松下政経塾 The Matsushita Institute of
Goverment and Management

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国家観
2009年2月

塾生レポート

高齢者医療の現場から考える国家観
大谷明/卒塾生

医療技術の進歩は同時に、“病気と生活が同居した暮らし”の長期化をもたらした。人生の中で病気と同居する時間が長くなる中、お年寄りが快適に生き生きと暮らすにはどのような社会を目指す必要があるのか。高齢者医療の現場から国家を考える。

 

<はじめに>

 現在、29期生全員で共同研究に取り組んでいる。1年間かけて高齢者医療、特に在宅医療にフォーカスし、様々な角度から研究を進めている。厚生労働省は、約30年後の2038年には病気で亡くなる高齢者は約170万人になると推計している。しかし、現在用意されている療養病床は約34万床。このギャップにどう対応していくのか。

 医療技術の進歩は同時に、“病気と生活が同居した暮らし”の長期化をもたらした。人生の中で病気と同居する時間が長くなる中、お年寄りが快適に生き生きと暮らすにはどのような社会を目指す必要があるのか。

 こうした課題を持ちながら、様々な現場に入った。医師や看護師に付いて、多くの患者さんのお宅にも伺わせて頂いた。そこでは、独居老人・老老介護・認認介護・都市部への人口集中・地方都市の過疎化・医療を支える財源等、様々な医療・介護の問題を目の当たりにした。そしてそれは、家族、地域、そして国家について考えることにもつながっていった。

 今回はこれらの体験を通して感じる国家観について思うところを述べようと思う。以下の内容は共同研究を離れて、私個人の見解である。
(※共同研究成果の方は、2009年4月26日に行う「共同研究フォーラム」の場で発表する予定です。一般の方も、HPでの予約で観覧可能ですので、ぜひこちらもご期待ください。)

<「夕張希望の杜」で取り組む医療>

 北海道夕張市は、2007年に財政再建団体として国の管理下に置かれた自治体である。いわゆる財政破綻をした自治体だ。こうした自治体での医療がどのように取り組まれているのかを調べに、年明け早々、厳寒の地に足を伸ばした。

 これまで、市民の医療の中心は市民病院だった。この市民病院が財政破綻の影響で存続が困難となり、医療法人財団「夕張希望の杜」として引き継がれた。しかし、病院ではなくベッド数19床以下の診療所となってである。ここの再建に村上智彦医師が奔走している。この診療所での大きな方針は、「地域に根ざしたかかり付け医が、外来のみならず在宅での訪問診療を行う」ことだ。「夕張のような1万人強の自治体で専門医が沢山いる病院、ベッド数が沢山ある病院は必要ないし、維持させることも無理。田んぼの真ん中にデパートは要らないでしょ。我々、総合医が適切に処置し、予防医療に力をいれ、必要であれば札幌や近隣の専門医に患者を回すことができれば、現在の少ない医療資産を有効に活用することができるんです」と話されていた。

 実際に村上医師と数件のお宅に伺い、在宅での医療現場を見させて頂いた。夕張に限らず印象的なのは、在宅で医療を受けることができるのには家族の存在が大きいことである。また、地域のつながりも大きく影響する。人と人とのつながりで患者を支えることが不可欠であり、医療関係者はそのお手伝いを最大限にしていくというものなのだろう。

 今回夕張の在宅医療で「昔、息子が小さいときにとってもお世話になったお婆ちゃんだから、一人で住んでいて病気になってしまい生活が困難になってしまったので、昔の恩返しのつもりで家に来ていただいたの」という方のお宅に伺った。血のつながりのないお婆ちゃんとご家族だが、そこに流れる空気は温かい。患者は90歳を超える方で、体の方は歳相応に様々な病気を抱えている。しかし、意識はとってもしっかりされている。そのことを聞くと、「お婆ちゃんは千羽鶴折の名人なんだよ。もっとも師匠は息子さん(受け入れた家族の息子さん)で、一緒に小さい折り紙で鶴を折っているんだ。手先を使っているから脳の活性化にもいいのかもね。家族とこういう交流があるのは患者にとって良い影響を与えるんだ」と村上医師が答えてくれた。私も一緒に鶴を折って渡すと「まあまあだね」とお婆ちゃんがにっこり微笑んでくれた。

