Thesis
東北に住み続けていると、ネガティブな「思考」を耳にすることが多々ある。その根源となる東北人の歴史観。それは自治・独立の攻防によって醸成された経験的感覚である。東北人の歩んだ歴史を見つめることで発見した一つの道筋を考えてみたい。
北の大地には杜甫の詩がよく似合う。点在する遺跡、遺構の数々には空を劈く巨像もなければ、伽藍もなく、今はもう巻物に残されたのみ。想像力を組み合わせ、人々の遺詠と昔日の楽土が歴史の荒波を受けて漠と変貌した姿に思いを巡らせ、乏しい歴史の破片を拾い集めながら、時に喜び、時に肩を落とす。風と雨と土が密やかな古人の想いや憂いや悲しみを近代という幕に隠してしまった今、東北に暮らす人間が誇りを取り戻そうと欲すれば、最も雄弁な語り手となるのは今も変わらぬ山河しかない。
東北の歴史を振り返り、その大地と風土が育てた人間に焦点をあてると、いくつかの共通点が見えてくる。伊達者であること、独立心が旺盛で、反骨精神が強いが、常に敗者の視点と姿勢から逃れられない。そして何より地域、人物ともに「自立」を渇望している。旧幕府勢力の一翼をにないつつ東北諸藩が独立を果たそうと発奮し、頓挫した戊辰の役後、苦境に立たされた東北から、特に目立って多くの偉人が輩出した。名を挙げればきりがない。政治家は原敬、斉藤実、後藤新平、新渡戸稲造、鈴木文治。軍人では石原莞爾、板垣征四郎、海軍左派である井上成美、米内光政、山本五十六。文人では、滝田樗陰、江渡狄嶺、陸羯南、石川啄木、太宰治、宮沢賢治、志賀直哉、山口青邨、斉藤茂吉。学究としては、野口英世、志賀潔、吉野作造、金田一京助、山川健次郎、内藤湖南。維新後、薩長閥を超えて活躍した人物が多い。いや、むしろ薩長閥が中央の権力を独占したが故に自らの活躍の場所を主流よりも、傍流である地域活動や医学あるいは文学に求めたのか。
彼らの心の奥底に潜む共通点は、敗者であるが故の反骨と美学、そして自治への強い想いであった。彼らの求めた先には何があったのか。歴史に勝者敗者があるならば、東北がたどった歴史は間違いなく敗者のそれに属する。しかし、同時に敗者にしか語ることのできない物語や世界観が展開されているのも事実だ。そこには東北人が求めてやまない建国の希望があり、その瓦解の現実があったのではなかったか。国破れて山河在り。これまで歩みの過程で醸成されてきた東北独特の歴史観とは何か。その一端でも語ることができたら幸いである。
「うしとらの方角に鬼がいる」。陰陽師は、桓武天皇におそらくそう上奏したであろう。桓武政権にとってまさしく鬼門をなす北東。魑魅魍魎が跋扈すると信じられていた当時、「鬼」=夷の国東北は、自らの治世の安定を考えた時、何としても封じて鎮守せねばならぬ土地であった。「化外の地」、本州の東北部は長年「まつろわぬ民」の住むところとして知られ、天皇を中心とした朝廷の勢力が及ばない土地であった。
桓武天皇は政権の安寧を確固たるものにすべく、中国の律令制を完成させ、中央と周縁を分けた華夷秩序の境界線を明確に定めた。夷を征するために派遣されたのは将軍坂上田村麻呂だ。征夷には実利的な側面も見える。黄金である。749年、現在の宮城県涌谷町にて日本で初めて黄金が産出する。黄金は「仏の血肉」と信じられ、それまで輸入に頼っていた朝廷にとっては独占したい鉱物資源の一つであった。東北の地はいまだ「統治」されていない。蝦夷の反乱もしばしば起こる。
