Thesis
はじめに
世界に類を見ない驚異的なスピードで高齢化の進む日本。来るべき超高齢社会への対策が盛んに叫ばれている。特に日本より先に高齢社会に突入し、現在ハイレベルな高齢者福祉、医療制度を持ち、「福祉国家」とよばれる北欧諸国には昨今、日本の政治・福祉関係者が大挙して視察に訪れ、そのすばらしさを具体的に日本の福祉レベルと数量などを比べながら紹介している。
実際私も5月に、デンマークを訪れ、世界最高水準といわれる福祉サービスの実態をみてまわった。老人福祉サービスにおいても、完全個室の老人ホーム、高齢者住宅、充実したホームヘルプサービス等、確かに日本のレベルとは雲泥の差がある。そしてデンマークでは、福祉だけでなく、医療、教育その他、国民の生活に関わることすべてに保障が行き届き、子供からお年寄りまですべての国民が安心して生活することを保障されている。
しかしここで考えなければならないのは、なぜデンマークでこのような充実したサービスが行えるようになったのかということである。いくら現状のすばらしさを日本に紹介し、数だけをデンマークに学ぼうとしてもそれはとうてい不可能な話である。ハイレベルな福祉や医療というものはあくまで木で例えるならば枝になる果実のようなものではないだろうか。そこには幹や根や種があることを忘れがちになる。安心して暮らすことのできる社会システムを本当に求めるなら、私たちがどのような考えを持つ必要があるのかということを考えなければならない。
今回デンマークを訪れてみて、福祉国家(生活大国)デンマークと日本とはなにが違うのかを考えてみた。
生活大国デンマーク
デンマークは人口約520万人の立憲君主国家である。面積は4万3千平方キロメートルで面積は九州地方、人口は兵庫県とほぼ同規模。国土は平坦で、一番高い山でも174メートルしかない。農業国といわれるが、農業に従事している人は国民の6%以下。日本には豚肉や乳製品を輸出していて、ヨーロッパ諸国の中で唯一、対日貿易が黒字の国である。
65歳以上の高齢化率は1990年には15.6%だったものが、2000年には15.2%、2010年には16.5%、2020年には19.5%と予測されている。平均寿命は1995年の時点で男性72.5歳、女性77.5歳である。
アメリカのペンシルバニア大学のRichard Estes教授が、「世界で一番住みやすい国~生活大国~はどこか」と教育、文化、社会福祉、等の各方面に渡って調査を約20年間行った結果を1995年に発表した。その結果第1位はデンマークであった。(ちなみに上位はほとんヨーロッパが占めていた。2位ノルウェー、3位スウェーデン、4位オーストリア、5位オランダ。日本は14位、アメリカは18位)
具体的に生活大国とはどのような国なのか。デンマークの場合、医療費、大学までの教育費は無料ですべて税金で賄われている。67歳以上は全員年金がもらえ、公共施設なども無料で使用できる。実に国家予算の80%までが教育、社会保障など国民の生活に関わるものに使われる。まさに「ゆりかごから墓場まで」が実現された国だ。
なぜ生活大国に
ではなぜデンマークでここまで国民の生活というものが保障されているのか。まず考えられるのは「おかみからあたえられた」ものではないかということである。つまり政府による強引な制度の押し付けである。日本でも北欧型の福祉制度は「高福祉高負担」でなかなか国民の同意を得られないのではと反対する人は多い。実際にデンマークでいろいろな人に「税金が高いのは負担になりませんか」と尋ねた。しかしほとんどの人は税金が高いのを認めてはいるものの、「生活が保障されているから何ともない」と答えた。デンマークでは「高福祉高負担」とはよばずに「高福祉高税」とよぶらしい。そして若者のなかにも「デンマークの福祉制度は最高だ」と自慢げに語る者もいた。つまりこの「高福祉高税」は社会全体の合意として、国民の側から望んだものであるのだ。
