Thesis
教育的観点から近現代史を考察する歴史観レポート第三弾。1890年に教育勅語が発布されてから1912年に明治時代が終焉を迎えるまでの二十余年間-明治時代後期-に焦点を絞り、その時代における日本の教育環境が如何なる推移を経たのかについて考察する。
近現代史の中からテーマを設定し、史実に基づき考察するこの「歴史観レポート」において、私自身は教育的観点から時代を追っていくことを企図している。前二作では、『江戸幕末期の教育』及び『明治時代前期の教育』について考察した。そこで、今回は、考察対象期を明治時代後期へと移して、その時代の教育について考察する。すなわち、1890年に教育勅語が発布されてから1912年に明治時代が終焉を迎えるまでの二十余年間(明治時代後期)に焦点を絞り、その時代における日本の教育環境が如何なる推移を経たのかについて考察し、そこから論点を抽出して議論を展開するものとする。とりわけ、明治政府による教育観の具現化のあり方に着目し、現代への示唆を獲得することを狙いとしたい。
明治時代前期の教育環境を端的に総括するならば、「欧米列強の東アジア進出を前にして、日本が対外的独立を達成するためにも、欧米列強に並ぶ強国の建設を第一に実現しなければならないとする明治政府の基本理念があったこと」、「中央政府による強い政策推進力の必要性から、国家を個人に優先させるという国家主義が主力となり、これが天皇を中心とする伝統的な権力体制と結合していったこと」などを背景として、明治政府主導のもと、忠君愛国を基本理念とする教育制度を確立していったといえる。とりわけ、1890(明治23)年10月30日に発布された「教育ニ関スル勅語」は、その忠君愛国を基本とする教育理念を推進する上で絶大な役割を担うことになる。全国の学校に謄本が下賜されるとともに、1891(明治24)年には小学校祝日大祭日儀式規程(文部省令)が出され、紀元節など学校での儀式で勅語を必ず奉読することが定められた。かくして、明治政府は、忠君愛国を基本理念とする国家主導の教育制度を全国に強めていったのである。それでは、この教育観が確立してより、明治時代後期の教育環境はどのように推移していったのであろうか。
初等教育に着目すると、明治時代前期における政府の初等教育普及への尽力を受けて、さらに国家主導的な制度整備が進展することになる。1890(明治23)年10月に地方学事通則(法律)と改正小学校令が公布されると、市町村が行う教育事務は市町村固有の事務ではなく国の事務であるという原則が確立されるとともに、尋常小学校3~4年間の義務教育が明確化された。その10年後となる1900(明治33)年の小学校令改正では、尋常小学校は4年とされ、義務教育年限が4年に統一された。また、特別の場合を除いて、授業料の徴収は禁止された。続く1903(明治36)年の小学校令改正では、小学校教科書は文部省著作のものに限るとする国定教科書制度が導入され、修身や国史を中心に天皇への忠誠や儒教道徳を強調して国民思想の統制を推し進めた。このように教育に対する国家の統制がいよいよ強まるなか、明治時代末期となる1907(明治40)年の小学校令改正では、尋常小学校が6年に延長され、義務教育年限は6年となった。こうして就学率も飛躍的に向上し、政府主導によって推進された初等教育の義務教育制度は確立期を迎えたともいえよう。
一方、中等教育に着目すると、1886(明治19)年に森有礼文部大臣のもとで公布された中学校令を起点とする中等教育制度も、明治時代後期において整備が進展することになる。当初の中学校令では、中学校を尋常(5年)・高等(2年)の二段階とし、高等中学校については全国を5区に分けて各区に官立1校のみが設置されたが、1894(明治27)年に高等学校令が公布されると、高等中学校は高等学校と改称された。その後、中等教育において重要な節目となったのは、1899(明治32)年に公布された改正中学校令・実業学校令・高等女学校令に基づく制度整備である。これによって、中等教育段階における男子の中学校と女子の高等女学校という男女別学の体系が制度化されるとともに、普通教育を行う中学校と実業教育を行う実業学校という二元的な中等教育体系が整備された。これが明治時代後期を貫く中等教育制度の基礎となり、男子の中学校だけが高等教育へと接続するという複線型学校体系(分岐型学校体系)として一定の制度確立に達したものといえよう。
