Thesis
約1年月例報告を書き続けてきたが、その中で、終始一貫して意識し続けてきたものが、松下幸之助塾主のいう「素直な心」であったことはいうまでもない。これについては他の塾生においても同じであろう。そこで、ここでは1年間の成果の集大成として、このことについての自分の考え方をまとめておこうと思う。
先月の月例で、私は次のように述べた。以下、抜粋する
例えば、仮に今素直な心で物事を見て衆知を集めたとする。じゃあそしてその後どうするのか?政治を知らない人、あるいは評論家ならばその中で好きなことをいっていれば済むのかもしれない。しかしながら政治家であれば、その次に「それらの中からどれを選択するべきか」という大変な難問が待ち構えている。選択するにはどうすればいいのか?そのためには大まかな「基準」というものが必要である。という風に、ここまで論を突き詰めなければ現実世界では全く意味をなさない議論に終わってしまうのである。
さらに、以前アソシエイトの時、朝の所感では幸之助塾主について以下のように述べた。
「素直な心で衆知を集めるといっても、塾主はそれら全てを実行したのではない。自らの信念に基づいて、あるものは自分の心の引き出しにしまっておき、あるものは即実行したというように、そこには「信念」という一つの基準が厳として存在する。しかしながら、間違ったことに信念をもっている人ほど始末におけないものはない。塾主はその信念が正しかったということだろう。では正しい信念とは何かというと自分も良くわからないが、その信念が自然の理法にかなっているということではないか」
しかしながら、自分自身このように「実際に判断する時の基準」ということの重要性を述べながらも今一歩釈然とくるものがなく、様々な現場でもまれながらいったいなぜなのだろうかと自問自答し続けていたような気がする。
ところが、先日何気なしに江口克彦氏の書かれた「成功の法則(松下幸之助はなぜ成功したのか)」を読んでいたところ、このことに対する明確な答えが見事に記されていたことに私自身驚きを禁じ得なかった。これは他の塾生にとっても参考になると思われるので、以下、抜粋する。
- 補章「松下幸之助は何を基軸に考えたのか」(277ページ)
- ・・・・・・松下幸之助の「考える作業」の座標軸には、横軸と縦軸があった。そういった思考の座標軸について語るのを一度も耳にしたことがないから、自然に体得されたもので、おそらく本人はあまり意識していなかったのだろう。しかし、松下の、経営論から宇宙根源論までいろいろ話を長時間聞き、原稿を読みながら、常に「何か貫かれたもの」「思考のものさしのようなもの」が感じられた。それが横軸と縦軸の、二つの思考軸ではないだろうかと最初に感じたのは「人間を考える」という著作の仕上げを手伝ったときであった。
- ・・・・・・横軸とは「多くの人たちの知恵を集める」という思考軸である。・・・人間のあらゆる不幸や失敗は「一つの思想、一つの考えだけを絶対に正しいものと考え、他を非難排撃する姿」から生まれてくると繰り返し強調した。また、松下は、その使い方の心得も強調してやまなかった。衆知を集めるときに心がけなければならないのは「素直な心」だというのである。・・・衆知が「叡知」になるためには、素直な心が必要条件であり、従って衆知は素直な心によって初めて有効になる。
- ・・・・・・しかしながら、松下幸之助はこうした横軸の考える作業だけで十分であるとは必ずしも思っていなかった。もし衆知を集めることだけが唯一の思考軸であるとするならば、たまたま質の不十分な知恵しか集まらなかったり、あるいは偏った知恵ばかり集めてしまった場合には、その作業によって創られた新たな知恵を、正しい知恵とは言い切れないのではあるまいか。だから、松下幸之助は、横の思考軸を重視しながら、同時にもう一つの思考軸を持っていた。
- それは、人々の知恵を集めるという横軸に対して、縦軸ともいえる「自然の理法との照合作業」(すなわち「天地自然のなかから真理を見出そうとする思考軸」)である。
・・・そうして凝視していった自然の中から宇宙の「根源」の存在を感得したのである。
・・・・・・松下の表情、雰囲気、また表現の柔らかさとはうらはらに、その考えや意見に確固たるものが感じられるのは、その二つの思考軸から導き出しているのだという「無意識の信念」があったからではないだろうか。
私は最初この文章を読んだ時、今までの疑問がまさに一気に氷解したような気がした。我々は、素直な心というと、すぐ「衆知を集める」ということだけに気が向きがちなのではないか。しかしながら、江口氏自身述べているとおり、それだけでは絶対にうまくいかないのである。
なぜ宇宙というものは存在するのか。なぜ人間は生まれてきたのか、その目的とは何か。大自然に宿る、その峻厳犯すべからざる法則とは何なのか・・・塾主は夜寝付けないことが多く、その度にこういったことをよく考えていたというのは有名な話である。それがあの大著「人間を考える」の中で、一つの宇宙観として結実したのであろう。悲しいかな、我々は「素直な心で衆知を集める」ことにばかり力を注ぎがちで、その後は独断と偏見に満ちた勝手な「信念」で自らの考えを構築する、といったパターンに陥りやすい。
宇宙の根源、大自然の法則、人間の生まれながらに持った目的・・・こういった哲学的思索を、塾主自身日常の仕事の中で、あるいは寝床の中で実践していったのであろう。「素直な心」とは、単に衆知を集めるための心がけということだけではない。我々が自然の理法を想うときにも「素直な心」でなければならず、さらにこれを縦軸として判断の基準としなければならない、ということなのである。我々にとって盲点となりがちな、しかも決定的に重要であるという点で、味わうべきものが多分にあるのではないか。
以上
Thesis
Kenichiro Oku
第20期
おく・けんいちろう
一般社団法人ハートリボン協会理事