論考

Thesis

松下電器創業からみる塾主の建塾理念

1.はじめに

 松下幸之助塾主(以下、塾主)の松下電器創業の歴史を顧みることで、その経験からどのように塾是・塾訓・五誓、特に五誓に繋がっていくのか、また起業家としての見地を現代にどのように活かすことができるのかを検討したい。

2.大阪電燈に入社

 明治43年、元々電車を見て新時代を予感し電気事業に興味のあった塾主は、大阪電燈に内線見習いとして入社した。当時、電気というものは電燈会社等、一部に企業や自治体が取り扱うもので庶民が扱うには難しく、怖いものだという考え方が非常に強かった時代だった。その中で、「電気」に目をつけた塾主は先見の明があることがわかる。
 わずか3ヶ月で担当者に昇格した。見習工と担当者は師弟のような関係で、羨望のポストだった。
 大正4年、見合いにて夫人となるむめの氏と結婚し、家族養うために仕事により熱心に取り組むようになった。このように順調に見えたサラリーマン生活だったが、健康に不安があり病院にたびたび通っている状況であった。
 大正6年、工事担当者から工事人の目標である検査員に最年少で昇進。検査員の仕事は製品の良否の検査を行うだけの、責任はあるが楽な仕事でした。午前中に仕事が終わり、残りの時間は雑談をしているだけという日も多くあった。
 一方、塾主は検査員に昇進前からソケットを改良してみたいと考えていた。そして試作品を苦心して作ったが、それを上司の主任に見せたところ使い物にならないと酷評された。自信があったばかりにショックは大きかった。また同時期に肺尖カタルの症状の診断を受け、健康不安も重なった。
 いくつもの悩みが重なる中、日が経つにつれて検査員の仕事に何か物足りなさを感じ始める塾主はソケットを開発したい、という思いも強くなっていった。
 そんなとき、給仕になることを反対し、「実業で身を立てよ」と言った父の言葉を思い出した。そして、「もしだめだったら、その時はこの会社へ帰って、生涯忠実な従業員として働こう」と決心し、会社に辞表を出し独立に至った。

3.大阪電燈退職、そして起業

 起業の始まりは手元にある100円(現代の価値に換算すると40万円)にも満たない資本金だけを用意し、婦人(むめの)、夫人弟の3人のみで大阪市東成区猪飼野の借家を工場だった。
 塾主が起業したことを聞きつけた大阪電燈時代の同僚、林君、森田君の2人は「松下君がやるなら、われわれも手伝おう」と仲間に加わってくれた。このように、塾主の人柄、人徳により人が集まってくれたことは、塾主にとって一つの成功体験となった。このことからリーダーに求められる資質として、常日頃から素直な態度を示し、人々を惹きつけることが大切であるとわかる。これは、松下政経塾の塾訓の「自主自立の事」に繋がってくるのではないかと考えられる。
 はじめに取り組んだことは練物の調合の研究であった。知識が全くないところから、煉物工場をたずねては研究を繰り返し、ついに4ヶ月後に待望のソケットを開発することに成功したのであった。
 ソケット完成も販売ルートも値段の付け方もわからない中、町中の問屋へ営業しに回った。現代ならECサイトやフリマサイト等で、インターネット上での営業販売が可能であるが、当時はそういったツールは存在せず苦心することとなる。結局、ソケットは100個しか売れず、事業は失敗に終わったのであった。「今まで見たことない。故障したら誰がなおすのか」「あんたの会社は聞いたことがない」これらが売れない理由であった。資金は底をつき生活は困窮し、林君と森田君は他の会社に就職することとなり仲間から離れることとなる。
 仲間を失い、また工場は3人だけとなったが、塾主は今後どうなろうと辞める気にならなかった。塾主と夫人の着物を質屋に入れるほど生活が困窮しても事業を継続した。
 ある日、扇風機の碍盤1000枚の注文を受けることになった。陶器製の碍盤が壊れやすく、煉物製にしたいという要望であった。制作した製品は評判もよく160円売り上げ追加注文も得ることができた。意外な方向ではあったもののこの事業がうまくいき、塾主は電気器具制作に本格的に取り組むこととなった。[i]
 この時のことを塾主は振り返り「辛抱しているうちにたとえそのことが成り立たなくとも、周囲の情勢が変わってきて、そこに通ずる道ができるとか、またその辛抱している姿に外部からの共鳴、援助があるとかして、最初の計画とは大いに相違しても成功の道に進み得られるものであると思う。」[ii]と述べている。事業を成功させようとする強い理念をどんな苦悩があろうとも貫き通し成功させた。また給仕を辞め独立し自らの力で事業を行い、試行錯誤を行うことで成功の道を切り拓いた。このことから、これは松下政経塾の五誓における「素志貫徹の事」、「自主自立の事」につながると考えられる。