また、高等教育に着目すると、同じく1886(明治19)年の森有礼文部大臣のもとでの公布たる帝国大学令に基づいて設置された帝国大学群が、高級官僚・技術者・学者など国家の指導的人材を育成する機関として重要な役割を果たした。官界・政財界の主要な地位がこの帝国大学出身者で占められていたことからも窺える通り、日本全体から見れば極めて少数のエリート教育的要素を帯びていたものと解せられる。一方、民間では、福沢諭吉の慶応義塾や新島襄の同志社に続いて、大隈重信の創立した東京専門学校などの私立大学が発達し、官立学校とは異なった独自の学風を誇ったことも注目される。また、仏教・神道・キリスト教などの特定の宗教教育を目的とする私立学校の創立が進展したことも指摘できる。このように、明治時代後期における高等教育では、確かに私立教育機関の活躍も各地に見られたものの、やはり文部省の管理のもとで国家の指導的人材の育成を図った帝国大学(東京・京都・東北・九州)がその中心的役割を担っていたものといえよう。
以上を総括するに、明治時代後期の教育は、依然として政府の強い主導力のもとで推進されていたといえる。初等教育においては、尋常小学校6年を義務教育とする教育制度を構築し、教育勅語の理念に基づく国定教科書制度によって、国民の思想統制を推し進めた。また、中等教育においては、男女別学という前提のもと、男子の中等教育として中学校・実業学校の二元化を制度的に整備し、女子の中等教育として高等女学校を本格的に制度化した。さらに、高等教育においては、帝国大学によって国家の指導的人材の育成を図った。このように、明治政府は、明治時代後期の二十余年にわたって、忠君愛国という教育観を日本全国において具現化するような教育制度を完成させていったのである。勿論、民間が高等教育において人材育成を担ったことは意義深いが、政府主導によって全国的に敷かれた教育制度のもつ影響力はやはり絶大であるといえる。そして、この時代に植民地として支配するに至った台湾・朝鮮において、明治政府が他民族を皇国臣民化する教育を強制したことに鑑みれば、政府主導の教育は海外にまで及んだともいうことができるだろう。
前項における明治時代後期の教育環境の概観を通して考察するに、当該時代の教育分野にみられる特徴として、(1)国家主導による教育政策の推進及び教育制度の確立、(2)忠君愛国という教育観に基づく政府による国民思想の統制の進展、という2点を指摘することができるであろう。ここでは、なぜ明治時代後期において国家主導による教育政策の推進及び教育制度の確立が実現されたのか、なぜ忠君愛国という教育観に基づく政府による国民思想の統制が広く具現化されたのかについて、その時代背景の分析を通じて考察する。
初めに、依然として強まる欧米列強の東アジア進出を前にして、日本は近代化を進めて対外的独立を達成するだけでなく、東アジアにおける確固たる地位を築かならければならないとする政府の意向があったことを指摘できる。したがって、幕末に欧米諸国との間で結ばれた不平等条約の改正を成し遂げることが日本の大きな課題となり、その条約改正のためにも急速なる近代化政策が必要であった。そこで、教育分野においても、国家主導による教育政策の推進が引き続き求められ、明治時代前期に敷いた近代的教育制度をさらに整備・発展させるという形において、明治時代末期までには一定の確立へ至ったものと考えられる。また、この明治時代後期において日本が直面した1894(明治27)年の日清戦争と1904(明治37)年の日露戦争という東アジアにおける二大対外戦争は、教育をはじめとする各種の国家主導的な近代化政策を推進する上での求心力になったともいえる。
続いて、急速なる近代化政策を日本一丸となって推進するためにも、国際社会における独立国家日本として、日本人の強い国家意識を形成する必要があったことを指摘できる。したがって、対外戦争に直面する明治時代後期においては特に、国家主導による教育政策の推進のもと、忠君愛国を教育の基本とする教育勅語に基づいて近代的教育制度を構築していくことが重視されたと考えられる。そこで、これを日本全国に広く具現化する上で要となった制度こそ、尋常小学校における義務教育制度と国定教科書制度である。すなわち、日本国民は全て尋常小学校に通うことが義務とされ、そこで使用される教科書は文部省著作のものに限られる。かくして、全ての国民は、修身や国史を中心として天皇への忠誠や儒教道徳が強調された教育を受けることになり、結果として、忠君愛国という教育観に基づく政府による国民思想の統制が広く日本に具現化されることになったといえる。
