Thesis
本レポートでは人が最期まで幸せでいるためにはどのようなことが必要であるのかを考える。高齢化により、様々な問題が叫ばれる中で、元気で最期までいられることがより重要になってくると考える。
私が介護の世界に足を踏み入れたのは2009年4月であった。もともと食事の勉強をしていた私は、介護に興味があったわけではなく、「1人1人に合わせた食事を作るようにしていきます」という会社の方針に共鳴をして入社を決めた。
しかし、その時の人事担当者に「食事を作る人のことを分からないといけないので、できたら1年間は介護の仕事をした方が良い」と言われ、ヘルパー2級を取り、ケアスタッフとして働き出したのがきっかけであった。
現場では私が描いたような幸せな老後はなく、様々な不安を抱えた人が多く住んでいらっしゃった。
その時に私は食事を作ることが好きなのは人が笑顔になってくれるからだという事に気づき、介護の仕事に向き合う事に決めた。
施設では月に平均2人ずつお亡くなりになっており、ここで働き出してから私は人が亡くなる瞬間を初めて見た。 「人は亡くなる瞬間というのは誰に看取られたいのか選ぶから、そこに立ちあえることは良いことなのよ」と看護師さんに言われるが、人が亡くなることは何年経っても慣れなかった。夜中の見回りの度に「亡くなっていませんように」と願いながら、毎回部屋のドアを開けていた。
そんな毎日を過ごしながら、3年経った時に私が担当していた要介護5の方がお亡くなりになった。経官食で意思表示もできず、座位も取れないため、寝たきりの方であった。その方がお亡くなりになった瞬間、ご家族は「やっと家に帰れるね。家に帰ろうね」とご遺体に向かって言い、そのまま葬儀場に行かずに自宅に戻られてから葬儀場に行かれた。
後日、ご家族にお話を聞くと、この方はもともと家が大好きな人で、グループホームに入った時期にも「家に早く帰りたい」と毎日のように言っていたそうだ。
それでも家で看ることができずに、罪を償うつもりで高い有料老人ホームを選んでそこを終の住処にしたということであった。「本当は家に居たかったと思うの」と娘さんは最後におっしゃった。
このことに私は衝撃を受けた。
当たり前のことが当たり前にできないことへの悲しさや、自分にはどうすることもできない無力さなどがこみ上げてきた。
そのような想いから、私は松下政経塾の門を叩いた。
入塾をしてからの私の最初の命題は「人の幸せとは何なのか?」であった。この方は幸せだったのか、私が働いていた施設に入居されていた方は幸せだったのか、ということをことあるごとに考えていた。
本レポートは私の実践課程での活動で得た学びを書くとともに幸せな最期を迎えるためにはどのようなことが必要かということを述べることとする。
今年の敬老の日を目前に、厚生労働省は100歳以上の高齢者の人数が過去最高の6万人を突破したことを発表した。この背景には「健康意識の高まりや医療技術の高度化などにより、平均寿命が延びていることが背景にあるのではないか」*1と厚生労働省は分析している。
我が国は現在及び今後の未来において、世界で最も人口の高齢化が進んだ「高齢化先進国」として世界の先頭を歩み続けている。
2015年時点における日本の高齢化率は25.1%であるが、今後も伸び続け、2025年には30%を超え、2060年には40%に達すると見込まれている。
このようにどの国よりも先に高齢化を迎える日本は他国の事例を参考にすることもできず、自ら高齢化することによって生じる課題を解決していかなくてはならない。
ではその課題と我が国ができる解決策は何なのか。
まず課題から考えていくこととする。
高齢化の問題は大きく分けて行政や国、高齢者本人、家族、事業者、の4つの立場からの視点で課題が語られる。
まず、行政や国の視点から見た課題は財政と人口動態の問題である。
高齢化が進むことにより、日本の社会保障費は年々1兆円規模で増加し続ける見込みにある、一方で、生産年齢人口は減少し続ける予測がされている。労働力人口は高齢者や女性の労働市場への参加が進まなかった場合、2030年までに1000万人減少する*2といった見通しもされている。世界第3位のGNPを誇る日本の経済規模は縮小することが懸念されている。
また、東京都・神奈川県・大阪府・埼玉県・愛知県・千葉県といった都市部の高齢化が2010年から2030年にかけて急速に進むことにより、病院や介護施設が足りなくなるなどの問題も予測されている。
次に高齢者本人からの視点である。