 こうしたお宅もある一方で、村上医師はこう話す。「患者を病院に入院させたとたんに無関心になる家族もいる。病院に患者や医療をまる投げしないでほしい。」その言葉は重く響く。

<夕張再生市民会議の皆さんとの意見交換>

 滞在中、夕張再生市民会議の皆さんと、地域医療に関して意見交換をさせていただいた。夕張再生市民会議とは、市民が中心となりこれからの街づくりをしていこうという趣旨の元、市民で組織されたものだ。

 夕張市の高齢化率は42.7%と、日本で最も高い(2008年3月末現在)。しかし、全国でも急激に高齢化率は上がってきており、30年後には4割を超えるとの試算もある。「夕張はこれからの日本の姿なんだよ」との声に他人事ではないという思いが湧く。

 夕張市では、市民の約7割が市営住宅に住んでおり、独居の老人も多い。「炭鉱時代の地域内のつながりがまだあるから見守り効果はあると思う。だけど、孤独死も年に数件はあるね」という話を聞く。「老老介護も多いし、独居老人も多いけど仕方がない。若者がこの街で働くことができないのだから」という声も。一方で、「私の親は夕張からずっと離れた街にいますが、自分はこちらで仕事があるので看ることはできない。それに親も近所の友人と離れてしまうのが嫌で私のところには来ない」という話もあった。

 そこで私は問いかけた。「仕事があるから離れて暮らす親は看ることができない。親は住み慣れた家を離れない。これだと、これから高齢者を誰が看るのでしょうか。病院のベッド数は足りないし、社会的な入院はできなくなっている。夕張市だけでなく、ほかの自治体も財政的に厳しい状態です。行政や制度が人の生活を丸ごと面倒見ることは難しいのではないですか?」と。すると数名からこんな答えが返ってきた。「だから、国の方でしっかりその面をカバーしてもらいたいと思っているんです」。

<国という擬人化>

 これまで夕張だけでなく、いろいろなところで意見交換する機会がある。そしてその中で、「だから国にお願いしたいんだ」という言葉をよく耳にする。確かに法制度上、国会の手続きが必要である場合も多いだろう。さらに、法制度を作るにあたっての理念を国が指し示す必要も大いにあるだろう。

 しかし、よく耳にする「だから国にお願いしたいんだ」という言葉のニュアンスには、それ以外に国という擬人化された誰かが、あたかも自分達の代わりに何でも問題を解決してくれるのではないかという依存の思いもこめられているように感じるのである。特に高齢化して自分一人では生活が困難になって、医療や介護の世話になりながら暮らすようになったとき、それを支え、どのようにしていくかを考えるのは家族が中心となる。そして場合によって家族は何かを取捨選択しなくてはならず、また何らかの負担を背負わなくてはならない。

 確かに、「国民が国に依存している」のではなく、「国が国民に依存し、国民の負担ばかり一方的に増やそうとしている」のではないかと思ってしまうようなこともある。国の失策に対する責任がすべて国民に来ている感覚が強いのも確かだ。場当たり的で、何ら方針や理念もない日本。枝葉しかなく幹のない国。しかし、そんな国を創ってきてしまったのも我々だということは忘れてはならない。

 私も両親を2年半、介護・看病した経験がある。当時、東京都内の会社で働いており、時間を作っては茨城県ひたちなか市の実家まで、往復5時間かけて車で通った。平日はびっしり夜遅くまで仕事した上で、週末は介護と看病。車の運転も体にこたえた。しかし、何よりも精神的に辛い。実家に戻って住み、両親を看病したいという思いはあった。しかし、会社を辞めて実家に帰るという選択はできなかった。

 病院で治療することがなくなると、家に戻されてしまう。その時は、介護を支援してくれるあらゆるスタッフに相談し、お世話になった。しかし、丸ごとすべてを外部スタッフにお願いすることは金銭的にも難しい。できる限り多くの時間をやりくりして両親の看病をし、姉にも多くの協力をしてもらった。

 亡くなるまでの2年半、全て良かったとは思わないし、悔いがないわけではない。ただ、人に丸投げせず、我が事として向き合ったという思いはある。自分自身も体験した問題なので、簡単でないことはよく理解しているつもりだ。

