松下政経塾 The Matsushita Institute of
Government and Management

日本語英語


塾生レポート 一覧へ戻る
環境
2008年12月

塾生レポート

近代化に取り残された歌枕の地
熊谷大/卒塾生

アメリカは金融危機を受けて、現代版ニューディールである「グリーンニューディール」政策を打ち出し、景気浮揚と雇用の受け皿として市場の確立に乗り出している。環境先進国と言われている日本が何をすればよいのか。地元を歩きながら考えた。

 

1. はじめに

 人は生まれた故郷について、複雑な気持ちをもつものだ。どんな人間であっても育つ過程で、舞台や小説のようではなくても、大なり小なり愛憎劇や少年、青年期特有の青春の蹉跌を味わったりするものである。陰陽相反する心の機微を感じつつ、時に故郷を後にし、都市部を目指したり、自らの実力を試しに故郷以外の場所で活躍しようと思うのではなかろうか。

 筆者の育ったところは、仙台市の東部に位置する福住町という、30年前には新興住宅地であったところである。幼少の頃はまだ道路にアスファルトは敷かれておらず、砂利道であったと記憶している。家の向かいは「どぶ」と近隣の子どもたちに呼ばれる用水路が通っており、それと並行するように二級河川の梅田川がゆったりと流れていた。以前、福住町の周囲は田園地帯が広がり、田圃だらけの、田圃しかない小さな町だった。隣り町は福田町、そして田子という地区があり、その名前に多く田がつくことからも、いかにも田舎の田園風景が続いている。

 当然、田圃が田舎や田舎者を連想させることから、筆者は、嫌いだった。嫌いな要素はイメージだけでなく、どぶ川からは悪臭が漂い、水はヘドロ混ざりの汚濁が吐き出され、近くの川、梅田川や七北川の川面も濁っていたし、川瀬もゴミが散逸されていたりした。一ことでいえば、田舎=汚いという図式が筆者の原風景であることを告白しなければならない。

 故郷を出て、現在、政経塾と仙台を行ったり来たりしている。昨年、所帯を持つことになったので、育った町の隣まちである田子に居を構えることになった。田子、である。嫌な響きである。なぜここに寓居してしまったのか。妻が田子に住んでいるからであるが、順調にことが運べば、子どもは、田子小学校へ通い、田子中学校へ進級することになる。はたして、子どもが成人し、就職活動の時期になり、経歴に「田子」なんて名称でもって履歴書に書いて、採用する経営者は「この子は田舎者だな」と笑われないだろうか、と老婆心ながら心配するような親御心ももつようになった。

 しかし、ここで自らの不明を恥じることとなる。いかに自分の教養がなかったのかが露呈してしまった。不識を反省しながら、このレポートでは筆者の故郷に対するねじれた思いを吐露しつつ、昨今の金融危機に見られる不況の後の世界のアイディアを環境問題という切り口で、さらりと書こうとしている。地元を知ることが環境問題へ繋がることの一端でも示すことができれば幸いである。

2. 飛来する白鳥の姿

 松下政経塾に入塾してから早朝研修である清掃とランニングは欠かさずに取り組んだ。そのためか、仙台で活動する時も毎朝ランニングを済ましてから、活動に入る。さて、宮城県北部に位置する栗原市には、ラムサール条約に登録させる湿地帯で、白鳥や雁の飛来する伊豆沼を擁していることで有名である。しかし、宮城県内には、いくつもの白鳥飛来のスポットがあり、観光地でなくとも、地元の目を優雅にさせてくれる。筆者が毎朝ランニングする七北田川沿いの土手からも、白鳥の姿が見受けられる。だけでなく、しばしば餌を与えたりもする。非常に人に慣れていて、怖がりもせずに寄ってくる。自然と触れ合うことに少々感動を憶える。鳥インフルエンザの危険性など一度たりとも顧みることはない。いい気分で白鳥にエサを与えていて疑問が浮かぶ。白鳥といえば、湖や沼に飛来するものではないか。なぜ、川に、しかも七北田川のようなさも綺麗でない川に飛来してくるのだろうと。しばらく、その疑問を頭に置きながら、いつものマラソンコースである地元田子の氏神様二木神社に立ち寄り、柏手をたたき拝礼する。二木神社も考えてみれば不思議な名前と言えば、そうである。子どもたちが冬休みのせいか、野球をして遊ぶ上田子二号公園の脇を通ると、「完成記念碑」と銘打たれた石碑が堂々と設置されていた。石碑に刻まれた碑文を読んでみて、ふと今まで感じていた疑問の解答が得られた。

