論考

Thesis

江戸幕末期の教育 ~寺子屋教育の考察~

識字率50%にも達していたといわれる江戸幕末期日本。当時の教育環境を概観するとともに、その高い教育水準を支えたと考えられる寺子屋教育のあり方について探求する。現代に生きる我々が寺子屋教育にみる真髄とは何か。教育的観点から近現代史を考察する歴史観レポート書き下ろし第一弾。

1. はじめに

本レポートは、近現代史<黒船来航(1853)からサンフランシスコ講話条約(1951)>の中からテーマを設定し、史実に基づき考察する「歴史観レポート」である。今回よりシリーズで執筆していくわけであるが、考察対象がまさに激動の1世紀であり、論点は枚挙にいとまがない。そこで、私自身の主たる研究テーマである教育分野を切り口として、順次、時代を追っていくことにする。以って、終始一貫した観点から時代を見つめ、それぞれにおいて着目した題材を取り上げて考察するものである。初回となる今回は、江戸幕末期に焦点をあて、その時代の教育について考察する。当時の教育環境を概観した上で、とりわけ、江戸幕末期日本の高い教育水準を支えたと考えられる、寺子屋教育のあり方について探求してみたい。そこから現代の教育に対する示唆を得ることができれば幸いである。

2. 江戸幕末期の教育環境

歴史資料に基づいて江戸幕末期の教育環境を紐解いていくと、様々な教育機関の存在を見て取ることができる。ここでは、江戸幕末期の日本における教育環境の全体像を把握すべく、教育機関を経営主体別に概観することにする。

第一に、幕府の官立教育機関たる昌平坂学問所(昌平黌)が挙げられる。これは、江戸幕府が幕臣の子弟を教育するために設置した、儒学教育を中心とする幕府直轄学校である。寛政の改革以降、昌平坂学問所は朱子正学の方針を堅持し、江戸幕末期にかけて、旗本・御家人の子弟のみならず、諸藩からの留学生も多く学んだとされる。

第二に、諸藩に設立された教育機関たる藩学(藩校)が挙げられる。18世紀以降、多くの藩において藩士子弟の教育のために設立された藩学は、朱子学を主とする儒学の講義や武術を授けるものが大半であった。後には洋学や国学も取り入れられ、年齢や学力に応じた学級制も行われたとされる。また、城下町を離れた土地にも、藩の援助を受けて、藩士や民衆の教育を目指す郷学(郷校)が設置された。

第三に、民間において設立された教育機関たる私塾が挙げられる。武士・学者・町人によって開かれ、儒学や国学・洋学などが講義された。この私塾は、藩校と寺子屋の中間的な存在であり、一部藩の支援を受けて家塾と称したものもある。全国で一時期は約1500も存在したといわれ、その経営母体や講義内容は多様であった。

第四に、庶民の初等教育機関たる寺子屋が挙げられる。江戸では手習所と呼ばれていた。この寺子屋は、村役人・神職・僧侶・裕福な町人などによって経営され、読み・書き・そろばんなどの日常生活に役立つ教育を行い、道徳を教えたとされる。19世紀に入って天保時代から急増し、江戸幕末期には全国で15,000以上も存在したといわれる。

以上の通り、江戸幕末期の教育機関を経営主体別に概観すると、官主体の昌平坂学問所と藩学・郷学、民主体の私塾と寺子屋の存在を見て取ることができる。なかでも、民主体の教育機関たる寺子屋の設置数は群を抜いおり、且つ、それらが日本各地に満遍なく設置されていることから、江戸幕末期の日本に広く教育が普及していた様子が窺える。

そのような教育環境もあって、当時の日本の識字率は、50%にも達したとされる。同時代のアメリカが20%、ロシアが10%であることを考えると、極めて高い教育水準を誇っていたことが分かる。これを成し遂げるためには、官主体の教育機関のみではおよそ不可能であった。すなわち、ここに、庶民の教育機関たる寺子屋の果たした役割が極めて大きいといえるのである。そこで、その寺子屋教育に着目して、考察を深めることにする。

3. 寺子屋の教育

江戸幕末期日本の高い教育水準を支えたと考えられる寺子屋とは、一体どのような存在だったのだろうか。ここでは、寺子屋教育について、その成立背景・運営形態・教育内容という3つの切り口から考察し、全国15,000以上の設置にまで拡大した要因を探る。

