論考

Thesis

分断された世界を繋ぐ孔子の思想

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松下政経塾

2000/10/29

今日、先進国に生きるわれわれが享受する物質的豊かさや快適さは驚くばかりである。その一方で精神生活の貧しいことはどうだろう。2500年前、中国に生きた聖人孔子の思想は、この両者の溝を埋める指針と世界観を与えてくれる。

近代西洋文明が生み出した理性と精神の乖離

 物質的豊かさと対照的に、われわれ現代人を襲う精神的な側面の危うさ。これを、現代哲学用語では科学理性の行き過ぎによる「生活世界の喪失」、「意義の危機(Crisis of Meaning)」と呼ぶ。これらの現象は、科学本来の意味から逸脱した、科学への盲信から生まれたものである。元来、科学は自然世界を客観的に把握するためのひとつの認識方法に過ぎなかった。ところが、次第に道徳的価値観や宗教的問題を含め、人間の直面する全ての問題を解決できるという「科学主義(Scientism)」と金銭権力など世俗的価値が最優先される「世俗主義(Secularism)」へ変質してしまった。
 こうした科学主義や世俗主義の危険は、急速に発達しつつあるIT革命、遺伝子工学の中にも存在している。われわれは、科学技術の発達を通じて、どこまで生命感の充実した「生活世界」を実感しながら、そのレベルを高めているだろうか。このような問題意識をもち始めたときに、孔子の言葉や人生観は新しい視点を提供してくれる。

孔子の人生哲学―「生活世界の無限な向上」

(1)「下学上達」―生活世界を通した宗教的境地

 孔子の人生哲学は、いかにして我々の生活世界を生命力に溢れ、生き甲斐のあるものにするかに関する実践哲学である。その基本は、「身近なことを学び続け、次第に天の道に達する」という「下学上達」(『論語』「憲問編」 以下、論語の場合には編名のみ記す)に現れている。

 孔子は、生活世界の中で「道徳的に正しい実践を積み重ね、同時に芸術的世界を究めていけば」、自ずと宗教的・形而上的境地に達すると考えた。そのために、孔子は人間の「学ぶ」ことの意義を常に強調している。
 孔子の「学ぶ」ことは、細かい知識を頭の中に詰め込むことではなく、「具体的生活世界の中で道徳的資質や芸術的感性を身に付け、人生の境地をさらに向上させる実践のプロセス」を意味する。孔子は、人間は学び続けることによって無限にその可能性が切り開かれる存在であると信じていた。また、学び続け人生の境地を高めることは、肉体的快楽とは異なる本当の楽しさを齎すとも考えた。『論語』の第一声である「学びて時に習う、これまた悦ばしからずや」(学而編)は、孔子の人生哲学の本質を如実に示している。
 孔子の人生暦程は、世俗世界に生きながら学びを通して宗教的境地に達しようとする「下学上達」のプロセスであった。

(2)生活世界の実践―「礼」と「樂」

 『論語』には「詩に興り、礼に立ち、樂で成る」(泰伯編)という一句がある。人間が社会的な存在として完成されるには、礼を学び芸術的な活動を通して豊かな情緒を持たなければならないという意味である。
 「礼」とは人間を道徳的存在に高める社会規範の形式であり、「樂」とは人間を芸術的存在へ向上させる精神活動の形態である。孔子の「礼樂」論は、道徳的実践形式としての「礼」と芸術的実践形式の「樂」とを結合させ、生活世界の意義を向上させようとしたところに特徴がある。
 孔子は、人間の社会生活も宇宙全体生命の流れの一部分として考えていた。人間の理想的生活とは、個人や社会と宇宙生命全体が最も調和的な状態に達するところにある。このような状態に達するためには、抽象的理論体系や科学的知識よりも道徳的資質と芸術的な感性がより重要である。またそれらは相互に切り離せない関係にある。
 孔子は「礼」や「樂」も、ともに「仁」に基づくものでなければ、何ら意味を持たないとする。「仁」とは人々が生活世界のなかで道徳的・芸術的実践を通して自分の生命力が最も充満した理想的生活の境地を指している。

