Thesis
本稿は、松下政経塾(以下、当塾)の経営哲学を「人情の機微」という松下幸之助(以下、塾主)の言葉から紐解いていくものである。
塾主は晩年、当塾の塾生に対し、次のように述べた。
「人情の機微を知ることは非常に大事やけど、いちばんむずかしいことやな。人情の機微を知っていたら、天下でも取れるわ(笑)。しかし、それを知っている人というのは少ないな。自分でいろいろ当たって砕けたりしてやっていくうちに、自然とつかめるものだから自分で悟ってつかまないとしかたがない。学ぶべきものではなくて、それは悟るべきものである。」[1]。
人情の機微を知っていたら、天下でも取れる。塾主がいかに人情の機微を重要な要素として考えていたかが分かる言葉である。本稿では、塾主にまつわるエピソードや言葉を一つ一つ深堀することで、塾主が大事にされた「人情の機微」への理解を深め、「人情の機微」を活かした経営を行う為に、我々塾生が今、何をどのように体得すべきかを明らかにすることを目的とする。
そもそも、「人情の機微」とは何か。辞書[2]を引くと、「人情」は「人間の自然な心の動き。人間のありのままの情感」を意味し、「機微」は「表面だけでは知ることのできない、微妙なおもむきや事情」を意味する。すなわち、人情の機微とは「一見するとわからない、人間らしい繊細な感情、心の動き」を表す言葉だと解釈できる。
次章では、この「人情の機微」にまつわる塾主のエピソードを紹介していこう。
本章では、次の3つの観点から、塾主のエピソードを深堀していく。一つ目に、塾主のエピソードを紹介し、二つ目に、エピソードに関連した塾主の発言や提言を取り上げる。最後に、そこから抽出される経営のキーワードを提示する。
~エピソードの紹介(丁稚奉公時代)~
まずは、塾主が人情の機微を体得したと考えられる、大阪船場での丁稚奉公時代のエピソードを紹介しよう。塾主は当時、まだ10~15歳である。
一つ目のエピソードは『タバコの買い置き』である。塾主は当時、客からタバコを買ってくるように頼まれることが度々あった。その度に手を洗い、タバコ店まで往復するのが面倒くさいと感じた塾主は、買い置きすることを思いつく。そうすれば、手間も時間も省けるし、客から依頼された時にすぐ渡すこともできる。さらに割安で購入できるため、幾分かの儲けもあった。これは客にも大変好評で、店主からも褒められたが、半年ほど経ったある日、店主から次のように言われたのである。[3]
「幸吉、あのタバコの買い置き、あれもうやめとき。はたのもんが何かとうるさい。ごちゃごちゃ言いよる。もちろんお客さんも大事やけど、店の中がしっくりいかんと困るさかいな。」[4]
二つ目のエピソードは『初めての自転車販売』である。塾主が13歳の年、五代自転車商会で一生懸命自転車の説明をする彼の姿を笑顔で聞いていた得意先のご主人が、買ってやるから一割引いておくように言った。当時の塾主は、初めて自力で自転車を売れたことが嬉しくて店主に報告するが、店主からは一割引きを認めてもらえず、悲しくて泣きだしてしまう。そんな彼の熱心さと純情に感動したご主人は言い値で買い、「君が五代自転車商会にいる間は、君のところから自転車を買おう」とまで言ったという。[5]
これら二つのエピソードについて、塾主は次のように振り返っている。「タバコで儲けたお金を出してみんなにおごったらよかったんですな。しかし、そこまで気づかなかった。」「(前略)人に迷惑をかけないからいいと思っているかもしれないが、近所の人はそうは思わん。生意気や、ぜいたくやということで、何かのときにしっぺ返しが来る。(中略)これが世の中というものやね。」[6]「商売というのは、単に物を売った買ったというだけのものではない。お互い人間同士が、誠心誠意、自分の仕事に打ち込んでいく熱意によって、心がふれあい、心がとけあっていく。」[7]これらの言葉から、「人情の機微」に通じる経営のキーワードが見えてくる。一つは、「嫉妬されないこと」。二つ目は、「誠心誠意」。そして「熱意」だ。塾主は丁稚奉公時代に、自分自身の実体験を通して、これらの要素を体得したのではないだろうか。
~エピソードの紹介(松下電器時代)~
次に、塾主が人情の機微を経営に活かしたと考えられる、松下電器時代のエピソードを紹介しよう。塾主が23~36歳の時である。
まず『ガラス張り経営』である。創業者である塾主は、松下電器の経営を、創業時からできるかぎり秘密を持たず、ありのままの姿を知ってもらうという方針で進めてきた。毎月の決算も、従業員から末端の“小僧さん”にいたるまで、全員の前で公開していたという。後年、塾主はこのことについて「そうすると、店員はみんな非常に明るい感じをもつようになった。そこに一つの喜びというか働き甲斐を感じてくれたのである」と述懐している。[8]
