論考

Thesis

環境正義とは何か

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1999/4/28

環境問題を考えるキーである「環境正義」とはどのような概念だろうか。そして問題解決のための生態学的想像力とは何か。韓国から日本の環境問題の研究にやってきた金泰昊さんが、日本の地方自治体での研修経験などを踏まえて報告する。(訳・文責 編集部)

神戸大震災を経験し、「土建国家」日本の背後にある構造的欠陥を見た人が多い。本当に高層建築物を作る必要があったのか、最近の建造物の方が古いものよりもろくも崩れ去った例が多いのはなぜかなど疑問は尽きない。私は地震によって生じたこうした被害は、日本の国土開発と建設が招いた人災だと考えている。
 日本の建設業は、技術面からだけでなく効率面からも多くの問題を指摘されてきた。『東洋経済』1993年10月号によれば、日本の道路建設費用は単位当たりドイツの4倍、米国の9倍に達しているという。なぜこのように高い費用がかかるのか。多くの研究者は、その理由として日本の建設業が談合により競争に晒されていないという点や、建設会社と政治家や官僚との癒着を挙げている。
 また、こうした研究者らの報告は、日本の公共事業の規模の大きさに対しても疑問を投げかけている。莫大な建設事業が、誰のために、何のために続けられているのか。現在日本の公共投資は国家予算の40%を上回っており、財政赤字の大きな一因となっている。もちろん、社会基盤の整備や雇用拡大、需要創出など景気浮揚のための経済政策としての側面を否定するものではない。だが、この十年一日の発想がいかに貧困な政策だったかは、それが日本の国土にいかなるマイナス面をもたらしたかをみればわかる。
 このような政策や考え方の問題点を指摘し、乗り越えようとする努力が最近目立つ。先の東京都知事選挙でも開発一辺倒を批判し、より自然に親和的な開発を主張する候補者が現れた。また一般市民の環境意識も高い。上手く周知を集めれば新しい環境政策の方向は必ず確立できるであろう。そこで、より環境に親和的な国土開発を考えるために、「環境正義(Environmental Justice)」の観点を取り入れることを主張したい。

■環境正義の三つの次元

 「環境正義」とはどのような概念なのか。ここでは環境正義が問題とされる次元を三つに分けて説明する。第一に、国家間における問題である。たとえば、先進国が自らの環境破壊の過去を忘れ、開発途上国に一方的に環境基準を押し付ける場合には、環境正義は存在しない。また先進国の多国籍企業が途上国に安い第一次産業材の供給を強いて、大量の環境破壊(森林破壊)を招くようなケースも同様である。第二に、国家内部における中央政府と地方自治団体間の環境正義がある。この点については重要なので後ほど詳しく述べる。第三は個人の問題である。高所得層の人々は余計にお金をはらうことで安全な食品や生活物資を獲得し、環境破壊の影響を避けることができるが、貧しい人々はそうした危険に無防備である。このような観点から、環境破壊に対する責任の度合に応じて環境税を徴収するなどの対策を検討すべきである。

 では、第二の国家内部における中央政府と地方自治団体間の環境正義について詳しく述べる。中央政府が一方的に国土開発政策を実現しようとする場合、環境破壊が一部地域に集中し、環境正義が否定されることがある。反対意見の少ない地域に核廃棄物の処理場を作ったり、発言力の弱い人々が居住する地域にごみ処理場を集中させるなどのケースである。これらの問題を「Nimby(Not in my backyard)現象」(自分の近くに迷惑施設をつくって欲しくないという地域エゴイズム)としてだけ見ることは正しくない。そこには国内での政治力のバランスが関係している。政治力が弱いところに矛盾が押し付けられがちだからである。それゆえ地方自治は欠かせない条件だ。
 だが、ここにもう一つ問題がある。それは地域自らが進んで環境破壊に加担する場合である。これは「Pimfy(Please in my frontyard)現象」(地域開発や補助金などのためあえて迷惑施設を誘致すること)と呼ばれる。地域開発を行っても、その利益が地域にそのまま落ちるとは限らない。にもかかわらず日本中でゴルフ場とリゾートの建設が行われてきたのはこのためである。地域開発が環境破壊を招く場合がありうるということを考えると、このような近視眼的政策を阻止できる制度も必要である。いずれにせよ環境問題の被害者は発言力の弱いところに集中する。それを避けるには「誰のところでも環境破壊はダメだ」という認識を持つことである。