4.松下電器創業

4.1. 初めての製品「アタッチメントプラグ」と戦後恐慌への対応

 大正7年、大阪市北区大開町1丁目の借家に移転し、松下電気器具製作所を創立した。
 初めに取り組んだ製品は、アタッチメントプラグであった。市場よりも3割ほど安く販売することで大変よく売れ、次に「2灯用差込みプラグ」も作成し、これもまた安く販売し成功した。この販売手法から松下電器は良いものを安くつくるということで評判となる。
 大正9年、石清水八幡宮に参詣したときにもらった破魔矢を見ていて、松下電器の商標を「M矢のマーク」とした。「どんな障害をも突破し、目標に向かって突き進もう」という願いが込められている。[iii]
 この年、第一次世界大戦終結の反動で戦後恐慌と呼ばれる不況の状態に陥っていた。多くの企業は倒産し、失業者が大量に溢れた。塾主は「歩一会」を結成した。「松下電器が将来発展していくためには、全員が心を1つにしなければならない」[iv]という考えのもと歩一会は結成された。従業員の精神指導、福祉増進、親睦慰安などを目的に、運動会や演芸会などの行事を催して、全員の一致団結を一層強固にする上で大きな役割を果たした。この経験から、五誓「感謝協力の事」へつながったと考えられる。

4.2. ランプの開発と関東大震災への対応

 大正12年、砲弾型電池ランプを考案した。これは、当時電池式ランプの寿命が3時間ほどであったのにも関わらず、約10倍の30時間から40時間も点灯する画期的な製品であった。しかし、その機能が伝わらずどこの問屋も取り扱ってくれなかった。悩んだ末、直接小売店に無償で商品を提供し、実際に点灯試験をした上で、結果が良ければ買ってもらうことにしたのだった。そのために1万個ばら撒けば、反響はあるだろうと覚悟した。これは、当時の金で1万5、6,000円余りになる。これが失敗に終われば工場はつぶれるという大きなリスクを伴った売り出し方であった。
 この社運をかけた実物宣伝が効を奏し、ランプの機能を評価した小売店から次々と追加注文が入って、2、3カ月後には月2,000個も売れるようになった。この時期に関東大震災発生した。関東圏の取引先が壊滅し、東京出張所も一時閉鎖することとなった。
 この危機を乗り切るため、また大阪以外の全国的な拡売を目指し、代理店制度を導入した。実際に奈良、名古屋等への拡売に成功したものの様々な問題が生じることとなった。
 大正13年松下電器よりも規模の大きい山本商店と代理店契約が結ばれる。しかし、山本商店から区域外の地方にも製品が流れ始めその区域の商店たちから苦情が来るようになった。[v]
 これを重く受け止めた塾主は、代理店会議を開いたが、山本店主は「解約料2万円」か「販売権の譲渡」の二択を迫ったのであった。その信念を持った態度に感服し、販売権を譲渡することにした。
 塾主は店主の態度、気風等に影響を受けたと述べている。この件では塾主にとって苦い経験であるはずだが、そこからでも商売人としてのあり方を学ぼうとする姿が窺える。ここから、「何事からも学びを得よ」という教えである、五誓「自主自立の事」に繋がったと考えられる。その後、塾主と山本店主とランプが流行品か永久的実用品かで意見が分かれ、販売権を1万円で買い戻すこととした。[vi]

