論考

Thesis

憲法で維持する国らしさ ~日本と日本人~

塾主の人間観を考察しながら「国家とは何か」について考察する「国家観レポート」の第一弾。今回は「憲法とは何か」という切り口で、国家について考えてみたい。憲法を通して国家を形成する価値観、日本らしさとは何かを導き出すことが可能か考察を試みる。

1.はじめに

国家観を語る際に「憲法とは何か」を取り上げて考察を試みると、「国家とは何か」という話よりも、現在の憲法が現実を反映しているか、していないかといった「憲法改正議論」になりがちである。ここではむしろ、「国家」というものを形成するに当たって、主要な構成要件として憲法があるならば、どのような憲法が必要なのか、すなわち国家らしさを保つために憲法に込められている期待や意味とは何なのかについて考えてみたい。

2.国家とはなにか

そもそも「国家とは何か」と改めて考えてみると、1933年に締結された「国の権利及び義務に関する条約」の定義に根拠の一つをみることができるのではないだろうか。この条約によると、国家とは、国際法上の人格を持つ為に、「永久的住民」「明確な領域」「政府、及び他国との関係を取り結ぶ能力」を持たなければならないとされている。つまり、国民、領域、司法という三つの要素が揃って初めて国家となりうるのである。

最初の二つの要素、すなわち国民や領域(領土)がないと国家にはなり得ないという定義は理解し易い。恐らく、国家構成要件の最重要項目は、三番目の要素として挙げた「他国との関係を取り結ぶ能力(外交能力)」であり、これがあるからこそ、国家として認められるのではないだろうか。つまり、国家になるためには、「外交を他国の権力に服さず独立して行う」という対外主権を持っている必要があり、諸外国(国際社会)から存在を認められるようになって、初めて国家になれるのである。

新しい国家が誕生するにあたって、具体的な手段としては複数国家の併合や既存国家の分裂、既存国家からの分離独立などがある。しかし、国際社会において国家承認機関などというものは存在せず、国際法すら確立されておらず、原則として慣習法の中で扱われている。その結果、国家の誕生に関して既存の国家が承認することで存在が認められるようになる。(注:なお、既存国家による承認方法については、国家誕生(独立)を宣言するだけでよい宣言的効果説もあるが、日本などでは承認を前提とする創設的効果説が主流である。)

国家が誕生すると様々な権利を保有するようになる。それは国際法上に基づく法人格としての権利であり、国際社会の中の、国家としての基本権である。この基本権には、最高決定権力や統治権、独立権などがある。国際社会の中で、他国に干渉されないための主権であり、民主主義国家では主権は国民にあり、国民がその力を国会や内閣に信託することにより、立法機関としての国会や行政機関としての内閣が存在する。このように、独立した国家としての基本権を定めたものが憲法であり、だからこそ憲法を国家の主要構成要件とすることができるのであろう。

3.憲法とは何か

結論から述べると、憲法とは、「国家が国家として成り立つために必要な取り決め」である。先ほどの「国家とは何か」、という問いに対する回答を簡単にまとめて「国際社会で存在を認められた人格」、というものだとするならば、憲法とはその「人格を維持するのに必要な事柄をまとめたもの」と言える。

国家に必要な要件は「国民」「領土」「独立した政府」であるのは上述の通りであるが、国家としての主権は、結局、国民に帰属している。それは憲法第一条に記されていることからも明らかであるように、国家の主役は国民なのである。そして憲法とは、国家の主役たる国民の「生命、自由、財産の保護という基本的人権を守るもの」であり、憲法の主目的は国民の幸福を最大限尊重するように国家権力へ命令することである。

しかし、ここで間違えてはならないのは、国際社会の中に主権国家があり、主権国家の中に基本的人権を持った国民がいる、という前提条件だろう。国家というものの性質を鑑みると、個人が揃ったから国家ができるのではなく、国家があっての個人であり、国家に主権が存在して、初めて個人の権利が誕生することになる。

例えば、日本という国が国際社会の中で認められる法人格を持って、初めて日本人としての国民の人権が生まれるのであり、仮に日本が国際社会の中で法人格を喪失した場合、国民たる日本人を「保護」するものはなくなってしまうのである。国家が主権を失うと、そこに住む国民は人権を失ってしまう、と言っても過言ではない。繰り返しになるが、憲法とは、国民としての幸福を維持するためのものであり、それは広義において、国家として存在していくために必要な条件や決まりごとを規律している、と言えるだろう。

憲法を通して国家と国民の関係を考える際に、国民の幸福について定めた憲法第十三条を取り上げてみたい。この条文はアメリカの独立宣言を下敷きに書かれているが、その前段としてジョン・ロックの社会的契約説が存在する。社会的契約説は近代民主主義の基礎と言われており、人間は生まれながらに平等であり、「生命」「自由」「財産」という三つの権利は普遍的に所有されるものである、としているが、国民の幸福像はまさにこの三要素を前提に描かれている。