 国や自治体の社会保障は、必要最低限が基本である。すべてのニーズを満たすことは不可能だ。仮に最低限以上のニーズを満たそうとするとき、国ではなく、国民一人ひとりが何らかの形で負担を負うべきことなのだ。国家が大きくなった現在の日本において、「国家とは自分達なんだ」という感覚が薄くなってしまっているような気がする。その結果、得体のしれない国と言う何者かに過剰な期待をし、依存している現状があるのではないだろうか。この依存体質を見直し改めないことには、これからの高齢化社会を乗り越えることはできないと思うのである。

<松下幸之助塾主の国家観と社会保障について>

 塾主・松下幸之助は、国家の目的と成り立ちについてこのように言っている。「そもそも、繁栄、平和、幸福でありたいと願う心は、この地上に人間が生まれて以来、昔も今も変わらず、だれもが胸に抱きだれもがその実現を望んでいたと思うのです」「そこでこの願いを実現する第一歩として、私たち人類の祖先は、まず第一に家族という共同生活をつくりあげました」「その集団生活をさらに大きくする、すなわち、村落から郷や町へと発展していったのであります」「人間の共同生活は次第に複雑となり、次第に整ってまいったのであります。こうしてだんだん大きくなりだんだん整ってきて、ついに、一民族なり数民族を一つの集団としてでき上がったものが、今日私たちが見る国家であると思うのであります」。

 そうした「繁栄、平和、幸福」を目的にして国家という集団生活が成立した中で、「全体に共通の利益というものを考えなければなりませんし、またこれを保護する必要が起こってまいります。そういうところから、集団には秩序が必要となり、国家には国家秩序というものが必要となってくるのであります」と。医療等の社会保障も塾主の言う「共通の利益」に当てはまるものであろう。

 そしてそれはまさに、政治の仕事である。「政治の基本目的は、国民の生活を安定向上させ、みんなが生き生きと生活を楽しめるようにするところにあります。高齢者福祉制度ということについてもそのような観点からしっかりとした方針を立て、その充実を図ることが必要です。その際に忘れてはならないことがあります。」「社会保障というものは国民が人間らしい生活をしていためになくてはらないものです。ただ、いくら大事なことでも、国の力を超えてムリに進めると長続きしません」と高齢者福祉についても言及されている。

 では、塾主が考える社会保障とはどのようなものであったのか。「社会保障というものは人間の本性というか、人情に即したものでなければならないのです。たとえ国力が充実していて、資金が十分にあったとしても、国民へ至れりつくせりの社会保障を続けていますと、どうしても人間はそれに甘えてしまって怠惰になってきます。福祉については、たんに与えるというのではなく、やはり自ら努力し築き上げるという面が必要です。自分でつりあげてきたのだから、ありがたいという感情も加わるのです」と。過保護な制度によって甘えと依存体質ができあがることを指摘している。

 また、家族や社会のあり方、高齢者の生きがいについても言及している。「最近かなり薄れてきた親と子の間の精神的なつながりが大切にされるべきです。親孝行が国による高齢者福祉の充実とあわせてもっと重視される必要があります。国が行う福祉制度にはそれぞれの人が親孝行しなくても、親の面倒は国がみますよといっている面があるようです。高齢者の子供たちから集めた税金で制度の恩恵にあずかっているのに、高齢者には子供たちの働きのおかげといった実感は全くないようです。あくまで政府からもらうという意識でなんです」「高齢者の中には子供のない人もあるし、事情があって親の面倒を直接みることのできない場合もあります。その場合には政府による公平な分配も必要であるが、できるだけ親の面倒をみるという考え方が高まるような福祉制度にしていくことが大切です」「高齢化社会への対応は社会問題であると同時にお互い個々人の生き方の問題でもあります。命を失うその時まで精いっぱい自分を生かしていけるような生き方が理想的です」と。国や社会が何を与えてくれるのか、ということではなく、自らがどう社会や国に関わっていけるのかを考えること、そしてそれが生きがいとなっていくということなのであろうか。

<修身・斉家・治国・平天下>

 中国の古典で「四書」と呼ばれる書物の一つに『大学』がある。この中で、「修身、斉家、治国、平天下」という言葉がある。己を修め、家を盛り立てていくことができれば、国が治まり、平和な世の中が実現できる、とでも解釈するだろうか。この言葉からも国家と国民一人ひとりは直結していると考えることができる。そして人は一人では生きられず、家族という形態をとって、労わり支えあって生きている。国家という言葉も国と家との言葉で成り立つ。「国は家」、「家は国」なのではないだろうか。