しかし、この「反乱」という言葉はまさしく中央史観そのものではないだろうか。攻撃を受ける側からいえば、反乱は支配に対する明らかな抵抗であり、蝦夷に対する理不尽な差別観、人間に序列をつけた律令体制への明確な否認の意思表示であるのだ。当時東国各地に課せられた負担の重さは尋常ではなかった。780年に郡の長官であった呰麻呂の「反乱」を起こしたのをきっかけに各地で「蜂起」が頻発し、その規模も大きくなる。朝廷軍は東北に侵攻し三八年戦争を引き起こす。四度にもわたる戦役で朝廷軍はその都度、大敗を喫した。第三回目、794年の戦いで東北側は10万人の朝廷軍を相手にゲリラ戦で迎え討ち、退散させた。度重なる大軍に一歩も引けを取らず相対した蝦夷のリーダーをアテルイという。数年にわたる大規模な戦役を繰り返しによって、大地は疲弊し、人々の生産力は低下し、また領袖も齢を重ねた。アテルイは田村麻呂将軍の投降勧告受け、副将モレと約500人の仲間とともに上洛した。田村麻呂の思惑とは別に公家の強い反発からアテルイとモレは大阪で処刑されることになった。数十年の長きにわたり、数十万の朝廷軍と正々堂々と戦ったアテルイは騙し討ちに合い、こうして東北の一つの巨星は落ちた。東北はその後の歴史でも中央からの勢力に対して専守防衛、いかに自治を守るかに腐心してきた。決して北の方から南侵することはなかった。続く蝦夷社会の首長・安倍貞任、宗任は、現在の岩手県周辺の首長で、源氏からの圧力と戦い、1051年前九年の役、続いて後三年の役に破れはしたが、政略的に動き、奥州藤原氏の後の100年間の栄華を築く。
安倍氏は俘囚頭としてその巨大な財力と統率力で陸奥国を守り、堂々と四つに構え源氏を迎え撃つ。戦いの理由は源頼義の蓄財への強欲によるとされている。当時は、陸奥守に就任すると、陸奥を実質上治めている「俘囚長」から膨大な接待を受け、数々の貢物が献上され、一生では使えきれないほどの原資を手に入れ都へ帰還するのが常だったからだ。それが十分に受けられなかったために頼義は安倍氏を挑発し、戦役の誘因を工作した。源氏のこの企みは、戦後、朝廷からは私戦として処理され、論功行賞は一切認められず、身銭を切って郎党を引き留めなければならなかった。安倍氏の朝廷工作が功を奏したのである。
続いて、源氏と出羽の豪族・清原氏との一戦。清原氏には安倍氏の血をひく清衡とその母が清原氏に再嫁したことによって生活していた。この清原氏のお家騒動に源氏が介入した。源氏の中興の祖八幡太郎義家が棟梁となり再び北上するも、これも後の奥州藤原氏の祖となった清衡の周旋によって私戦とされ、結果的に源氏は東北の大地から追い出されることになった。
この二つの戦で培われた源氏の恨みは平安時代末期、源家の嫡男頼朝の台頭よって爆発する。頼朝による奥州への介入は様々な形で行われた。東大寺への献上の量を増やす事や京から平泉に商品を運ぶ際は鎌倉で積み荷の検閲を受けなければならないなど、頼朝の執拗な妨害は繰り返される。平家を倒し、朝廷を自らの手中に収めた頼朝にすれば奥州一七万騎という巨大な勢力が鎌倉の背後にそびえ立っているのは耐えられなかったのだ。平家との戦いでは鎌倉から出ることをしなかった頼朝が平家滅亡後の1189年に行われた「奥州征伐」では自ら奥州へ赴き陣頭指揮を執った。100年の栄華を誇った平泉は頼朝によって末梢された。