4.3. スーパーアイロン開発と世界恐慌への奇策

 昭和2年、角型ランプを開発。国民の必需品となるようにと願いを込め「ナショナル」と名付けた。同時期、スーパーアイロンの開発にも着手。当時高級品であったアイロンの製造コストを抑え、また大量生産をすることにより安価なアイロンを製造販売、一般中流家庭への販売に成功した。

 昭和4年、世界恐慌による工場閉鎖や大量のリストラが社会的な問題となる。松下電器も例外ではなく赤字が続き在庫が溜まっていくばかりであった。幹部からも、塾主へ従業員を半減するように進言があった。しかし、不安がる従業員たちに「1人も解雇しないこと、給与も下げないこと」[vii]を宣言した。代わりに生産を半減にし、余った時間とリソースを在庫販売の営業に回すことに決めた。従業員たちの士気が上がり、在庫の完売は成功したのであった。思わぬ奇策で困難を乗り越えた。[viii]
 昭和6年、当時壊れるものと考えられていたラジオに不満を持ち、「壊れない」ラジオを開発することに取り組んだ。開発した商品はヒットし、音響業界にも「松下」の名が広がった。塾主はラジオの特許を無償で公開した。これによりラジオは全国区に拡大した。[ix]

5.おわりに

 塾主の電燈時代から起業、創業へとの変遷を見てきた。この時期にはまだ塾主は経営の理念というものを確立していたわけではないが、すでに経営の要諦を掴み実践し会社を大きく成長させることができた。また、逆転の発想や奇策で大きなリスクを成功に繋げる姿から今でいうベンチャー起業家としての気概を学ことができた。塾主が自らの意思で、独立を決意していなければ、今のパナソニック、松下政経塾、そして日本の姿は存在していなかった。塾主は自らの起業家としての生き様から、松下政経塾の五誓「先駆開拓の事」の発想につながっていった。このように塾主は起業家としての経験を通して得た要諦を五誓にまとめ、それを通し松下政経塾の塾生たちに伝承しようとしたと考えられる。我々塾生は国家経営の実践者としてその意思を引き継がなければならない。[x]

参考文献引用

[i] 松下幸之助「私の行き方 考え方―わが半生の記録―」(PHP文庫、1986年)p.72

[ii] 引用:「若さに贈る〜松下幸之助からのメッセージ〜https://holdings.panasonic/jp/corporate/about/history/panasonic-museum/konosuke/archives/20210212.html」(パナソニックミュージアム)

[iii] 松下電器産業株式会社「松下電器五十年の略式」(日本写真印刷株式会社、1968年)p.43

[iv] PHP総合研究所研究本部「松下幸之助発言集」編纂室「松下幸之助発言集22」(PHP研究所、1992年)pp89-90

[v] 松下電器産業株式会社「松下電器五十年の略式」(日本写真印刷株式会社、1968年)p.55

[vi] 松下電器産業株式会社「松下電器五十年の略式」(日本写真印刷株式会社、1968年)p.59

[vii] 引用:「パナソニックグループhttps://holdings.panasonic/jp/corporate/about/history/konosuke-matsushita/044.html」(パナソニックミュージアム)

[viii] 佐藤忠「松下幸之助の人間哲学-無駄な社員は一人もいない-」(致知出版社、2000年)p.41

[ix] PHP総合研究所「エピソードで読む松下幸之助」(PHP新書、2009年)pp95-96

[x] 松下幸之助「松下幸之助の哲学」(PHP、2002年)p270

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桶屋誠人の論考

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