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歴史観
2009年3月

塾生レポート

奥州藤原氏の平和思想と法華経の影響
熊谷大/卒塾生

平和、という言葉を口にするのは極めて容易である。日本史は戦いの歴史で、特に中世、畿内政権が離合集散を繰り返し、安住定まらない政争を展開していた間、北の都・奥州平泉では100年の安定政権を育んでいた。その核となるシステムとは何だったのかをレポートする。

 

はじめに

 筆者は東北の歴史を散歩する時、いつも疑問に思っていたことがあった。それは奥州合戦についてである。時は平安時代末期、平家を滅亡させた源頼朝が次に目指したのは、日本の北方に広がる独立然とした国、奥州。1189年、かの地の「征伐」に出立し、奥州藤原氏、秀衡の息子である泰衡と対峙する。泰衡は2万の軍勢を伴い、頼朝を迎え撃つが、予想以上に簡単に退却し、頼朝の軍門に下る。

 「奥州王」の誉れ高き北方の王者、その実力は「奥州17万騎」と称され、巨大な軍事力だけではなく、巨万の富を後ろ盾に奥州藤原氏100年の栄華を実現させていた。この誰もがうらやむ権力を手にした泰衡が、なぜもいとも簡単に平泉を頼朝に明け渡したのか。より執拗にに戦おうと思えば、最後まで戦えたであろうし、戦えただけではなく、漁夫の利のように、頼朝から鎌倉を奪取し、初の武家政権を北方の大地にて、日本史に打ち立てられたかもしれない。もちろん、歴史のIFを論じればきりがないが。

 筆者なりに答えをひねり出すとこうである。奥州王藤原秀衡から息子泰衡が継承したのは、富や、名声、貿易の権益だけではなかったのではないか。つまり、奥州の精神的支柱として、法華経の平和、平等思想が中核にあったからではないだろうか。争いを捨て、交戦権を放棄した事が、奥州藤原氏政権誕生の大きな理由であり、レゾンデートルであったことを思い返せば納得のできる話ではないか。

 そのように考えれば、奥州藤原氏100年の安定政権が法華経を基底にどのように形成されていたのかを調べる必要がある。また、内政面では法華経を、外交面では、いったいどのような政策を通して外部からの介入を防いでいたのか、興味は尽きない。このレポートでは、内政面の統治論と対外政策を論じたいと考える。

奥州藤原氏と法華経、そしてその導入

 法華経は仏教最上の経典のひとつである。古くは聖徳太子が法華経の理念を反映した国家運営を実施している。十七条の憲法に登場する「和をもって貴しとす」は、太子があつく三法を敬うことを主張していることから、法華経の「悉皆平等」の思想が根底に流れていることがうかがわれる。仏教の理想を背景に寺社を建立し、朝廷の権限が及ぶ地域には、その象徴として国分寺を、国家鎮護の側面から統治していった。

 京都の影響を強く受けた、というより、平安時代の流行、最先端の思想である仏教を、奥州藤原氏は、ごく当然のように取り入れたと思われる。なぜ、法華経を中心とした天台宗を受け入れることになったのか。それは、聖徳太子が法華経を敬った経緯ととても類似している。聖徳太子こと厩戸皇子が幼少のころ、物部氏と曽我氏の争い、崇仏戦争がおこる。仏教の導入に伴う土着の宗教と新興宗教の争い、しかし、蘇我氏と物部氏の朝廷での覇権争いであるが、厩戸皇子が仏教派の曽我氏についている。物部氏に勝利した暁には、仏法をあつく奉り、寺院を建立することを誓っている。その後、新羅に占有された故郷伽耶を奪回するために、新羅出兵を企てている。青年期の厩戸皇子が、戦いに自身の青春を捧げている側面を忘れてはいけない。武人厩戸皇子は、その生涯の中で、新羅征討のための朝鮮出兵や対隋との外交戦、さらに上述した宗教対立による多くの紛争、対決、そして戦争を経験した。争い事が多くの犠牲者を伴うことは、問わない。青春をあまたの争い、政争で過ごした皇子の経験から、十七条の憲法という統一倫理ともいうべき思想が打ち出される。

 それから500年の後、北方、陸奥の大地で厩戸皇子と同じような境遇を送ったのが、藤原氏を奥州の地で打ち立てた、奥州藤原氏初代、藤原清衡その人である。奥州藤原氏全盛の時代が始まる少し前の1051年、前九年の役が勃発する。奥州土着の豪族安倍氏と源氏の争いである。安倍氏が賦貢、徭役を朝廷に納めないことを理由に源頼義・義家親子が追討部隊として奥州に派遣された。棟梁である安倍頼時は戦役の途中で亡くなるが、息子の安倍貞任、宗任兄弟の活躍により安倍方は善戦する。しかし、源家は1062年に出羽(現秋田県)の豪族清原氏の力を借りて、貞任、宗任兄弟の鎮定を果たす。前九年の役に加担した藤原経清の嫡男こそ、後の清衡である。彼の父親である経清は、源家によって鈍刀で斬首されるという屈辱的な刑に処せられている。安倍氏の後を継いだ出羽の清原氏が奥州を統治することとなるが、そこで経清の妻であった清衡の母(貞任の妹)が清原氏に再嫁することになった。すなわち清衡は清原清衡となり、異父母の弟と後三年の役で家督を争い、今度は義家と徒党を組み、奥州の王者となる(義家の介入は朝廷より私戦とみなされ、甚大な損益を被る)。