■実現のための政策

 次に環境正義を実現し、無分別な開発を阻止するための具体的な政策を提示する。
 第一に、前述のように環境的な観点から地方自治を確立すること。現行の法体系では条例の限界、つまり地方自治団体が出す条例が中央で決められた法律を超えることはできない。しかし、法律の環境規制が最低限を規定したに過ぎないことを考えれば、地域が環境保護のために独自の条例を作ることは許されるべきである。この点について詳述する余裕はないが、日本の現行の法体系でも、条例が法律よりも規制をより厳しく・より広く行うことができるいわゆる「上乗せ・横出し」の議論が行われていることを付け加えておこう。

 第二に、環境破壊の実状とその危険性がわかるように環境情報公開制度を確立すること。これに関しては、情報公開法のほかにドイツの環境情報法のような法律システムが参考になる。ドイツの環境情報法は、一般的な情報公開法とは別に環境に関する情報公開を定め、恣意的な例外や抜け道を阻止するものである。

 第三に、環境責任を厳重に追求し、破壊者の責任の軽重を明らかにすること。家庭ごみ問題について「加害者は市民」という主張があることは承知しているが、根本的な原因は大量生産・大量消費を強いている資本主義の経済システムだと考える。企業責任に触れずに市民の責任のみを問うのはおかしい。特に公害を輸出する可能性のある多国籍企業はその責任を明確にすべきである。これらの問題に対する答えと責任を明らかにした上で、企業と市民は責任を応分すればよい。

 第四に、環境保護が単に政治的なスローガンとして使われるのを避ける。環境面のみを強調すれば、経済にマイナスの影響を及ぼす可能性が高い。したがって経済効率と環境問題をいかに調和させるかを綿密に考えねばならない。環境問題と経済発展という相対立する二つの目標を、両方とも安易に掲げる政治家の主張は信頼できない。

■生態学的想像力

 これらの提案は、それを支えてくれる政治勢力や社会運動団体があってはじめて実現できる。そしてその根底には、環境問題に対する「生態学的想像力」が不可欠である。生態学的想像力には2つの側面がある。一つは問題を認識すること。たとえば再生品に対する我々の拒否感が資源リサイクルの大きな障壁となっている。経済性や清潔感や快適さが多少劣っても、それが美しい自然や安全な環境へとつながるのだと認識できる生態学的想像力が必要だ。横浜のランドマーク・タワーを見て、その大きさや技術に感動するだけでなく、このような建物がなぜこの景観の中に立っていなければならないかに思いをはせることである。そのような認識が生まれてくれば、生態学的想像力の次の局面、つまり問題解決局面に達する。何かを建築する際に、本当にそれが必要なのか吟味するのである。そうすれば自然環境に一番負荷のかからない形で経済的利益と調和させる、という発想が出てこよう。
 経済大国である日本は、これからは拡大や効率の論理ではなく、調和や余裕の社会へと転換していくべきだというのが私の期待だ。敏感に未来を予測し、自らの変化を通じて周辺国家に新しいモデルを提示し、それを相互協力の基盤にしたときこそ、真の意味の「共生」が可能になると私は信じる。


<金泰昊(キム・テホ)氏 略歴> ※いずれも執筆当時
1971年、韓国・大邱生まれ。
ソウル大学法学部卒業、同大学院博士課程で公法と環境法を学ぶ。
1999年1月から3月まで松下政経塾で研究員(短期)として日本における環境問題を研究、同時に藤沢市役所などで現場実習を行う。帰国後は韓国陸軍士官学校の教員として法律を教える予定。

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