3. 田子は多湖で、田子の浦であった

 碑文を写メールにおさめたり、熱心に顔を近づけて読んだりしていたので、すっかり公園で遊んでいた子どもたちに怪しい目で見られていた。それはさておき、碑文には次のように書かれていた。

 田子と呼ばれ、田園地帯が広がる一帯は遠い昔、延暦年間、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征に来た際、沼湖が多い地帯であった。そこで田村麻呂将軍は、国府多賀城に向かうすがら、二木神社、当時明神社に隊を休ませた時に、「多湖」と名付けた。貴人でもある将軍に印象付けた風景とは、どのようなものだったのであろうか。石碑の前でしばらく考えてしまった。しかも、地名の由来にはまだ続きがあった。時代は下り、文治年間、平安時代末期である。源頼朝が奥州藤原氏4代泰衡を追討するために奥州に下ってきたときのことである。田村麻呂将軍と同様、二木神社にて憩う。神社には巨木二本が伸上がり、棟梁頼朝はそこに馬をつないだことから二木神社の由来となった。休憩の最中棟梁が西方を見上げると宮城の山々がそびえたち、中でも泉ヶ岳が泰然自若とした姿が、沼湖の水面に映し出され、美しく投影されていた。棟梁は、伊豆駿河から見た富士の姿を歌った万葉集の山部赤人の次の歌を思い出したのだろう:

田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

 無論、田子の浦は静岡県にある歌枕の地であまりにも有名すぎる。湿地帯、多湖、田子の浦、田子という地名の変遷と、それに携わった2人の征夷大将軍のかかわりに、今まで自分が抱いていた「田舎=汚い」という図式ががらがらと音を立てて崩れ去った。もちろん良い意味である。まさか自分の育ったどぶ川の悪臭と風光明媚な歌枕の地と等角線上に配置されているとは夢にも思わなかった。今、往時をしのぶことができるのは、白鳥の飛来だけではなかろうか。白鳥は沼湖を好む。渡り鳥のDNAの中には田園地帯の田子ではなく、沼湖としての多湖が刻まれ、何千年の時を経ても繰り返し、この地に飛来してくる。2人の将軍が名付けた景勝地は白鳥の記憶の中だけのものになってしまったのかもしれない。では、「田舎=汚い」という図式を確立させた主要因はなんであろうか。

4. 近代とは、開発という名の環境破壊思想だったのか

 田舎を汚したのは、近代であった。考えてみれば、明治維新以前を見れば、来日した外国人は日本の街路の美しさや、家屋内の清潔さ、庭園や草木の手入れの良さまで称賛している。御一新後、足尾銅山の公害問題、戦後から、より悪辣な企業の公害問題が顕著になり、光化学スモッグ注意報やヘドロ問題などは、つい最近の出来事ではなかったか。産業が重化学工業に重点を置くと、問題が深刻化し、ダイオキシンやらPCBだとか、環境ホルモンなどの言葉が世間を踊るようになったのもごくごく最近の話である。

 慣れ親しんだ梅田川の途中、仙台新港にそそぐ手前には、小規模だが、工場群が稼働し、そこから排出された汚水が川に出されていて、急激に下流が汚くなったのを記憶している。湿地帯として風光明媚な風景を人々に披露していた田子は、昭和42年に大規模で効率的に生産性をあげられるように耕地整理事業として、土地が整備される流れになった。先人が一生懸命開拓した美田は、機械化農業にあてはめられるような土地に改良されていった。昭和47年に特定重要港湾仙台新港が開港されると、都市化が進み、宅地としての需要も高くなり、埋め立て、宅地開発、道路の整備が着々と進められていった。

