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歴史観
2005年5月

塾生レポート

歴史から学ぶ「持続可能な社会」の創り方
田草川薫/卒塾生

文明開化と言われた明治維新から始まる歴史観レポート第一弾。 三回シリーズの初回となる本稿においては、明治維新前後における環境と経済の変化を、「持続可能性」の観点から考察する。

 

1.はじめに

本レポートは、近現代史上の三つの出来事、「明治維新」「日露戦争」そして「大東亜戦争」について、自らの切り口と考察をもって論ずる「歴史観レポート」の第一弾である。時系列にのっとり、シリーズで執筆していくわけであるが、自らの切り口で自由に論ずることができるため、ややもすると論旨が曖昧になってしまう恐れがある。そこで、私自身の主たる研究テーマである「環境」と「経済」という点からそれぞれの出来事の前後を比較し、人々の生活様式や価値観にどのような変化と影響があったのかを考察していこうと思う。

初回となる今回は、明治維新という日本近代化の第一歩と言われる出来事を通じ、環境と経済と不可分の関係にある「エネルギー」利用がどのように変化したかを中心に考察を試みる。明治維新といえば、日本の近代化の出発点となる諸改革が行われた十数年を指すが、この限定された期間が歴史の大きな分岐点となり、今にも影響を与えている事柄が多々あるのではないだろうか。

よって、当時の社会状況、人々の生活様式を概観し、西洋から情報が流れ込んだことで、人々の生活はどのように変わったのかを見てみたい。生成発展を遂げ、豊かさを手に入れることはできたのだろうか。明治維新前と後を比較しながら、「豊かさ」とは何か、何を失い、何を得たのかについて、垣間見ることができれば幸いである。

2. 江戸から明治への変化:人口

エネルギーや人間の豊かさについて語り始める前に、当時の日本が一体どのような状態にあったのかを簡単に把握しておく必要があるだろう。まずは人口から見てみることとする。

江戸時代の中期、1720年頃、日本には約3000万人が住んでいたと推定されている。実は、江戸時代の末期、1850年頃の人口も約3000万人だったとの記録があり、日本の人口は100年以上3000万人から3200万の間でしか推移していなかったのである。この時期は戦争もなく、文化や生活の質はかなり高かったと言われている。よって、人口が増える要因はあっても一定に保たれる要因は少なかったと思われるが、その謎を解く鍵は耕地面積にあった。1600年頃の日本の耕地面積は約160万歩町あり、1720年頃には約300万歩町に倍増しているが、その後150年近く経った1860年頃になっても、わずか310万歩町しかない。つまり、江戸時代中期から末期にかけて、耕地面積が殆ど増えていないのである。また、度重なる飢饉や天災などで失われる命が多かった。結果、食料生産量も増やすことができず、人口が増加することもなかったため、江戸時代の人口は安定していた。

一方で、明治時代以降の日本は、人口が増加の一途を辿り、人口増大圧力に対する対応が大きな課題となっていた。明治時代の人口推計によると、1872年の日本の総人口は3480万人で、江戸時代末期とさほど差はない。しかし、時間の経緯で人口の増加を見てみると、1912年に初めて5000万人を超え、1936年の人口は、明治初期の倍となる6925万人となった。江戸時代、260年以上一定に保たれていた人口が、明治維新後、僅か40年で倍増してしまったのである。

こうした人口増加の背景には、明治以降の農業生産力の増大が考えられる。人口の伸びが見えるのは明治時代中期から後半にかけてであるため、明治維新前後に焦点をあてた本稿では農業生産力の変化についての詳細を述べるのは割愛するが、人口の8割以上が農業従事者だったにも関わらず一定の人口しか養えなかった江戸時代から、明治維新後、徐々に人口が増えていったということに関して、食料確保による人口増加と工業化は密接な関係にあることが推定できるのではないだろうか。

江戸時代に人々を悩ませた餓えや疾病から人々を救い、人口を増加させたのは、「エネルギー」という新たな発明の活用である。そこで、次に明治維新以降、日本で急速に広まった近代化のツール、エネルギーの利用法の変化について見てみたい。