平成22年に内閣府の調査による「虚弱化したときに望む居住形態」では「現在の住宅にそのまま住み続けたい」と答えた人が約45%で「改築して住み続けたい」と答えた人が約20%で合わせて約70%の人が自宅で暮らし続けることを望んでいることがわかる。しかし、在宅介護は家族の負担が大きく、難しいのが現状である。
また、国民年金だけで生活ができない現状であることも、平成23年の国民年金の受給額の調査でわかる。平均の受給額は5万4544円で、6万円台が層としては一番多い。*3
国民年金は年金を納めた期間に比例して受給額が決まるため、その差が出るものの、今後は生活ができない貧困層の高齢者が増えるのではないかと予測できる。
次に家族からの視点の課題である。本人からの問題にリンクしてくる課題が多くあるが、親の介護が必要となった場合に経済的にも身体的にも精神的にも大きな負担になってしまうということが大きな課題である。また、それは子どもだけではなく、現在、配偶者にのしかかる「老老介護」も大きな課題となっている。
そして、事業所(施設など)からの視点である。高齢者の増加に伴って介護の仕事のニーズは増えていく一方で、介護の仕事は3Kと言われ、福祉大学の人でも介護の仕事に就かない傾向となってきている。そのことにより、潰れる事業所や現在働いている職員の負担が増えているのが現状である。
国や行政、本人、家族、事業所の大きく4つの課題についてここまでは書いてきた。
ではこれらの課題に対しての解決策とは何なのか。
それは、最期まで元気でいられるような方法を作ることではないだろうか。
実に単純で笑ってしまうような答えだが、これがうまく行っていないのも現状で、そこをまず解決していかなくてはいけないと考える。
では、この問題の中の1つ本人にとっての幸せとは何なのかを考えていきたい。人間の幸せについては様々な哲学者が言及しており、その論考や書籍にもあたった。しかし、人間の幸せについて断定することは難しい。幸せというものは科学的な分析ができず、人それぞれ価値観が違うからである。
例えば、私は犬が苦手であるが、犬といることが一番幸せという人もいるだろう。また、私が嫌いな貝類を食べている時が一番幸せという人もいるだろう。
そのように考えた時に、私にとっての幸せや哲学者たちの言う幸せを羅列していても始まらないのである。
しかし、私は障がいを負っても年を取っても普遍的な幸せが存在するというヒントを2つの体験から得ることができた。そこのとについて次の節では述べたい。
先日、あるグループホームに伺った際にそこの入居者様に「お姉ちゃん、お茶飲んでいきなさい」と一杯の麦茶を入れて下さったことがあった。ものすごく香りの良い麦茶で、ふと見ると横で一生懸命、麦を別のおじいちゃんが炒っているのである。「おいしいですね」と言うと、「だろー?畑からはとむぎ取って来たんだから。昔はそれが当たり前だったんだ」と笑顔で話してくれた。
補足をすると、グループホームのため、この方々は認知症と診断を受けた方々である。しかし、そう見えないくらい元気にその事業所の中で自分の「仕事」をしていた。
事業所の方に話を聞くと、その方々もかつて家では混乱してとても家族では手に負えない状態であったそうだ。しかし、今では認知症がわからないくらい笑顔で穏やかに生活をし、自分のできる「仕事」を担っている。
この光景を見た時に役割があることの尊さと重要性を感じさせられた。
恐らく、人間は何かのためであれば身体を動かし、元気でいることができるのではないだろうか。
また、日本理化学工業の大山会長は「人間の究極の幸せは、(1)人に愛されること、(2)人にほめられること、(3)人の役に立つこと、(4)人から必要とされること。働くことで愛以外の3つの幸せは得られます。障害者の子たちが、企業で働きたいと願うのは、社会で必要とされて、本当の幸せを求める人間の証なのです」と述べている。*5
そのようなことから、長くその人の「仕事」がある場所が必要だと考える。
では、仕事があれば何でも良いのか。
先日、若年性アルツハイマー型の認知症の方が求職していた際に、企業からノルマを課せられて、それを達成できなかったために不採用になったという話を聞いた。企業側からすれば仕事であるため、当然のことである。
また、その方が仮にここで働けたら幸せであったのかと考えた時に、決してそうではないと思った。
この事例は若年性アルツハイマー型認知症と診断された方であるが、高齢者も同様に考えた時に、できることよりもできないことが多くなっていく。その中で恐らく、私たちが考えなくてはならないことは「その人の天分を活かすこと」ではないだろうか。