以上の通り、明治時代後期の教育分野の特徴として考えられる、(1)国家主導による教育政策の推進及び教育制度の確立、(2)忠君愛国という教育観に基づく政府による国民思想の統制の進展という2点について、その時代背景の分析を通じて、それをもたらした要因に関して考察を深めた。それらを総括して考えるに、「依然として強まる欧米列強の東アジア進出を前にして、日本は近代化を進めて対外的独立を達成するだけでなく、東アジアにおける確固たる地位を築かならければならないとする政府の意向があったこと」、「急速なる近代化政策を日本一丸となって推進するためにも、国際社会における独立国家日本として、日本人の強い国家意識を形成する必要があったこと」というような時代背景が関係して、明治時代後期における教育分野の特徴を形作っていたであろうことを指摘できよう。
ここまでにおいて、明治時代後期の教育環境を概観し、当該時代の教育分野にみられる特徴を考察するとともに、その特徴をもたらしたと考えられる時代背景を分析した。それでは、これらの考察から得られる、現代の教育分野へ応用すべき視点とは何だろうか。ここでは、明治時代後期の教育分野において、明治政府が忠君愛国という教育観を日本全国に広く具現化したことに着目し、「教育観の具現化」という観点から考察してみたい。
第一に、教育観を具現化するに際して、教育制度を考察することの重要性が挙げられる。明治時代後期を貫く基本的教育観は忠君愛国であったが、これを具現化する上で重要な役割を果たしたのが、尋常小学校の義務教育制度と国定教科書制度という教育制度である。前項で考察した通り、日本国民は全て尋常小学校に通うことが義務とされ、且つ、そこで使用される教科書は国定のものに限られることにより、忠君愛国という教育観を広く日本に具現化することができたのである。これは、半ば強制を伴う仕組みであるものの、国の制度が教育観を体現する上で大きく機能したという点においては注目すべきものがある。それ故、現代の基本的教育観とされる「人格の完成」が、9年間の義務教育制度をはじめとする各種制度を通じて有効に具現化されているか否かは検証の余地がある。国家の教育観を具現化する上での要素として、制度的な有効性の検証は極めて重要であるといえる。
第二に、教育観を具現化するに際して、その時代環境を考察することの重要性が挙げられる。前項にて考察した通り、忠君愛国という教育観に基づく政府による国民思想統制が進展する背景には、明治時代後期における特有の時代環境というものがあった。すなわち、「急速なる近代化政策を日本一丸となって推進するためにも、国際社会における独立国家日本として、日本人の強い国家意識を形成する必要があったこと」が、政府の教育観の具現化を後押ししたとも分析できる。逆に言えば、時代環境によっては、政府がその教育観を具現化するに際して困難を極める場合もあり得ることになる。そのような時代環境は、刻々と変化を遂げていくものであり、現代には現代の時代環境がある。したがって、国家が確固たる教育観をもつことの重要性はさることながら、それを効果的に具現化することを考えた場合、やはりその時代環境というものを併せて考える必要があるといえる。
第三に、教育観を具現化するに際して、個人の自由との関係性を考察することの重要性が挙げられる。ここまで、国家の教育観という観点から議論を深めてきたが、この国家の教育観と個人の自由との関係性を如何に捉えるかは大きな論点である。つまり、近代憲法では、個人の尊厳を最大限に尊重することを大前提としているのであるが、国家の教育観を具現化しようとするときに、それはいきおい個人の自由に抵触するものである可能性は大いにあり得るのである。明治時代後期において、明治政府が中央から強制的に教育制度を日本全国に敷き、国民の義務として教育を受けさせたことは、ある意味では個人の自由を束縛したことになる。そのため、日本国憲法の制定により、義務としての教育から権利としての教育へと原理的転換が遂げられたとはいえ、9年間の義務教育制度をはじめとする国家の教育制度と個人の自由との関係性を如何に捉えるかは大きな論点であるといえる。
参考文献
『詳説日本史』(山川出版社)
『新詳日本史図説』(浜島書店)
『教育小六法』(学陽書房)
『人をつくる教育 国をつくる教育』小室直樹、大越俊夫(日新報道)
Thesis
Shugo Yanaka
第24期
やなか・しゅうご
ビジネスプロデューサー/BBT大学 経営学部 教授/BBT大学大学院 経営学研究科 MBA 教授
Mission
天分を発見して活かす社会の創造