3.江戸から明治への変化:エネルギー

江戸時代までの日本人は、原則として「自然」エネルギーだけで暮らしていた。
「日向水それも捨てずにつつましく」という言葉に示されるように、可能な限り太陽等から得られるエネルギーを使っていたことがわかる。江戸時代には既に九州で石炭が掘られ、新潟でも石油や天然ガスが採掘されていたとの記録はあるが、市民の日常生活におけるエネルギー源はもっぱら、暖房には薪・木炭・豆炭、照明には菜種油や魚油などの自然エネルギーが使われていた。

明治維新以降、西洋文化崇拝が盛んになり、太陽エネルギーだけで生きる生活は劣っていると考える時代が到来してしまった。自然の豊かな恵みを最大限活用し、人間の「できる範囲」で生活することから、化石燃料を大量に消費し、動力を用いて暮らすことが豊かであるかの如く信じられ、人々の生活様式は変わっていってしまった。エネルギーを多量に使うことが贅沢の極みであり、富の象徴のようになってしまったのである。

日本でエネルギー革命が起こるのは1868年、イギリスのジェームス・ワットが蒸気機関を発明してから約100年後のことである。1872年、横浜の街にわが国で最初のガス灯が点火された。この時のガス灯は、石炭から発生させたガスをそのまま燃やす「裸火」に過ぎなかったが、そんな単純な仕組みであったにも関わらず横浜の街を明るく照らすガス灯は文明開化の象徴として、当時の人々の心を魅了した。電灯が登場するのは更に10年後、1882年のことである。東京・銀座に灯された日本初の電灯(アーク灯)には、連日大勢の人が見物に訪れた。日本で初めて発電所が建てられ、電灯は東京を中心に急速に普及する。さらにエレベーターや電車など、電気は動力用としても利用され、次々と発電所が建設されていった。

日本の発電所では、主に石炭を燃料にしてボイラーを焚き、蒸気エンジンを使って発電機を動かしていた。一つの発電所が賄える電力は、白熱電灯約1600個分にすぎず、明治時代の初期に建てられた発電所五箇所を合わせても白熱灯9600個、アーク灯135基分相当にしか電力を供給できていなかった。この後、明治時代中には商業用水力発電や効率のよい火力発電所が設置されることにより、日本は本格的に工業化、近代化の道を歩み始めるようになる。まずは照明として、そして次第に工業用へとエネルギー需要は急速に増えていく。

機械化が進み、次から次へと製品が生産され、日本人の生活は物質的に満たされていった。しかしそれは同時に物質の循環が保たれていた状態から過剰供給へとなる第一歩だったといえるのではないだろうか。

自然から得られるエネルギーを感謝して使っていた時代から、いつのまにか化石燃料を中心とした時代へと移り変わっていく。と同時に、国内で生産できる物品の量も増えていき、人々の生活様式は瞬く間に変化を成し遂げていくのである。できる範囲での生活から、欲しいものを手に入れる生き方へ。日本人本来の価値観や生活様式が薄まり、この頃から持続性のバランスが失われていってしまった。

4.江戸から明治への変化:ごみ

持続性のある社会を示す言葉として、「循環型社会」というものがある。社会の中で必要なる様々な物質が、不可分なく「循環」している状態が望ましいと考えることを指し、大量生産、大量消費によって自然を磨耗している現代社会への警鐘として用いられることが多い。日本では2000年に循環型社会形成推進基本法が公布され、廃棄物の発生抑制、リサイクルの徹底などが意識されるようになった。このような法律が必要とされたのも、経済活動が地球環境の許容量を越えて消費と廃棄を繰り返したからである。そこで、改めて法律を作って生活様式を見直し、資源を循環させる持続可能な社会を目指すことを宣言しなければならなかったのである。

江戸時代は不要なものが何もなく、全てが循環していた究極の持続可能な社会だったと言われている。というのも、当時の生活の中に存在する「物品」を考えてみると、殆どが衣食住に限定されており、多くのものは天然素材でできていた。不用品は修理して使うか再利用され、持ち主や形を変えて何度も繰り返し使われていた。紙屑屋、古金屋といった職業が成り立ち、古紙、貴金属の類まで全て再利用されていた。人間からでる糞尿でさえ、肥しにするために売買されていた時代である。廃棄する際も、時間さえかければ事前と自然に帰るものばかりで、人間と地球環境が持続可能な関係にあった。