 「仁」の具体的内容を、孔子は「わが道はひとつのことで貫かれている。そのひとつとは忠恕のみである」という。「忠」とは、「個人の私利私欲を乗り越えて宇宙生命と一体となる十全な精神状態」を指し、「心の中に一点の偽りもない純一の状態」である。「恕」とは「忠の内面状態が自然に外部に現れた状態」、「宇宙生命の根源としての天地が全ての生命体を自らの中に生育し包容するように、他人や自然万物を己に受け入れる精神状態」をいう。
 このような道徳的境地は、「詩経の三百編はただ一言で包み込めば『心の思いに邪無し』である」(為政編)と表現している。つまり、「忠恕」という道徳的境地と「無邪」という芸術的境地が合一の状態に達したものが「礼樂合一」の究極的境地の姿だといえる。

 『大学』では礼樂合一の生活世界を実践し、その範囲を己から家族、国家、天下の世界へと広げ、自然界を含む宇宙生命全体にまで及ぼして行くことが理想とされる。その境地とは「天地人合一」「万物一体の仁」を目指すものである。孔子は、「七十而従心所欲踰矩」という言葉で、人間の究極的境地が「天地人合一」にあるといっている。

(3)生活世界の実践―政治

 孔子にとって政治とは生活世界の意味を正しく体得した人が、個人の次元を越えて社会的領域まで広げていく社会的実践または教育過程であり、人間を道徳的・芸術的存在に至らしめ、究極には天地人合一の宗教的境地に至らしめるものであった。
 したがって、正しい政治が行われるためには、1)為政者が礼と樂に対する深い理解を持ち、2)常に自分の私利私欲を乗り越える道徳的・芸術的努力を行うことを要求している。孔子は、仁徳の為政者が政治を行えば、「君子の徳は風であり、小人の徳は草である。草は風にあたれば必ずなびく」(顔淵編)ように、国民が政府を信頼し自然にうまくいくという。
 政治家の役割は何よりも私利私欲を乗り越え、社会全体や宇宙生命全体の流れを正しく引導することである。「政治とは、常に自分を正し、社会を正すこと」であり(「顔淵編」)、政治家は「率先するなかで日常生活の道徳的実践を怠けたり、飽きたりしてはいけない」(「子路編」)。
 政治家の克服し難い困難は、長期的観点を忘れ、目先の現実に引き摺られ、功を急ぎ名声を得ようとするところにある。そこで、孔子は、社会全体の調和のために、国家や天下までも譲歩した古代の聖人、尭舜こそが最も理想的政治家だとして尊崇する。このような心構えで政治を行ってこそ「無為の政治(何もしないでうまく治められた人はまた舜だろうね。一体何をしただろうか。おん身をつつしまれてま南に向いておられるだけだ)」が可能となると語る(「衛霊公編」)。
 孔子にとって、政治とは人々を道徳的芸術的存在に至らしめ、究極は天地合一の宗教的境地にまで至らしめる社会的行為であり、教育であった。

生活世界の復元

 生活世界の究極的境地は、礼樂を通して芸術や道徳が一体となる「仁」の精神にある。
 孔子の「仁」とは、「生命力の充溢した生活世界の理想的な状態」である。「仁」は、日常生活での絶え間ない道徳的、芸術的実践を通して、次第に己から他人へと拡散され、究極的には「万物一体の仁」に帰結する。為政者は、単なる経済的豊かさに止まらず、礼樂を通して人民をその生活境地にまで引導する大きな責務がある。
 来る21世紀には「科学主義」や「世俗主義」を乗り越え、いかにして生活世界を復元し得るかが求められている。われわれにとって真に必要なものは、孔子の人生哲学であり、「温故知新」の知恵ではなかろうか。


<注>「生活世界(Lebenswelt)」とは、ドイツの現代哲学者J.ハーバーマス(Jurgen Habermas,1929~)が使った概念。筆者のいう「生活世界」とは、彼の概念に基づいたものではあるが、その意味はより広義のもので、「我々の生きている日常の生活空間」という意味で解して構わない。

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