 共同で生活する様々な家族の共通の利益、もしくは最低限必要とされることに関して、一括で執り行うのが政治と行政の役割である。医療保険や介護保険もその最低限の社会保障として存在することが基本なのではないだろうか。それ以上のことは、本来的にはサービスの領域であり、患者個人と家族が担わなくてはいけない問題だと私は考える。もちろん、このサービス部分にあたる医療・福祉は、患者個人や家族が納得のいくものが得られるよう、体制の整備は必要だ。それは、家族によるもの、企業によるもの、NPOによるもの、ボランタリー的なもの等、様々な選択肢があるほうが望ましい。そしてそれらは、患者や家族の都合により、効果的に利用されればよい。しかしそれらを利用する際は、相応の負担をきちんと負うべきではないだろうか。

 医療の専門性が進み、生老病死というものが家族から切り離され、もしくは家族の方から切り離し、病院に隔離されている状態では愛情は生まれにくい。病院に入院さえすればあとは専門のスタッフがやってくれるものだと、患者を医療者に丸投げしてしまう家族、入院させてしまうとほとんど会いに行かない家族、そして問題が起こったら医療関係者を責めればよいというスタンスの家族の何と多いことか。そんな家族だけではないが、こうした生老病死というものが生活から切り離されて一部の専門の人たちに依存している状態は確かであろう。

 上記でも記述した通り、医療や介護に対する様々な選択肢はあった方が良いし、それを利用するのが悪いということではない。しかし、家族のサポートなしで支える体制をすべて外部スタッフに任せるという発想、金銭的負担を考えずに何でも必要なものは国に求める発想が、必要以上に医療介護を膨れ上がらせ、結果として生活上も経済上も自分の首を絞めているという事態になっているとも考えられるのだ。

 また、現役世代にとって仕事は大きな問題で、家族を支えることのできる働き方ということに企業も取り組む必要がある。今、ワークシェアリングという言葉が注目を集めている。家族内の医療介護、または育児を家族が最低限行え、親子の絆が維持できるよう、そのためのシステムを国や企業が補助するという発想がもっとあってもよい。核家族化の進んだ今日、医療や介護、育児にかかる家族の労働力を外注しないことには、負担が大きすぎる面も確かにあるだろう。しかし、家族としての心の交流・ふれあいは、家族でなければできない。それが、心豊かに生きる、心の豊かさを育むことにつながるのではないだろうか。

 医療や介護、育児を家庭内で行うと国家財政が縮小できるということが言われるが、それは表面的な話だ。スウェーデンのような高福祉国家という道もあるかもしれない。それは、家族全員が外で働き、家庭内の労働は公的機関がサポートする社会だ。でも、私は、家庭・家族が中心になる社会、家族が大切にされる国家であってほしいと思う。今、家族のあり方、家族の弱者をどのように支えるかを考えることは、そのまま日本国家の在り方を考えることになるのではないか。

<おわりに>

 人と人との絆、家族の絆、地域の絆が失われていると言われて久しいが、それはそのまま国家という大きな家がバラバラになることにつながる。

 私は最近よく、自分の育った家庭を思い起こす。信頼してずいぶん自由にさせてもらったが、一人ではなく温かく見守られていた実感がある。自分も家族の誰が何をしているのかわからないということはなく、それとなく見守っていた。そして家族と多くの感情を共有していた。生まれ育った地域を離れて長くなるが、今でも気にしてくれる人たちが近所に多くいる。

 私は、こうした絆の連鎖が国という大きな家をつくっていると思いたい。国民一人ひとりが直接、国家をつくっているのである。高齢者医療をはじめ、乗り越えていかなくてはならない問題が山ほどある。そのとき安易に「国に何とかしてもらって」と言うのではなく、国家とは自分達のことなのだ、国家とは私とあなたのことなのだと認識し、我が事として問題にあたる、そんな国家国民を目指そうではないか。

参考文献

PHP総合研究所研究本部「松下幸之助発言集」編纂室『松下幸之助発言集 全45巻』PHP研究所1993年
松下幸之助『PHPのことば』PHP研究所1975年
安岡正篤『人物を創る 人間学講話「大学」「小学」』プレジデント社1988年
村上智彦『村上スキーム 地域医療再生の方程式』エイチエス2008年
30年後の医療の姿を考える会『メディカルタウンの地方学』to be出版2008年

参考データ

厚生労働省ホームページ

2009年2月 執筆
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