二つ目のエピソードも、創業当時のことである。当時の松下電器は、商品である碍盤やソケットに練り物を使用していたが、その製法を新しい従業員に教えるか否かで揉めたことがあった。その時代、工場では製法を秘密にすることが主流だったのである。しかし、塾主は「自分の工場で働いてくれるいわば仲間に対し、そのような態度をとってよいものだろうか」と考え、従業員たちにも適宜製法を教え、担当してもらうことにした。そのような塾主の行動に、同業者からは反対や忠告の声が挙がったが、塾主は従業員を信頼し、公開し続けたのだという。[9]
三つ目のエピソードは、1929年の世界恐慌の際の『生産半減、半日勤務』だ。世界的な大不況に直面した際の塾主の強い意志が次の言葉に表れている。「生産は即日半減する。しかし従業員はひとりも解雇しない。工場は半日勤務で生産を半減するが、日給の全額を支給する。」[10]
これらのエピソードに関連する塾主の発言を取り上げよう。「人間というのは、信頼して教えてやれば、むやみに裏切ったりするものではない。」[11]われわれ人間は、お互いに『飼い合い』をしている。(中略)まずは『相手の本質を知る』ことから出発していけばいい。」[12]「経営者と従業員の信頼関係を築くには、具体的に経営者が態度で示していかないと、いくら口で言ってもダメや。」[13]これらの言葉から、「人情の機微」に通じる経営のキーワードが見えてくる。一つは、「信頼」。二つ目は、「相手の本質を知る」。そして「行動で示す」だ。塾主は松下電器時代に、自分の決断によって従業員からの信頼を得られた実感があったのではないだろうか。丁稚奉公時代に客とのやり取りを通して学んだ「誠心誠意」や「熱意」は、この時代には従業員に対する愛情、信頼へと発展しているようにも感じられる。
~エピソードの紹介(パナソニック時代)~
最後に、塾主の部下が、塾主に対して人情の機微を感じたエピソードを紹介しよう。当時の部下たちが語る塾主のエピソードには様々なものがあるが、共通の要素が一つある。それが、「人の話をよく聞く」である。
元パナソニック社長の山下俊彦氏は次のように話す。「松下幸之助はどんな人の話も非常によく聞く。」[14]元松下電器産業技術顧問の唐津一氏も、「普通だったら聞かないような話でさえもよく聞いている。多くの人は、既に知っている話をまともに聞けない。(松下氏は)どんな人の話も熱心に聞く。」[15]と述べる。さらに、元パナソニック副社長の水野博之氏は、「幸之助さんについて最も印象に残っているのは、人の話を聞くときの姿勢です。(中略)人の話を聞くときは、何時間でも、どんな若僧の話でも、1時間でも2時間でも、ひざの上に手を当ててうなずいて聞いてくれました。これだけでみんなファンになるのです。」[16]と話す。
このような言動について、塾主自身が語った言葉も紹介しよう。「誰の言うことでも一応は素直に聞く。いいなと思ったら素直に取り入れて実行する。」[17]「人に対する思いやりというものが必要や。(中略)そういう思いやりを常にもっていないといけない。」「慈悲心がなかったらあかん。慈悲心を欠いたサービスは付け足しや。本当に人を動かすことはできない。」[18]これらの言葉から、塾主が「素直」「思いやり」「慈悲心」を心がけていたことが読み取れる。「本当に人を動かすことはできない」と述べているあたり、この頃には人情の機微とは何かを既に悟っていたのかもしれない。
前章では、塾主の「人情の機微」に関する様々なエピソードを紹介した。本章では、実際にどうすれば人情の機微を会得できるようになるのか、その方法について論を展開していく。塾主の著書を読み進めた結果、①自己観照と、②心眼をひらくの二点が要点になるのではないかと筆者は考える。
「自己観照」とは、おそらく塾主の造語であろう。塾主は次のような言葉で自己観照を説明している。「人間の心は伸縮自在である。まずは自分の心を使いこなすこと。自分を使いこなすことができないようでは、他人を使いこなすことなどできるわけがない。」[19]「他人に観てもらうより、自分で自分を観る。自分のどこがいけないかを自分で見つける。この自己観照が大切である。」[20]すなわち、他者の繊細な心の動きを理解し、そこに刺さる行動がとれるようになるには、まず自分自身の心を制御する必要がある、と読み解くことができる。塾主は別の場面においても、次のように述べている。「ぼくが言うこと言うても、その場で反対はしないけれども、ちっともついてきてくれない。なんでついてきてくれないのかと。それで自己観照をやった。そうすると、人がついてくるようなものを何ももっていないのやから、ついてこないのは当たり前やと、これではあかんということに気が付いた。」[21]このようにして、自分自身の欠点を見直し、自問自答することで、他者の心への理解も深まっていったのではないだろうか。
二つ目の要点が、「心眼をひらく」である。次の発言は、塾主が当塾の塾生に対して言葉を投げかける場面である。当時、塾生たちは販売店実習から帰ってきて、塾主に報告していた。「まずは肉眼で見えるものを見て、会得する。次に肉眼では見えないもの、精神的なものを見る。その見えないものをみるのが、心眼である。」[22]「自分で辛酸をなめてやってこそ、心眼がひらける。心眼がひらけると、どの言葉、どの人を信ずればいいかがわかるようになる。」[23]まずは目に見えることをしっかりとやること。その大事さを塾主は説いており、「結局実学が一番早い」とも述べている。