明治初期も、都市の廃棄物排出量や処理方法は江戸時代とさほで大きな違いはなかったが、1877年以降、伝染病が流行するようになり、「公衆衛生」が重視されるようになった。都市化が進み人口が急増していった東京では江戸時代のような廃棄物管理ができなくなってしまい、不法投棄も横行するようになった。こうしてごみの処理は「生業」から「行政管理」へと移り変わり、人々の生活の中にあった循環のサイクルが少しずつ、しかし確実に分断されていったのである。

5. 明治維新が日本にもたらしたもの

明治維新後、日本には様々な知識、情報がもたらされた。工業化とは、石炭火力を用いて、人力以上の「力(エネルギー)」を生み出し、多大な労働を実現することである。その恩恵は、現代社会にも継承されており、決して否定されるべきものではない。塾主曰く、人間には生成発展する使命が与えられており、工業化は必ずしも悪の要因ではないとしている。しかし、過度の工業化、特に国内の「実情」を超過した工業化は不幸を招いてしまうのである。

明治維新後、日本の工業化の特徴を挙げてみると、次の二点が考えられるだろう。一つは、国内で十分供給できた「自然」エネルギーの利用から化石燃料への転換が進んだこと。もう一つは、大量消費型社会が広まり始めたことである。

鎖国をほどいたことで、日本の持続可能性は悪化したと言っても過言ではない。明治維新は日本に資本主義、自由主義、近代化をもたらしたというメリットが強調されがちだが、「西洋化」という価値基準で日本の豊かさを判断するのはおかしいのではないだろうか。

人間は時間の経過とともに生成発展し、繁栄と幸福を実現するものである、という塾主の哲学に基づけば、明治維新後化石燃料を大量に使うようになったエネルギー多消費型の文明は優れたものであり、そこで生活をしている我々は非常に「幸せ」なものである、と仮定することができる。確かに、蝋燭灯りを頼りに太陽とともに生活し、全ての労働作業を人間がこなしていた時代に比べて、機械化が進んだ生活は便利で快適になったといえるかもしれない。しかし、化石燃料という資源に頼りすぎた我々の生活は、時に争いを生み出し、環境破壊という取り返しの付かない問題を発生させてしまっていることも忘れてはならないだろう。特に自国で化石燃料を十分供給できない日本にとって、それに依存しすぎる社会を作るということは、自らの土台を危ういものにしているといえるのではないだろうか。

現在、21世紀初の万博が愛知県で開催されている。世界で博覧会形式の万博が初めて開催されたのは、1851年のロンドン博である。日本が万博に初めて初参加したのは1867年、パリ万博に15代将軍徳川慶喜の弟、昭武が幕府の代表として赴いたことに始まる。明治維新とほぼ同時期に万博に参加するため渡仏し西洋文明に触れた日本人。そこで生み出された価値基準を受け入れ、欧米への憧れを原動力にしてきた日本人。しかしその豊かさは植民地を抜きには成立していなかったという事実と、自然環境に対して敵対的かつ破壊的な西洋式合理主義は日本人の本質と相容れないものと見抜くことができなかった。

自然の叡智を学ぼうと、自然と共存することや持続することの重要性に気付いた今、ようやく日本人は日本人として歩み始める時期にきたのかもしれない。明治維新は西洋化を進めた時代であったが、新しい時代には日本の優れた技術を広めていくべきであろう。高度に進んだ自然科学の知見を巧みにいかして、もっと独創的な方法で循環型の社会を築き上げるように努力しなければならない。それができるのも、エネルギー消費量という単純な指標ではなく、精神的・肉体的豊かさを感じ取ることができる日本人の感性をいかした指標があれば可能であると信じたい。

以上

参考文献

石川英輔 「大江戸えねるぎー事情」 講談社文庫(1993)
石川英輔 「大江戸えころじー事情」 講談社文庫(2003)
内閣府 「少子化社会白書(平成16年度版)」 ぎょうせい(2004)
西尾幹二(編) 「地球日本史〈3〉江戸時代が可能にした明治維新」 扶桑社文庫(2001)
樋口清之 「梅干と日本刀―日本人の知恵と独創の歴史」 祥伝社(1990)
2005年5月 執筆
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