第一に、寺子屋の成立背景について考察する。R.P.ドーア『江戸時代の教育』によれば、庶民にとっての寺子屋の成立にあたっては、『一部には慈善の動機によるものもあったが、大多数は経済的要請から発展した』ものであるとされる。すなわち、親が子に家業を継がせるため、それに必要な訓練を施さなければならなかったが、親は自らの家業に手一杯で、子の教育に十分な時間を割くことが困難であった。そこで、そのような訓練を職業的教師に委託するという形が生まれた。これが、寺子屋成立の原型である。それ故、寺子屋では、いわゆる「読み・書き・そろばん」の手習いや、封建社会で庶民が生きていくのに必要な知識や生活の知恵など、極めて実用的な職業教育がなされたのである。このように、寺子屋の成立背景には、主に経済的要請を見て取ることができる。

第二に、寺子屋の運営形態について考察する。寺子屋の運営形態は実に多様であったといわれるが、3つの類型に大別することができると考えられる。第一の運営形態は、教師の自発的な善意・使命感に基づくものである。慈善の動機から教育を行う者は農村に多く、その主体は僧侶や医者、あるいは裕福な農民や村の役人などであった。第二の運営形態は、組織・共同体の出資に基づくものである。これは、任意の組織・共同体が協同事業として基金を確保し、授業料を支給して教師を招聘するものである。第三の運営形態は、個人の生計手段としての動機に基づくものである。何らかの身体障害をもった医者、僧侶、浪人、農夫等が公然たる生計補填の手段として生徒を取ることも多かった。以上の通り、寺子屋の運営形態には、大きく3つの類型を見て取ることができる。但し、いずれの形態にせよ、寺子屋教師の得た収入は寸志程度であったことに変わりはない。

第三に、寺子屋の教育内容について考察する。寺子屋教育の基本は、その成立背景からも明らかなように、「読み・書き・そろばん」を中心とする単純な手習いの稽古を徹底することであった。現存する江戸時代の教科書は7,000種類以上にも及び、その内容も多岐にわたることから、同じ手習いの稽古でも様々な教え方がなされていたと考えられる。特筆すべきは、寺子屋が単に手習いを教える以上の機能を発揮したことである。それは、一部には道徳的な叱責、一部には「書初め」の格言や名句、また一部には手本の内容においてであった。これらの要素は、『江戸の平民社会において他人から尊敬される成功者と失敗者との差を決定づける、道徳律と世渡りの知恵を反映していると共に、それをまた次の世代に伝える役割を果たしてもいた』とR.P.ドーアは指摘している。

以上を総括すると、寺子屋とは、主に親が子に家業を継がせるための職業訓練の委託という経済的要請を背景として成立し、慈善的運営・協同出資運営・生計補填的運営などによって、実用的な手習い稽古をはじめ、道徳や処世について教えられた教育機関であったことが窺える。かくして、社会的需要に応える形で、江戸幕末期に寺子屋教育は急増した。一方、教師にとっては生活の足し程度の寸志ながら、全国に15,000以上もの寺子屋が生まれた背景には、寺子屋教師が人別帳に「手跡指南」などの知的職業として登録され、生徒には師匠として、地域には知識人・有識者として尊敬されるという、精神的価値に満足感を見出す価値観が存在していたであろうことにも着目すべきであろう。

4. 江戸寺子屋の教育

前項で考察した通り、基本的手習いを教える寺子屋が全国各地に設立されたことにより、江戸幕末期日本の教育水準が飛躍的に高められたことは疑う余地がないであろう。そこで、本項では、そのような大きな役割を果たした寺子屋教育の実情について考察を深めるべく、江戸寺子屋の教育に着目して、その教育観・教育課程を辿ることにする。

江戸寺子屋の教育観は、「三つ心、六つ躾、九つ言葉、文十二、理十五で末決まる」という諺にみられる段階的養育法に基づいている。すなわち、人間の成長段階に相応した養育を肝要とする明確な教育哲学のもと、寺子屋の教育課程が展開された。

