Thesis
1990年代、社会主義崩壊、大量生産・大量消費の行き詰まり、市場経済の暴走と、次々と既存価値が否定された。世界がますます一体化する時代の中にあって、私たちはこれから何を共通の価値とすればいいのか。経済学者の佐和隆光氏に話を聞いた。
相対化の時代の始まり
1990年代の10年間というのは、ありとあらゆる近代のイデオロギー、例えば社会主義とか資本主義、産業文明、科学技術といったものが、ことごとく相対化された時代でした。まず、91年のソビエト連邦の解体によって、社会主義というものは少なくとも理想郷ではなくなったということで相対化されてしまった。
次に産業文明。20世紀がどんな世紀だったかと定義するといろいろありますが、一つに「産業文明の世紀」ということが言えます。われわれの生活はCO2(二酸化炭素)の排出量を増やすことによって豊かになってきた。ですから20世紀文明というのは、実はCO2排出の上に成り立っていた。ところが、97年の京都会議で先進38カ国に対して2010年を目途にCO2の排出削減が義務づけられた。これは20世紀産業文明の否定です。つまり、産業文明も相対化されてしまった。科学技術に関してもそうです。30年、40年前には科学技術の力で政治も経済も、ありとあらゆる問題が解決できると言われていた。ところが今時そんなことを言う人は一人もいないでしょう。
それから最後に、資本主義・市場経済。ソビエト連邦が崩壊した時、「社会主義は崩壊した。資本主義の勝利だ。これからは市場経済化だ」と、東アジア諸国、中国、ベトナム、旧ソ連、東欧諸国など一斉に市場経済化を進めた。ところが97年のタイ通貨危機をきっかけにあっという間に世界中が金融危機に陥った。そこで「資本主義も万能ではない」ということが認識され始めた。昨年の12月にシアトルで開かれたWTOの閣僚会議に、10万人規模のデモが押し寄せました。これは、市場経済・自由貿易のもたらす経済的・物質的繁栄と、非物質的な価値、環境・人権・文化・学術などとの相克が露わになった、まさに相対化の時代を象徴する出来事です。
第三の道
今、EU15カ国のうちアイルランド、スペイン、オーストリアを除く12カ国が中道左派政権です。ソビエト連邦は解体したのに、どうしてヨーロッパの先進国で、次々と社会民主主義を標榜する中道左派政権が誕生しているのでしょうか。その理由を、英国を例に考えてみましょう。
1979年にサッチャー政権になると、市場を万能視し、自己責任・自助努力をモットーとした、低福祉・低負担の新保守主義改革を積極的に推し進めました。狙いは、市場をできるだけ完全なものに近づけて、政府が市場介入しなくてもいいようにしよう、ということでした。そして、次々と国有企業を民営化し、様々な規制の緩和・撤廃をした。その結果、確かに経済は活性化しました。ところが、市場が「完全」に近づけば近づくほど市場の力が「暴力」と化して、ネガティブな面が生じてくることが明らかになってきた。所得格差や、公的な医療・教育の荒廃、資産価格の暴騰・暴落などです。つまり効率を過度に推し進めた結果、公正と福祉が失われた。
さらに、その市場の力の暴力化に伴って、私たちは経済社会のポスト工業化、情報化、グローバル化、金融経済の肥大化などに伴う様々な変化に必死になって適応しなくてはならなくなった。ところがそれをやったからといって必ず成功するという保証はどこにもない。そういう状況に、選挙民がNOを突きつけたのが、ブレア政権の誕生でした。欧米、特に英国はそうですが、金持ちや身分の高い人はそうでない人々を助けなければならないという考えが非常に強い。97年の選挙では社会的弱者や労働者でない、こういう人たちまでが労働党に票を投じた。
そしてブレア首相は、フランスやドイツに社会民主主義政権が誕生してくると、「右でも左でもない、新しい社会民主主義」を提唱し始めた。彼が志向しているのは、政府が「市場の力」の暴力化を制御しつつ、「市場の力」を有効に利用する術を心得、困難・不可能と言われてきた効率と公正を両立させる新しいシステムを設計することです。
「公正」とは何か?
効率と公正を両立させるのは、困難・不可能というのがこれまでの考えです。仮に、効率を図ろうとすれば市場の力を利用するとかなえられる。ところが市場の力が暴力と化して、弱者を痛めつける。それは「公正」という観点からすると認め難い。だから両者は両立しない。しかし、困難とか不可能といって諦めてしまうのではなくて、それを両立させる新しい社会経済システムを設計することこそが、今望まれています。
そこで、英国の著名な社会学者、アンソニー・ギデンズやブレア首相が言っているのが、「平等の意味を考え直す」ということです。何が平等で何が不平等か。彼らが出した答えは、排除のある社会が不平等な社会で、排除のない社会が平等な社会というものでした。
例えば米国では30%以上の人が健康保険に入っていません。そういう人は病気になると普通の医療を受けることからまったく排除される。そういう社会は平等か、というわけです。それから米国ではよく「機会平等さえあれば、後は個人の能力と努力の成果だから、結果の不平等はいくらあってもいい」と言われます。それはそのとおりです。しかしそれが平等、公正でしょうか。例えば、10の機会が与えられても、十分な教育を受けてそれ相応の能力を授かっていない人間だと、そのうちの二つしか選択できないかもしれない。これは機会平等とは言えない。与えられた機会を利用できるだけの能力、それを最低限身につけた上で機会平等の下で競争する。それが平等、公正ということの基本的な考え方だと、私は思います。ですから、排除をなくすためには、教育や医療などの公的なサービスをある程度充実させなければならない。
それから、もう一つ、グローバルな市場経済をコントロールする問題として、グローバル・ガバナンスを考える必要があります。経済はグローバルになっているのに、それを統治しうる「政府」はない。今、世界経済がうまくいっているのは、強大な軍事力と経済力を背景に、米国がその役割を担っているからです。しかし、米国が軍事力を失うということはないにしても、経済力を失うということは十分にあり得る。その時、果たして一体誰が統治できるのか。統治なきグローバルな市場経済が、安定的な拡大を続け得るのか。これはものすごく心配です。ですから経済面でのグローバル・ガバナンスを担う国際的な組織の構築を早急に考える必要があります。
<佐和隆光氏 略歴> ※いずれも執筆当時
1942年和歌山県生まれ。経済学博士(東京大学)。
現在、京都大学経済研究所教授。著書は『経済学とは何だろうか』、『計量経済学の基礎』、『数量経済分析の基礎』、『経済学における保守とリベラル』など多数。
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