ロックの思想の特徴は、社会契約説の始祖であるホッブスの解釈とは異なり「私有財産の権利」を基本的人権の中に含んでいるところにある。ホッブスが「世の中にある資源(RESOURCE)は有限であり」だからこそ「万人の万人に対する戦い」が起きる、としたのに対して、ロックは「人間の労働により資源は増加させうる」として「労働を投下した人間に私有財産は属する」と考えた。ロックの主張するような個人の私的財産権の所有を国家(及び国家利益)よりも優先してしまった場合、個人(国民)が国家に対して本来ならば持つべき義務(これをあえて愛国心と呼んでも構わないが)をどのように担保するのかが難しくなると思う。国民がばらばらにまとまりもなく利益を主張するようになってしまったら、果たして国家は存在を維持できるのであろうか。

本来ならば、国民には自分たち自身が国家、社会の基盤であるというプライドが求められる。国民は国家をよくすることを自分の任務だと自覚し、自己の利益も犠牲に出来るようなノブレス・オブリージュを持ち、国家のために身を挺して奉仕するという気概が求められるのではないだろうか。このような国民がいるからこそ、国家は国家として主権を保って存在できるのであろう。志・意識の高い国民を保護するのが憲法であり、また、国民も憲法によって保護されていることを自覚して、国家のために尽くそうという意識を持つべきである。国家を維持するには国民一人ひとりが国家観を持ち、国家を良くする為に(それは自分たちの生活を良くする事を意味する)尽力を果たすべきであり、その「良い状態」を実現するために必要な約束事・基準を具体的に提示したものが憲法であると言えるのではないか。換言するならば、自分たちの望む国家を実現するために書かれた決まりごとが憲法であるべきであり、また、日本らしさという国家観を共通認識事項としてまとめたものが憲法なのではないだろうか。

4.国らしさをどのように保つか

憲法というものが「国らしさ」を定時するものであったならば、憲法さえ制定すれば国家意識は保たれるのだろうか。塾主は憲法を国家の基本法とし、国民生活の秩序を支えるものであるとしている。さらに、憲法とは人類共通の永遠不変なものであるため、自然の法則、摂理に従ったものでなければならないとし、不変の真理に則った内容であるべき、と明記している。また、憲法の持つ根本精神が自然の秩序に淵源を持っている以上、その思いは人類共通のものであり、永遠不変であるとしている。従って国家秩序を支える国家憲法があるのと同じように、世界秩序の根幹となり、これを支える世界憲法が出来上がることを予測している。

憲法は、国民一人一人が生活に責任を持ち、その責任のもとに自由に活動をするための基盤であり、秩序を持って、統一感を生み出すための真理を集約したものである。そのような前提で、国らしさを保つために憲法をどのように活用するかについて考察する際、一つの例として、ブータンを取り上げてみたい。

ブータンはインドと中国チベット地区の間に位置し、ヒマラヤ山脈に囲まれた小さな王国である。1907年に現王朝が支配を確立、絶対王制を敷いた。現在のジグメ・センゲ・ワンチュック国王は1972年、16歳のときに即位して以来、議会に国王権限を一部委譲するなど改革を進めてきたが、成文憲法は制定されていなかった。そこで、国王の指示により2001年から、司法、宗教、産業界などの代表で組織する起草委員会を設け、成文憲法草案づくりを進めていた。

2005年3月、この憲法起草委員会が、同国で初めてとなる成文憲法案を発表した。立憲君主制を明記し、国王の在位を65歳までとする「定年制」や、環境保全のために国土の6割は森林として残すことなどを規定している。

今回発表された草案では第一章で主権在民をうたい、政体は民主的な立憲君主制と明記した。国王が即位できるのは21歳からで、65歳で退位するとしている。男性の後継者がいない場合は女王も認めており、国王が憲法に背く行いをした時は、議会の4分の3、国民投票の過半数の支持で国王の「解任」もできる。

「環境」に関する独立した章(第五章)を設け、「政府は、国家の天然資源を守り、脆弱な山岳生態系の悪化を防ぐため、国土の最低60%が森林に覆われていることを保証する」と規定した。ちなみに現在のブータンは国土の約70%が森林に覆われており、豊富は水源を用いた水力発電から得られる電気を近隣諸国へ売却することで収入を得ている。また、環境保護にも力を入れており、今回の憲法草案の中にも「予防原則」に基づいた環境保護規制が含まれている。予防原則は環境への悪影響が科学的に十分証明されていなくても、予防的に化学物質の使用を制限したり、開発行為をやめたりするという考え方で、先進国でも採り入れている国は少ない。

政府はこの憲法草案を全国民に配布し、じっくり読んでもらったうえで、今年末に議会で制定の可否を決める予定だ。国王は、議会で可決されれば、憲法の成立を認めるとしている。