人間は「脳・身体・心」の三つから成り立ち、心こそが脳と身体を結び操る要であるとの認識に基づき、3歳までに脳と身体と心の関係を悟らせ、心の重要性を実感させることを養育の旨とした。それ故、まずは親のしぐさ・行動を見習わせることが肝要であるとした。6~7歳になると、寺子屋では、自発的に師匠・親・兄弟姉妹・世間を見つめ見取るように仕向け、観察力・洞察力を涵養、9歳までには、公的挨拶の習得を目指し、立居振舞を体得させた。8~9歳では師匠の口真似、10歳には説教の内容の咀嚼が目安とされた。12歳頃には、一家の主の代筆を担える程度の事務作業能力を目指し、15歳頃には、経済・物理・科学など森羅万象を実感として理解できるようになることを想定して指導にあたった。

以上より、江戸寺子屋教育の特徴を総括するならば、それは、「段階的養育法に基づく、理論と実践を融合した総合人間教育」とでもいえるであろう。とりわけ、寺子屋の師匠は子どもの真の個性や得手不得手を見抜き、年齢でその子の適材適所を心得て、子供の将来に相応しい道を示唆したとされることから推測できるように、寺子屋教育において師匠の果たした役割は極めて大きいといえる。

5. 寺子屋教育に学ぶ真髄

ここまでにおいて、江戸幕末期の教育環境を概観し、寺子屋教育の一般的考察を深めた上で、具体的事例として江戸寺子屋の教育について考察した。本項では、この寺子屋教育に学ぶ真髄と題して、寺子屋教育から現代に活かすべき視点について考察する。

第一に、明快な教育観の重要性である。江戸寺子屋の教育観においては、段階的養育を基本とした教育哲学のもと、教育の目指すべき全体像をもっていた。そのため、その教育哲学と教育像に照合して、一貫した学習指導を実現することができたと考えられる。現代における教育観の根本は、確かに、憲法や教育基本法に明示されている。しかしながら、それらは「個人の尊厳」「人格の完成」など、極めて抽象的なものであり、政府の示す教育目標も羅列的で全体像が見え難い。現在、教育基本法改正の議論が進められているが、人を創る教育であるからこそ、多様性を認めつつも、明快な教育観が求められよう。

第二に、理論と実践を融合した総合学習の重要性である。手習いを中心とする寺子屋の基礎教育は、実社会での実践を想定した教育であったため、単なる知識の習得ではなく、まさに体得が求められた。それ故、絶えず理論と実践が繰り返され、その延長線上に真の体得があったのである。現在の教育をみるに、受験のための机上学習はおよそ実践的活用とは縁遠く、机上の理論に偏ったものと言わざるを得ない一面は否めない。決して受験を否定するものではないが、何のための教育・学習なのかを見つめ直し、理論と実践の双方に基づく学習の実現について考え直す余地は大きいと考える。

第三に、道徳に基づく全人格的教育の重要性である。前項で考察した通り、江戸寺子屋では、人間は「脳・身体・心」の三つから成り立っているとする認識のもと、心の大切さを説いたとされる。すなわち、寺子屋教育では、単なる技術習得だけなされたのではなく、道徳的価値観の涵養が十分に取り入れられていたのである。現在の教育環境では、人間とは如何なるものか、世界とは如何なるものか、人間は如何に生きるべきかといったことを考察する道徳教育機会が希薄であると思われる。生き方に迷う若年層の増加の一因もここにあると考えられ、今こそ、道徳に基づく全人格的教育に着目すべきであろう。

以上3点について考察したが、寺子屋教育に学ぶべき真髄は極めて多い。現代に生きる我々が、このように寺子屋教育を考察し、現代に活かす示唆を獲得することができるのは、歴史がもたらす大いなる遺産である。ここで得られる示唆を実践に結実させるべく、さらなる研鑚を目指して、本論の結びとしたい。

[参考文献]
『詳説日本史』 (山川出版社)
『新詳日本史図説』 (浜島書店)
『人をつくる教育 国をつくる教育』 小室直樹、大越俊夫(日新報道)
『江戸時代の教育』 R.P.ドーア(岩波書店)
『江戸の繁盛しぐさ』 越川禮子(日本経済新聞社)
『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』 越川禮子(講談社)

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谷中修吾の論考

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Shugo Yanaka

谷中修吾

第24期

谷中 修吾

やなか・しゅうご

ビジネスプロデューサー/BBT大学 経営学部 教授/BBT大学大学院 経営学研究科 MBA 教授

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