松下政経塾 The Matsushita Institute of
Goverment and Management

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国家観
2010年5月

塾生レポート

国家即個人。個人即国家~希望格差社会の解決を
千葉修平/卒塾生

前職の新聞記者だった時代。頻発する凶悪犯罪や自殺、度を超えたいじめなどの社会問題を取材するたびに、足元が底割れするような感覚が広がっていた。この国の、何か大切な、しっとりとした重いものが失われつつあるのではないかと。そして今。「希望格差社会」の到来に対し何をなすべきなのか。

 

1.寄る辺なき個

 入社2年目の99年冬、京都のある小学校で、男児が刺殺される事件が起こった。容疑者の男はそのまま逃走。数ヵ月後、容疑者は警察の任意同行の手を逃れ、ビルから飛び降り自殺するというショッキングな結末だった。理不尽に奪われた、幼く、貴いいのちへの深い同情。一方で、男がなぜ、このような事件を起こしたのか、ずっと気になっていた。結局、明確な真相は分からず仕舞いだった。

 ただ、取材で手に入れた彼の遺書から読み取れたのは、「自分は必要とされていない人間だ」という深い自己喪失感、絶対的な孤独感だった。「世間には騒ぎになり、本当にすいませんでした」「僕は死のうと考えているので、連絡はもうとれないと思います」「こんな人生ではまずかったとも思っています」。彼の自殺後、彼が住んでいた団地を歩いた。均一的で画一的な空間で、のっぺりとした印象だったのを、今でも覚えている。

 あれから約10年。世の中の雰囲気は、よりギスギスしている。年間自殺者は10年連続で3万人を超えた。秋葉原事件では、「生きる場」からほぼ完全に締め出された若者が凶行を起こした。「負け組は生まれながらにして負け組なのです。まずはそれに気付きましょう そして受け入れましょう」。自己の存在を徹底して否定的にとらえる感覚。私の皮膚感覚だが、同様の感覚を持つ若者、中堅、高齢者が、男女を問わず増えているのではないか。そして、彼・彼女の中で研ぎ澄まされた刃は、社会という実態のないものには向けることが出来ず、直接的には関係ない、無辜の一般市民に向けられる。その理不尽さが一層、社会の閉そく感、不安感を強めていく。

2.国家観なき改革

 「日本はどのような国の姿を目指すのか」との本格的な議論がないまま、わが国は、細川内閣(あるいは中曽根内閣)以来、漸次的に新自由主義的な改革を行ってきた。この改革の勢いは、小泉・竹中路線で加速した。グローバル化、少子高齢化が進む中、ぜい肉を落とすために必要な側面はあった。だが、この急進的な改革は、日本が大切にしてきた何かを壊してしまったのではないだろうか。それは社会における縁であり、連帯感であり、国民一人一人の役割であり、生きがいである。セーフティネットの整備や労働市場改革も中途半端なまま、労働派遣法改正が行われ、企業では非正規雇用への置き換えが進み、今や3人に1人が非正規雇用だ。一方で正規雇用の仕事の負担感も増した。アリのように働いても生活保護以下の給料しか得られないワーキングプアが注目を集め、さらに子供がいるシングル世帯の貧困率は6割超と世界の先進国の中でワースト一位。若者の就職難も深刻だ。日本の中間層は崩れ始め、地方経済は疲弊し、日本社会の二極化が進行している。

 さらに、現状はより深刻な段階に進みつつある。単なる雇用問題、経済格差を超えて、「希望格差」と言うべき状況が出始めている。雇用条件や所得の不安もさることながら、具体的な人間関係の中で、目標を得て、各自の存在を承認されて生の意欲を高める、そのような「生きる場」とでもいうべきものが失われていると感じるのだ。例えば、非正規の仕事の場合、働く人々のつながりが弱い場合が多い。もともと、家庭の主婦や学生など、別の足場を持った人々の雇用を想定していたこともあるが、日雇派遣など新しい就労形態が広がったことも大きい。人々の生活を考えた時、賃金や所得と並び、人々が社会の中に居場所を得ることが決定的に大事だと考える。人々は、雇用、地域、家族などの場で、他の誰かから何らかの配慮と承認を受け、また誰かを目標としながら、生活を続けていく意味や気力を得る。この当たり前のことを無視し、壊してしまったのが、構造改革の大きな歪みだったのではないだろうか。