そのためには、何が必要なのか、まず第一段階として「その人自身を知る」(アセスメントを丁寧に取る)ということである。これは要介護が必要になった際にケアマネージャーが自宅に行き、取っているが、その前の段階でその人の歴史を知る人を民生委員以外でできる限り多く作ることが必要である。そして、何かに関わってもらえる・力になってもらえる方法を考えることが必要なのである。どのような病気を持っているか、何ができないかよりも、その人はどのような事を大切にしていて、どのような歴史を持って生きてきて、何ができるのか・・・。
若い人と同じことをやり、できなくなっていくことに光を当てるのではなく、できることに光を当て、若い世代だけでは作り出せない新しい価値を作り出し、より長くその人に役割を持ってもらうことが重要であると考える。
そうすることにより、誰かの役に立つということが自分の生きがいや元気にも繋がるのではないだろうか。
冒頭に述べたように、我が国は高齢化の先頭国になっている。そのため、認知症の診断や対策により力を入れ、他国への先進的なモデルとなるように努力している。しかし、日本ができることや良さは本当にそんなことだろうか。
先日、福島県の只見町というところのある農家のお家にお邪魔をした際、そこのおばあちゃんから教えられたことがあった。その家ではご主人と奥さんそして、おじいちゃんおばあちゃんが一緒に暮らしている家だった。私が御邪魔した時におばあちゃんは昔の福島県の様子や「うち豆」という昔からの豆の保存食の作り方や食べ方などを教えてくれた。
高齢者は若い人とは同じことをすることは難しいだろう。しかし、私たちは経験していない歴史を持っている。
昔はその関係の中で、上手く付き合い、若い人は高齢者から昔の知恵を教えてもらってまた次の世代につないでいっていたのではないだろうか
今後、日本が重要にしなければいけないことを下記2点に述べたい。
まず、高齢者の力を最大限に引き出すこと。そのためには、その人にしかできないことで誰かの役に立てるという環境を地域の中で作っていくことが大切である。その第一歩として、お互いがお互いを理解する場を作ることが必要なのではないだろうか。
次に要介護状態になることや認知症になることなど、「老い」は自分の延長線上にあることだと認識してもらえる機会を持つこと。
例えば、認知症になって近所で問題を起こしてしまうと、地域はそれを隠して、なかったことのようにしようとする。そしてその人を排除し、いつの間にかその人はいなくなる。
しかし、これは自分の周りでも起きる可能性があるということを認識し、オープンに色々話を具体的にできる場を作らなければならないのではないだろうか。
「地域包括ケアシステム」とは、一人の方をその地域で支えようという意思が集まって初めて成り立つものであると考える。その事例が積みあがっていってはじめて、その地域の「システム」となる。その事例を積み重ねていくためには、自分の延長線上でどのような未来を描くのかを住民が考えていかなくてはならないのである。
今後の日本の福祉に求められることは「支える人」と「支えられる人」をはっきり分けることではなく、日本の中の「あいまいさ」の重要性に気づき、その人の良さに光を当てられるような社会を作っていかなくてはいけないのではないだろうか。
できる限り元気で最期まで居られる方法を引き続き模索し、今後は高齢者が働ける場づくりをしていく活動をしていきたい。
また、自分達の老後や未来についても住民の方々と話す機会を設け、どのような答えがあるのかを模索していきたい。
<引用文献>
*1 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150911/k10010228971000.html
*2 東京大学高齢社会総合研究所『東大がつくった高齢社会の教科書』p37
*3 厚生労働省年金局『平成23年度 厚生年金保険・国民年金事業の概況』
*4 鎌倉市『平成27年~29年度 鎌倉市高齢者保健福祉計画』p16、p17
*5 働く幸せ(http://www.wave-publishers.co.jp/contents/tokushu/21.html)
<参考文献>
E・キューブラ―・ロス『死ぬ瞬間』
エドガー・カーン『この世に役に立たない人はいない』
武井繁『潜在ワーカーが日本を豊かにする』
Thesis
Aya Matsumoto
第34期
まつもと・あや
NPO法人 湘南バリアフリーツアーセンター