」編纂室『松下幸之助発言集29』)、pp.201-202。
[17] パナソニックホールディングス株式会社「松下幸之助の生涯 42. スーパーアイロンが完成 1927年(昭和2年)」(閲覧日:令和5年5月21日)(https://holdings.panasonic/jp/corporate/about/history/konosuke-matsushita/042.html)
[18] 前掲、松下幸之助『私の行き方 考え方―わが半生の記録―』、p.288。
[19] 松下幸之助「財団法人松下政経塾設立趣意書」(閲覧日:令和5年5月1日)(https://www.mskj.or.jp/about/mission.html)
Thesis
Takuma Ochiai
第44期生
おちあい・たくま
Mission
日本海ベルトの確立を通じた持続可能な日本列島の構築