 筆者は昭和50年の生まれであるから、土地改良区事業によって、水田が整備される以前の田子をしらない。まったく記憶にない。ただ、たとえばだが、田子と類似した風景で、蒲生という海岸が仙台にある。現在は仙台港として、貿易の要になっている。筆者の祖母は、その蒲生という、現在でも野鳥観察で有名の地、出身であった。その祖母から、仙台新港が開港される以前の姿がどれほど美しかったかは話に聞いていた。祖母曰く「仙台新港ができる前までは、うんときれいな浜が広がっていたんだ。波が引くと沢ガニが踊るようにわさわさっと出てきて、また波がカニをさらっていったり。ごみもあるのは流木ぐらいで、それも地元の人たちが浜で燃やしたり、家で燃料に使うから、浜はいつも美しかった。」

 生産性向上と合理性の追求は、近代の産業文明の要件であることは、否めない事実である。しかし、自然の美しさを保った、維持した「機能美」と自然の姿を融合させた青写真を描こうとした開発業者はいなかったのだろうか。住人の心の風景を穢し、アレルギー体質の子どもを作り上げ、野放図に開発を続けなければいけない産業文明とは、いったいなんであろうか。

5. そうだ、歌枕だ!

 平安時代までさかのぼると東北は、鄙びたところではあるが、都の貴人たちから懸想の地として、憧憬に値する場所として認識されていた。能因法師の有名な「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞふく白川の関」を挙げるまでもなく、西行法師、松尾芭蕉といった聖俳が歌詠みの巡礼地として愛でた歌枕の地を、古風で風光明媚な景色を近景として取り戻すことに、今後のポストモダンの思潮が隠されているのではなかろうか。

 ところで、本日(2009年1月7日水曜日)の読売新聞にはアメリカのオバマ次期大統領が打ち出した不況対策、ニューディールならぬ「グリーンディール」に影響を受けてか、各国が雇用対策として環境に絡ませた政策を提出してきた。韓国では、大手製鉄会社ポスコが創業以来初めて減産に入り、不況が深刻化している。約3兆6000億円を投じて、96万人分の雇用を生み出す「グリーン・ニューディール事業」を策定した。日本では、麻生政権が「グリーン・ニューディール構想」を今年度中に策定するように指示した。これは、地球温暖化対策を景気浮揚につなげ雇用拡大も狙うためで、この先5年間で環境ビジネス市場を現在の70兆円から100兆円に拡大する考えだ。

 日本を含め、世界は環境ビジネス、グリーン事業に乗り出している。これらの事業は、資本や人々の意識が投入されれば、容易にビジネスとして成立させることが可能であろう。要は、ポストモダンの世界、エコ世代が、感性豊かな詩心や絵ごころのある人々を満たせる世界を構築できるか否かではないだろうか。

 近代日本を作り上げる上で基礎を築いた政治家、大久保利通には次のようなエピソードがある。それは、御一新後、外遊から帰国した後、近畿名所見物のため、堺県に立ち寄った。そこでは、士族授産のため、名勝である高師の浜の美しい松林が失われようとしていた。大久保はその嘆きを歌に読んだ。開発は止められ、白沙青松の景観は保たれた。近代化を強烈に推進した大久保の揺れる思いが見受けられ、とても興味深い。大久保の近代化のエピソードで興味深いものがもう一つある。彼は交易の重要性を認知し、大規模に外国との貿易ができるようにと、近代港の築港を開始する。福井県三国港、熊本県三角港、そして、宮城県の野蒜地区に野蒜港を築こうと計画した。野蒜と言えば、日本三景の一つである松島と隣接しており、今でも観光客でにぎわっている。築港の結果を先に述べれば、工事現場が台風の被害を受け、諸設計にも見誤りがあり、頓挫してしまった。もし、この近代港がいち早く築かれていたとしたならば、例えば横浜や呉のような商業、あるいは造船といった趣のにぎわいを見せていたかもしれない。