「国民の望むことが社会政策に活かされる」当たり前のようで、日本においてはなかなか実現できない。たとえば広島市が住民意識調査として1996年に市民11000人に対して行ったアンケートでも、「市政に1番力を入れて欲しいもの」は「高齢者のための福祉」で、実に41.2%であった。福祉の充実が盛んに叫ばれてはいても、そのスピードは依然として上がる気配を感じない。その理由はなぜか。ここで上がってくるのが政策を決定する政治の在り方である。時代の変化に応じて、社会システムをつくりかえるのは、政治の役目である。
政治の在り方として、デンマークが日本と明らかに違うのが「徹底された地方分権」「成熟した民主主義」ということであった。日本でも地方分権ということがよく言われている。中央政府ではなく、身近な地方自治体が権限を持つことが、その地域のニーズに応じた良質の福祉・医療サービスを効率的に提供するために必要不可欠である。さらに、権限を身近におろすことにより、地域住民の声がますます政治に反映され、効率的な行政が行われる。しかし、逆に言えば、政治に関心の高い地域の住民サービスは充実するが、政治に関心の低い地域の住民サービスは、どんどん低下する。民主主義が成熟していないと地方分権は危険なものとなる。
デンマークにおいては、住民の政治に対する関心が非常に高い。私が今回訪れたまちの一つボーゲンセ市。人口6000人の小さなまちであるが、昨年行われた、市議会議員選挙は投票率が90%にも達し、定数15人に対して80人もの人が立候補した。政治を自分のこととして真剣に考えている。
成熟した民主主義社会を築くための教育の在り方
今回デンマークを訪れてみて思ったことは、デンマークから学ぶべきものは、福祉そのものというよりは、その福祉を築き上げた分権的政治、そしてそのために必要不可欠な成熟した民主主義というこであると痛感した。
ではなぜここまでデンマークに民主主義が根づいているのか。民主主義の柱となるのが「自由」「平等」「連帯」「共生」という考えである。この民主主義の柱となる考えがきちんと国民の意識の中に根づいている。日本でも戦後、民主主義社会が目指され続けたが、日本人の中に本当に民主主義が根づいているのか疑問を持たざるを得ない。ではこの意識はどこで得られるのか。教育によって得られるのではないだろうか。デンマークでは特に教育のなかで「平等」ということに重点が置かれている。
日本とデンマークの教育方針には明らかな違いがある。デンマークにおいては義務教育段階で人との差、競争というものを学ばない。デンマークでは、各人の能力に応じて異なる教科書を使い、試験、成績表というものがない。そのため子供の段階で人と競うという感覚が起きず、自由で平等な感覚が培われていく。
一方日本の教育は小学校1年生から全員が同じ教科書を使い、一斉にスタートをきる。そして授業について行けなくなる子供が次第に脱落していく。また体育や図画など、もともと個人差や、感受性などが重要であり、評価のつけようもないものにまで、成績をつけ、知らず知らずのうちに「他人よりも」と競争心がわき、平等性を欠いた教育となっている。
そして高校に進学する場合も、本当に高等教育を学びたい人だけ(全体の30%から40%)が進学するが、日本のように、高校だけは行っとかなければという感覚もおきない。
真の平等とはそれぞれの個性にあわせて公平にするということである。例えば知的障害児に教育を受けさせる場合、普通の学校に入れ、その子がたとえ試験で0点を取り続けたとしても「他の子と同じ教育を受けさせているから平等だ」というのは間違った平等である。その子の個性にあわせた教育をすることが必要である。
日本ではこのようにそれぞれの個性を無視し、とりあえず一緒にすれば平等だという感覚が強い。高校もぜんぜんレベルの違う高校をでても、学歴としたら同じ高卒となる。教育内容は競争心をあおっておいて、その後にうわべで平等を叫んでも、本当の意味での平等意識、共に助け合う意識はうまれてこない。
日本が成熟した民主主義社会となり、これまでの経済大国から生活大国へと転換するには、教育の在り方から根本的に考え直す必要があろう。
Thesis
Shinji Morimoto
第18期
もりもと・しんじ
参議院議員/広島選挙区/立憲民主党