ここまでの話をまとめよう。「人情の機微」を会得するためには、①自己観照と②心眼が必要である。自己観照を通して、自分自身を見直し、人に慕われる人間に近づいていく。さらに、他者の繊細な気持ちへの理解が深まるともいえる。心眼をひらくためには、辛酸舐めるような苦難が必要だと塾主は言っている。そのような苦難は、誠心誠意や熱意がないと乗り越えられないであろうし、嫉妬される経験や、周囲がついてこない経験を通して、いくら口で言っても行動しなければ他者の心に響かないことに気付いていけるのではないだろうか。それらを経験して、他者からの信頼を得られる人間になることが、「人情の機微がわかる人間になれる」ということではないかと筆者は解釈する。第2章で挙げた9つの経営のキーワードは、自己観照と心眼によって、体得していけるのである。ここに、松下幸之助の経営の要諦があると言えるのではないだろうか。
最後に、塾主が塾生に直接伝えた言葉を引用して、本稿を締めくくりたい。「(前略)まず人間というものを、徹底的に理解しなければならない。(中略)羊飼いが『羊は犬のようなものである』などと思っていたら、これは必ず失敗します。羊飼いとして成功するには、羊の食物の好き嫌いから、もっと広い範囲にわたって、羊の性質を研究しなければならないでしょう。羊の本質というものを十二分に見極めて、そして初めて羊飼いとして成功するわけです。(中略)われわれ人間というものは、いわばお互いに飼い合いをしているわけですね。私は諸君に飼われているし、また諸君は私に飼われている。そういう飼い合いをしているのです。したがって、皆がお互いに『人間とはどういうものか』という人間の本質を知らなければならない。」[24]羊飼いは羊の性質を知っている。この言葉の言わんとすることを実感できるように、自己観照と心眼によって、日々研鑽し続けていきたい。
[1] 松下政経塾.リーダーになる人に知っておいてほしいこと.PHP研究所,2022,p.92.
[2]デジタル大辞泉
[3] 松下幸之助.わが半生の記録 私の行き方考え方.PHP文庫,1991,p.30.
[4] 谷口全平.松下幸之助の歩んだ道・学んだこと タバコの買い置き―世の中は自分一人ではない.月刊誌PHP 2007年6月号.2007,No.709,62-64.
[5] 松下幸之助.わが半生の記録 私の行き方考え方.PHP文庫,1991,p.30-32.
[6] 谷口全平.タバコの買い置き―世の中は自分一人ではない.月刊誌PHP 2007年6月号.2007,No.709,62-64.
[7] 谷口全平.松下幸之助の歩んだ道・学んだこと 初めての自転車販売-熱意が人の心を動かす.月刊誌PHP 2007年7月号.2007,No.710,62-64.
[8]パナソニックミュージアム
[9]谷口全平.松下幸之助の歩んだ道・学んだこと 製法を従業員に公開ー人間は信頼に値する.月刊誌PHP 2008年3月号.2008,No.718,62-64.
[10] パナソニックミュージアム
[11] パナソニックミュージアム
[12] 松下政経塾.リーダーになる人に知っておいてほしいこと.PHP研究所,2022,p.44-45.
[13] 松下政経塾.リーダーになる人に知っておいてほしいことⅡ.PHP研究所,2010,p.88-89.
[14] 松下資料館
[16] 松下資料館
[17] 松下政経塾.リーダーになる人に知っておいてほしいこと.PHP研究所,2022,p.25.
[18] 松下政経塾.リーダーになる人に知っておいてほしいこと.PHP研究所,2022,p.92-93.
[19] 松下政経塾.リーダーになる人に知っておいてほしいこと.PHP研究所,2022,p.114.
[20] 松下政経塾.リーダーになる人に知っておいてほしいこと.PHP研究所,2022,p.119.
[21] 松下政経塾.リーダーになる人に知っておいてほしいこと.PHP研究所,2022,p.121.
[22] 松下政経塾.リーダーになる人に知っておいてほしいことⅡ.PHP研究所,2010,p.34.
[23] 松下政経塾.リーダーになる人に知っておいてほしいことⅡ.PHP研究所,2010,p.53.
[24] イマジニア株式会社.“人間というものは、お互いに飼い合いをしている | 松下幸之助”.
テンミニッツTV. 2015-11-11.
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=1104 ,(2024-06-13).
Thesis
Kaori Yamashita
第45期生
やました・かおり
Mission
違いを受容し互いの可能性を最大限活かし合える社会の創造