 国の財産である人間を切り捨て、また、彼らが働けなくなった時の社会的コストを考えれば、当然、生活保護が大幅に上昇することが予測され、コストの損失の面からも大きな問題を抱えている。この問題は、将来に大きな禍根を残す可能性があるのだ。「国家百年の計」として取り組むべき問題を、大局的な国家観が存在しない状態で行われた改革ゆえに、何とも日本の姿に似つかわしくないものになってしまったのではないだろうか。

3.国家ビジョン構築の重要さ

 「明治時代のはじめには、富国強兵という国家的な目標があった。富国強兵というスローガンを頭に描きながら、教育にしろ商売にしろやっておれば良かった。国家的なスローガンがあれば、おのずと具体的な方針も出てくるし、学ぶべきことも分かった。むろん現代においては、富国強兵では具合が悪い。けれども今こそ新しい国家スローガン、あるいは指導理念が必要ではないか」

 松下幸之助塾主が「無税国家の実現」を国民目標に掲げた時に話した言葉だ。ここから読み取れるのは、国民共通の目標、すなわち国家ビジョンを持つことの大切さを、いかに重視していたかということだ。国家目標があれば、国家の経営感覚も生まれ、創意工夫が生まれ、長期的に見て、効率的・生産性の高い政治が生み出され、国民も生き生きとなるということだ。大きな、夢のある目標を前面に出すことで、国民は明日に希望を持って働き、学ぶ。そこには松下塾主の人間観から導き出された考えが見える。すなわち人間は互いに飼い合いをしているのであり、人間を上手く動かすためには、その時に必要なものを与える必要があると。国民を一つにまとめるためには、国家ビジョンが必要だということなのだ。

 また、松下塾主は、当時の日本の政治を憂い、「今のまま外国式でやっていたら、日本はやがていろいろと行き詰まってくる。僕は、ここらで日本の良さと外国の良さを混合した、国家経営の新しい方式を今一度こしらえる必要があるのやないかと思っています。そのためにも、日本は、伝統精神に立ち返らなければならない」と話している。

 日本には日本に向いた改革の方式があるということだ。そして、私は、急激な改革は日本には向いていないと考える。弱者が切り捨てられ、強者が生き残る。それが資本主義だとしても、同質性の高い日本で、むき出しのまま、そういうことをすれば、人間の心に怨念が残る。長い目で見れば必ず、その歪みや損失が出てくる。この状況が、現在の日本が抱えるある種の閉そく感につながっているのだ。

 国家を考える時、どう国民をまとめていくかを考えねばならない。その時、国民の誰もが納得でき、希望を持てる国家ビジョンを示せれば、国民を勇気づけることが出来る。そして、民主主義の視点からも、国民が国の政策をチェックしやすくなるメリットがあるはずだ。

4.日本は何を変え、何を守るべきなのか

 英米型の新自由主義的路線からの転向が話題となった経済学者の中谷巌氏によれば、新自由主義の思想は、私たちが暮らす社会を個人単位に細分化し、その「アトム化」された一人一人の自由を最大限尊重するという思想だから、安心・安全、信頼、平等、連帯などの共同体価値には何の重きもおかないのだという。つまりは人間同士のつながりなど、利益追求という大義の前には解体されてもしょうがないという思想なのだと。この思想は、果たして日本の国柄に合うのだろうか。答えは否だ。

 では、日本という国は何を変え、何を守るべきなのか。私は、日本人が育ててきた社会的価値を守らねばならない、日本人が守ってきた品格を守らねばならない、そして日本人のいのちを守らねばならないと考える。完全に平等な社会はありえないし、望みもしない。だが、政治が許して良いさじ加減はあるはずであり、その程度に応じて、セーフティネットや格差の固定化を防ぐキャリアラダーを構築せねばならない。もしも、現状のままならば、日本の社会からは人々の連帯感や一体感が失われ、ますますギスギスした社会になるはずだ。治安は悪化し、階級の固定化、貧困の連鎖が定着すれば、階級社会が出来あがると考えるからだ。そして、何よりも、日本の「活力」「国力」そのものが決定的に低下しかねないと考える。