争いの果てに生まれた浄土思想

 上述したように、清衡が奥州の王者となるまでには、数多の戦争と死が相次ぎ、人間だけでなく、精霊が宿ると信じられていた森や河、そして大地までもが戦火の穢れを浴びてしまう事が続いた。清衡の滞在する至る所に死の匂いがついてまわる。後三年の役では、清衡の妻子も犠牲となっている。彼が争いに嫌気がさし、久遠の和平を望んだことも必然といえよう。奥州の王者として彼がまず取り組んだのは、長い戦役で犠牲になった者たちを弔うことであった。後の「黄金の国のジパング」の出所と目される中尊寺の造営を手始めに、40以上の堂等伽藍が建立される。戦争で命を失った兵士は敵味方の別なく、さらには自然、動物にいたるまで平等に供養し、慰撫した。ここから彼は法華経に基づく平和で平等の国造りを、争いのない浄土をこの世に実現せしめようと仏国土の建設を開始する。

 中尊寺建立の「供養願文」には下記のような内容が記されている:

「右、一音の及ぶところは千界を限らず、苦を抜き楽をあたえること、普く皆平等なり。官軍、夷虜の死せしこと、古来幾多なり。毛羽・鱗介の屠を受くるもの、過現無量なり。精魂は皆他方の界に去り、朽骨は猶此土の塵となる。鐘声の地を動かす毎に、冤霊して浄刹に導かしめん」

 藤原氏は岩手県、平泉の地を西方浄土と捉え、金鶏山を阿弥陀仏、すなわち太陽が出現する「山越阿弥陀図」に見立てた大規模な設計を施している。この仏土建設に際して最も清衡の観念が表現されているのは、中尊寺で初期に建設された多宝寺である。「法華経」第二八巻の中で、もっとも中核的な思想を為す見宝塔品を具現化した多宝寺は、衆生の絶対平等を袂として、「経王」と称される法華経の中でも光彩を放つ考えであることは間違いない。釈迦如来と多宝如来が二仏並座した姿は、釈尊が法華経を説いた際、その真実を証明するために地中から宝塔を湧出させ、その塔中の自分の座の半分を釈尊に譲った説話を表し、まさしく平等と謙譲の精神を良く体現でしているものである。

 さらに興味深いことは、王城鎮守といわれる春日大社や、賀茂社そして、八幡神などは平泉には勧請されていなかったということだ。つまり平泉は京都とは別の精神世界を確立することで、人間に冠位や序列を設け支配する律令的な国家体制を組織するのとは反対に、法華経による生物皆平等下の平和理念を国是として打ち立てたことを意味しているのではないだろうか。

 清衡が白河の関から青森の外の浜までの奥大道一町ごとに、法華経の影響力を奥州全体にくまなく行きとどくよう笠卒塔婆を敷設したことは、周知の通りである。村人は中尊寺に年貢や薪を届けており、また、中尊寺の僧が主体的に村の小さなお祭りにも参加していることから、思想の普及、啓蒙活動も盛んに実践されていたことが想像される。まさに、陰に陽に法華経的価値観を奥州の地に根付かせていったと考えられる。

内と外の外交手段 まとめ

 奥州藤原氏の仏国建設を裏から支えていたのは、当時30以上もあったといわれる東北の金山である。奥州の黄金は天平時代、現宮城県は涌谷町にて初めて産出されたのを切っ掛けに、鉱物資源の豊かな生産地となってゆく。金は仏の御心を表し、仏の血とされた。1184年に東大寺大仏鋳造完了後の鍍金料金として、頼朝が1千両を奉加したのに対し、秀衡はその5倍の5千両を奉加している。これは、秀衡の財力を端的に表す逸話として記憶してよいと考えるが、また同時に、彼が朝廷や畿内地域に対しいかに強く意識して援助していたかが、この勧進からうかがえる。

 奥州は、金、駿馬の一大生産地であり、これら資源を巧みに外交手段、外交「武器」として京都朝廷との関係を築いていた。また、国内外交だけではなく、青森県の十三湊は北方交易の重要な中核湾口であったことは、中国・宋との直接貿易から購入したと考えられる幾多の青磁や器、調度品が数多く藤原氏の遺構から発見されることから判断することができる。北方諸国や宋との直接的な交易における利益は、外国との関係だけではなく、国内の諸勢力との強固な関係を維持するための方途として確立していた。

 法華経という理念をその統治システムの全面に打ちだし、勢力範囲内の隅々にいたるまで、悉皆平等の精神を啓蒙、浸透させることに成功した奥州藤原氏。奥州藤原氏4代目泰衡が、「奥州17万騎」と称される、眠れる獅子をその懐に備えていたにもかかわらず、頼朝の奥州征伐に際して、敵前逃亡のようなことをしてしまったのは、他でもない、100年の奥州藤原氏統治により、奥州の大地を悉皆平等、争いのない平和国家、浄土を築くことを大目標としていたからではなかったか。この平和理念が東北人の心の奥底にまで浸透していたからに違いないと考える。

 泰衡は、歴史に言われるような臆病者では決してない。むしろ彼の存在を奥州100年の平和理念の嫡流とみるべきではないだろうか。

参考文献

高橋崇著 『奥州藤原氏 平泉の栄華百年』 中公新書 2002年
伊達宗弘著 『みちのくの指導者、凛たり 伊達八百年の歩み』 踏青社 2000年
東北文化センター編集
『季刊 東北学 第16号 平泉、一万年の系譜のもとに』柏書房 2008年
2009年3月 執筆
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