「もし」を語れば、奥州合戦の際、奥州藤原氏側は、三代秀衡が育てた軍事の天才、義経を棟梁として頼朝軍を迎え撃つことも可能であっただろう。しかし、東北側の姿勢として歴史的に、中央政治への不介入、自治の維持、そして専守防衛があり、その為、後白河上皇の度重なる院宣をもかわしつづけたのだ。陸奥における奥州藤原氏の類まれな統治により武家による100年の平和が保たれ、文化が花開いた。奥州きっての都、平泉は清衡によって浄土思想を投射した町割りがほどこされ、仏教楽土を表現した。鎮守後平泉に入京した頼朝は、深く感銘を受け、鎌倉の都市づくりや永福寺の参考にしたとされる。歴代の奥州藤原氏の棟梁が恒久的な平和を願い建立した毛越寺、無量光院、金色堂などに表現された東北人の美的感覚は、都人に常に影響を与えていたのだ。
東北は懸想の地としても長らく有名であった。特に貴人に愛され、この目で確かめたいと夢想する歌詠みが多くいた。因能法師しかり、西行しかり。数多くの宮廷人の中でも最も感化された人物が864年、陸奥出羽按察使として塩竃にいた源融だろう。居宅は千賀の浦と呼ばれ、美しい風景が広がる津に近い場所にあった。小高い丘から松島が遠望できる。彼はその風景がとても好きであった。宮廷人の融にとって鄙びた生活であったかもしれないが、それを忘れさせてくれたのは、松島の小さな島々だったのかもしれない。
彼は都に帰ると松島の風景とその近辺で行われていた藻塩の製塩からでる蒸気の勇猛さが懐かしく、思いついて自宅の庭に松島を築いてしまった。海水は難波から取り寄せた。取り寄せただけではなく、庭で盛んに塩を作らせた。炉を焚き、炎々と釜をゆでて、按察使として塩竈で見たあの悠々たる風景を再現しようとした。製塩の湯気が濛々と吹き上がる「河原左大臣」融の庭園にはそんな鄙びた世界に憧れる公家たちが日々集まった。宴が繰り広げられ、広大な庭では、従来の中国式とは違った様式、松島湾に浮かぶ松島を模した池には、竜頭船がゆるりと貴人を運び、人々は恋い焦がれたみちのくの情景に思いを馳せた。紫式部はこの饗宴の様子と融の雅な姿を自分の小説の主人公にした。光源氏である。舞台は連日饗宴が開催された河原の院。融の邸宅の名である。「君まさで 煙きえにし塩竈の うらさびしくも 見えわたるかな」と河原左大臣が逝去したとき、「宴の後」はこう詠われた。東北の美しさは常に都を輝かせるため西へ光を送り続けたのである。
宮廷人を虜にした風情のある大地は幕末、薩長によって貶められる。薩長勢力に対抗して結成された奥州越列藩同盟は朝敵の汚名をきせられ、敗れた。奥州越列藩同盟は幻とはなったが、北白川宮能久親王を「東武皇帝」として奥州国建国宣言を出すところであった。戊辰での大敗は東北各地の雄藩を分解せしめ、特に会津藩への仕打ちは、戦死者の遺体の埋葬をも許さない、という過酷なものであった。会津藩は不毛の土地本州最北端の斗南への移封を命ぜられている。奥州越列藩同盟の瓦解は人材の集散と知の喪失を表していたその後、藩閥によって独占された中央官庁への道は閉ざされた。しかし、反骨精神と独立の気概が強い東北諸人は南へ北へ飛んだ。南は奄美、沖縄へ岩崎卓爾、笹森儀助、北は北海道へ大量の旧士族が移住した。さらに海外へ渡った多くの優秀な人材も見逃せない。野口英世はアメリカ留学後、中南米、そしてアフリカへ。後藤新平、伊能嘉矩は台湾、星一も海外を目指した。内藤湖南、山川健次郎は学術分野で近代日本を導いた最大の功労者であろう。
薩長からの圧力を受ければ受けるほど東北人の独立の気概は蓄えられていったかのようだった。ある者はその力のはけ口を海外に求め、ある者は想像上の王国を文章に表わし、またある者は薩長の作り上げた明治政府という権威を利用して独立心を全うすることとなった。