 日本がアジアの中でもいち早く近代化を成し遂げることが出来たのは、日本独特の精神風土を生み、国民の当事者意識を高めてきた、ある種の連帯意識だった。そして、戦後の日本はその利点を最大限に生かして、経済大国になった。日本はごく一部のエリートが導くことで発展した国ではなく、むしろ庶民がそれぞれの分野で努力を重ねることで発展した国なのだ。

 ところが、そんな日本の良さが、中間層が壊されることにより生じる社会的分断によって、力を失いつつある。このままでは、経済学者のポランニーがいう「悪魔のひきうす」によって、日本の大切なものがひきつぶされてしまう。

5.まとめ

 松下塾主の描いた理想の国家像とは、どのようなものなのか。それは、何よりも人を大切にする国家だったのだと思う。国家即個人。個人即国家。まさしく、人こそ人財であり、宝なのだ。だが、現状を見れば、今の日本は人を大切にする国だとはとても言えない。そして、長期的展望に立った判断、すなわち社会的コストの大きさを考えないまま、将来に向けてカウントダウンが始まった時限爆弾を抱えているような状況なのではないだろうか。このような社会は持続可能性の面からも失格であるし、国民の大多数も、もちろん松下塾主も望まないだろう。私は、社会の歪みにより社会から排除された人間が引き起こす様々な悲劇を、少しずつでも良いからなくしたい。そのためにも、「希望格差」の現状を解決したいと考えている。

 「ローマの滅びたるは中堅なくして貧富の懸隔甚しかりしが故なり。露帝国も然り」。秋山好古は陸軍大将まで務めたにも拘わらず、晩年は郷里の中学校長になった。日本の強みは格差が少なく「中堅」がしっかりしているからだと。「中等階級なくては国は亡ぶこと、歴史の示す処」と考え、中等教育に晩年の人生を捧げたのだった。日本の財産は、分厚い中間層だったのだ。

 「競争自体は良いけれど、その競争が適正妥当な範囲を超えて、過度なものになってしまうと、これはゆきすぎです。そういう過当競争には絶対してはならない」。松下塾主は、競争の効果を認めながらも、それが適度なさじ加減を知ってこそ、互いに生かし合うことが出来ることを知っていた。レッセフェールの下での弱肉強食の世界が行き着く先を、松下塾主は知っていたのだろう。

 日本が急速に、「無縁社会」、すなわち絆を失ってしまった社会に変わっている、という内容の番組が先日、放映されていた。「無縁社会」はかつて日本社会を紡いできた「地縁」「血縁」といった地域や家族・親類との絆を失っていったのに加え、終身雇用が壊れ、会社との絆であった「社縁」までが失われたことによって生み出された。この結果、「身元不明の自殺と見られる死者」や「行き倒れ死」など、国の統計上ではカテゴライズされない「新たな死」が急増しているという。誰にも知られず、引き取り手もないまま亡くなっていく人たち。希望が失われた時、人間はもろい、ということを、記者時代の経験から、多く見てきた。そして、これほど、いのちが軽んじられている国の姿は、異常だと思う。

 今の日本に必要なのは、国家ビジョンを描き、正しくかつ適度な競争の下、国民に安心と希望を作りだすことだ。競争に敗れても、希望や尊厳までは失わないよう、やり直しが出来る国にすることだ。一人一人の天分を生かし、各自が生きがいと役割を持って生きられる国を描くことだと思う。そもそも、国家とは、国民一人一人で構成されている。松下政経塾の塾是の一節、「真に国家と国民を愛し」を聞く時、国民は国家のために捧げねばならないものがあると同時に、国家は、国民が真に愛するに足る国家にならねばならないと思う。今一度、私たちは、日本人にふさわしい国家とはどのような国家か、考え直さねばならない。

参考文献

中谷巌 『資本主義はなぜ自壊したのか』集英社 2008年
濱口圭一郎 『新しい労働社会』岩波書店 2009年
ロバート・B・ライシュ 『暴走する資本主義』東洋経済新報社 2008年
松下幸之助 『私の夢・日本の夢 21世紀の日本』PHP文庫 1994年
財団法人松下政経塾 『松下幸之助政治理念研究会』資料

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