ブータンは人口約234万人の仏教国で、大きさは九州の1.1倍しかない。首都ティンプーには約73万人が住んでいる。昨年、世界で初めて国として全面禁煙を実施して話題になった他、国民の豊かさをGNH(Gross National Happiness、国民総幸福量)で表している事でも有名である。これは国王が即位の儀式の前に、国内を自らの足で隈なく見て歩き、発した宣言に基づいている。

国外から観光客が入ってくることを戦略的に管理しているブータンであるが、6年前から衛星放送によるテレビ放映やインターネットが解禁され、去年からは携帯電話も普及するようになった。それと同時に、IT化が急速に広まり、国を支える伝統と価値観が揺らぐのを防止するかのように、民族衣装着用に義務などが決められている。チベット仏教の伝統文化を守ることで民族意識を保とうとしているのだ。

このブータンの例は国家が国家らしさを保つために必要なものが何かを提示しているのではないだろうか。例えば、従来守られてきた幸福に対する価値観が、情報の流入によって揺らぐのを防ぐために、民族衣装や宗教的儀式が守られるように心がけ、さらに憲法の中に国家の価値基準を明文化しているのである。そして憲法を成文化するにあたって国民の議論を求め、積極的に国づくりに関与してもらおうとしているところに国家とは何か、憲法とは何かの真髄が示されているように感じられた。

5.開かれたグローバル観から国家観へ

「そして舞台は世界へ」

数年前に目にしたブロードバンドを宣伝するキャッチコピーの一つを思い出してみた。
インターネットが普及し、現実世界でも気軽に海外へ渡航でき、ありとあらゆる「秘境」にさえ、日本人の痕跡を見出せるようになった現代、私たちの価値基準はどんどん「開かれたもの」になっているのではないか。「国家観」という言葉の裏には、国家として、自由や幸福の基準や枠組みをどのように設けるか、という問いが隠されているような気がする。

自由とはそれだけでは何もできない。不自由さを経験して初めて気がつくものである。幸福もまた然り。際限ない個人の欲望を全て充たすことを考えていたら、地球がいくつあっても足りないだろう。ロックの時代には地球という資源に限界点があるという概念はなく、自然環境の前では誰もがみな平等であるとされたが、今では好き勝手に資源を消費することは許されないという意識が広まりつつある。

西尾幹二は「国民の歴史」の中で人は「自由」に耐えられるか問うている。自由が人間の基本的人権とするならば、権利に耐えられないなどということがあるのだろうか。そんな疑問を持ちつつ読み進めていくと、枠組みの無い自由は「光があるだけで影のない世界」に等しく、それは「残酷である」という。人間を「直接的に拘束し抑圧するもの」は何もないにも関わらず「個人の生き方は確かになるどころか、ますます頼りなく、偶然に支配されるような傾向が増えて」いく。

これは言い換えるならば、国家という枠組みが与えられなくなった国民は、まるで根元を切られた草のようにふわふわと飛んで行ってしまうことになり、幸せにはなれないと言っていると解釈した。

「われわれの未来には輝かしきことはなにも起こるまい」と断定する西尾には簡単には同意できないが、世の中が自由になればなるほど、仮想現実が普及すればするほど、豊かさや幸福の定義が曖昧に薄れていってしまう危機感はある。

だからこそ、国の枠組みを定めるのに憲法が必要になるのではないだろうか。究極的には国家という枠組みが消滅し、世界政府ができる日が来るかもしれない。塾主もその可能性は示唆している。そして世界政府が出来たならば、そこには人類共通で永遠不変な約束事を連ねた「憲法」が生まれるだろう。

そのような日が来るまでは、国家が国家としてどのようなスタイルを保持したいのか、それを憲法に載せるべきだと思う。憲法とは、国家を表すものである。国民の多数が合意できる価値観というのはなかなか打ち出せないかもしれない。しかし、今後グローバル化が進み、国境という垣根が低くなり、国家という枠組みが不明瞭になればなるほど、憲法を通じて国家像を描き、それに合意する人間が集まることで保たれる国家が出来てくるというのも新たな考えかたなのではないだろうか。「日本」という国家のビジョンを明確化し、それに同意できるものが責任と義務を果たしていくことで成り立つ国家が誕生する。とするならば、ますます憲法という手段に込められる期待は高くなり、国家を「表現」する手法として憲法は用いられることになるといえるだろう。

以上

参考資料:

小室直樹 「痛快!憲法学」集英社インターナショナル(2001)
小室直樹 「日本国憲法の問題点」集英社インターナショナル(2002)
西尾幹二 「国民の歴史」産経新聞社(1999)
松下幸之助 「遺論:繁栄の哲学」 PHP研究所(1999)
松下幸之助 「松下幸之助の哲学」 PHP研究所(2002)
The Centre for Bhutan Studies, P.B. ”Gross National Happiness”

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田草川薫の論考

Thesis

Kaoru Takusagawa

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第25期

田草川 薫

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