藩閥政治を打破し、平民宰相と呼ばれた原敬は中央政府で活躍した東北人の一人だ。彼は「明治維新の賊軍の汚辱をそそぐのが自分の政治家としての目的だった」と述べ、「白河以北一山百文」と揶揄された東北の情念をそのまま自らの雅号に込めて「一山」と名乗った。また会津白虎隊士で後の東京帝国大学総長、山川健次郎は東北の地・会津の復権のため、秩父宮妃世津子氏の婚約に奔走した一人である。近代化を推し進める過程で、故郷の復権も彼らは忘れてはいなかったのだ。原が凶弾に倒れたとき、新渡戸稲造は国際連盟事務局次長に選ばれている。原敬に変わって内閣を組閣したのは旧仙台藩士ダルマ宰相こと高橋是清だった。彼らとは反対の勢力に、数年後、大川周明や女子にも財産権を認め、華族制度の廃止、私有財産制の制限を盛り込んだ『日本改造法案大綱』を著した北一輝が登場する。
2・26事件も東北の大地と東北が深くかかわっている。2・26事件の青年将校たちは、当時昭和飢饉の最大の被災地である東北の出身である。自分たちの近親者、特に姉や妹が、生活苦のため借金のかたとして売られていく。その現状をよそに政党政治は無意味な政治ゲームを繰り返している。青年将校たちから見れば天皇周辺の政治家は「君側の奸」以外何ものでもない。彼らは皮肉にも斉藤実や高橋是清といった先人を暗殺してしまう。
板垣征四郎、石原莞爾は満州国にその独立心の発露を見出したのかもしれない。満州国を建国、中国権益を巡るアメリカとの対立軸を中心に、甘粕正彦、東条英機らが戦争を担うことになる。海軍左派として三国同盟に反対、日米開戦を止めようと努力した米内光政、井上成美、山本五十六らは政府と軍の中枢で東北の情念を燃やしていたのかもしれない。
昭和時代の初期、悲惨な戦争があった。その戦争の一端を担ったのは東北出身の軍人であることは間違いない。彼らは満州、あるいは軍の中央で猛威をふるった。国のため、あるいは自分の故郷の悲惨な状況を救いたい、など、当時、彼らの中で様々の想いが交錯していたことは確かであろう。しかし、帰する所、芭蕉が奥の細道でよんだ俳句に彼らの想い全てが表現されることとなった。
歴史を通して幾度も敗れた経験は、文学者にとって創作の原点、政治家には深遠な教訓、そして東北で生まれ育った民衆には、彼らにしか語ることのできない「物語」や「世界観」を提供してきた。化外の地として朝廷とは一線を画していた蝦夷社会。京都をしのぐ黄金郷を築いた奥州藤原氏。奥州越列藩同盟未遂の奥州国建国宣言。常に自らの「国」を得ようとしては破られ、粉々にされた経験があった。その過程で培われた敗者としての感覚と世界観。人は敗者の歴史から多くを学ぶ。しかし、現実は勝者の歴史のみが「正史」として教えられる。はたしてどちらがより重要なのかはわからない。我々はただ夏のそよ風にあらわれる草木を眺めながら、謙虚な姿勢で「兵ども」の生き方に学ぶだけである。
参考文献
青木和夫 『古代を考える -多賀城と古代東北』 2006年 吉川弘文館
河西英通 『続・東北 -異境と原境のあいだ』 2007年 中公新書
工藤雅樹 『古代蝦夷の英雄時代』 2005年 平凡社ライブラリー
新野直吉 『田村麻呂と阿弖流為 -古代国家と東北』 2007年 吉川弘文館
赤坂憲雄 編 『別冊東北学 Vol3 -壁を超える』 2003年 作品社
Thesis
Yutaka Kumagai
第28期
くまがい・ゆたか
宮城県利府町長/無所属
Mission
東北地方全域における再生復興計画の包括的研究