 しかし、筆者は、エコ時代を前にして、この明治の近代築港計画が頓挫してよかったと思う。なぜかといえば、野蒜地区には、奥松島という景勝地が存在し、日本三渓の一つである嵯峨渓を有しているからである。松島には表と奥があり、日本文化のいずれもそうであるように「奥」が最も密やかで美しい。おそらく、観光商業化された表松島とは違い、芭蕉が感動した松島の遠景をひっそりと残している地であること間違いない。この護良親王が名付けた嵯峨渓が、近代の開発によって崩されなかったことは、喜ばしいことで、計画の頓挫に至らせた台風は神風に近い。筆者は奥松島に来た時に、芭蕉が歌に残せなかった松島の感動と情景に思いをはせることができるのだ。また、近代築港跡は現在、吉田川と鳴瀬川が外洋に向かって優雅に流れ、川瀬にヨシ原が群生する明媚な場所として残されている。このような近代に「取り残された」風景に立つと、一昔前の、もしかしたら宮廷人が見ても愛でる価値のある自然が保存されている事実に、いくばくかの感動を覚えるのは筆者だけであろうか。

 近代に取り残された歌枕の美しさを自覚し、皆が景勝地に美学を見出す意識改革こそ、ポストモダンの採るべき思潮ではないかと感じる。

6. むすび

 学生時代、東北新幹線で東京駅から仙台に向かう時に、いつも思ったことがあった。それは、車窓から見える風景、関東圏の近代的なビル群から、緑が多くなる東北へ向かう時の「東北は取り残されている」という思いだった。東京駅から西に向かえば、工場が広がり、教科書で習った中京工業地帯が、圧倒的な勢力で近代の凄さを主張しているようだ。しかし、このグローバル化した労働市場では、一たび景気後退の局面に入ると、派遣切り、雇い止めは横行し、自治体の収入も90%減という未曽有の状況に巻き込まれてしまう。その一方で東北の表情は変わりもせず、生活を営んでいる。もしかしたら、緑深き森のおかげかもしれないし、近代化できなかった功罪の「功」の側面が前面に出てきたのかもしれない。そのような時代の趨勢を前にして、今後のポストモダン、エコ時代をどういった方向になるのか考えた時、行きつく答えは「日本人は日本人になればいい」という原点回帰なのかもしれない。

 一つの例を出す。長く武士や貴人の憧れの生き方があった。西行法師の漂泊の人生がそれだ。容姿端麗で才能に恵まれた西行は、武門の名家に生まれ、北面の武士として出世した。その栄達をあえて捨て去り、23歳で出家遁世したことはよく知られたことである。西行は晩年、奥州へ向かう途中、鶴岡八幡宮で頼朝と偶然に会う。西行を招き入れた頼朝は、流鏑馬についてや歌道について夜通し質問したと伝えられている。西行は歌について「歌とは、花月を見て感動した時に、僅か31字を作るだけのこと。それ以上深いことは知りません」と時の征夷大将軍を前に言ってのけた。

 山河、草木、花鳥風月といった自然とその移り変わり、美しさに神秘や神意を感じて、日本人は歌を、しかも、極端に簡素な形式で以て、詠んできた。そして、何よりも詩情をかきたてる自然の、緑の美しさを大切に守ってきたのではなかったか。ポストモダンを考える際、日本人を日本人たらしめてきた美の源泉に立ち返ってみても遅くはないのではないかと考えるのは筆者だけであろうか。

参考文献

佐佐木信綱校訂 『新訂 山家集』 1996年 岩波書店

2008年12月 執筆
  1. HOME >
  2. 卒塾生一覧 >
  3. 熊谷大 >
  4. 近代化に取り残された歌枕の地
ページの先頭へ