論考

Thesis

明治時代前期の教育 ~国家主導の教育の考察~

教育的観点から近現代史を考察する歴史観レポート第二弾。1868年に明治時代の幕開けを迎えてから1890年に教育勅語が発布されるまでの二十余年間-明治時代前期-に焦点を絞り、その時代における日本の教育環境が如何なる推移を経たのかについて考察する。とりわけ、当該時代における国家主導の教育のあり方に着目し、現代への示唆を獲得することを狙いとしたい。

1. はじめに

近現代史の中からテーマを設定し、史実に基づき考察するこの「歴史観レポート」において、私自身は教育的観点から時代を追っていくことを企図し、第一弾となる前作では、江戸幕末期の教育について考察した。そこで、今回は、考察対象期を明治時代へと移して、その時代の教育について考察する。但し、史実に明らかな通り、急速なる近代化が展開された明治時代全体を一括りに論じることは容易ではない。そのため、ここでは、1868年に明治時代の幕開けを迎えてから1890年に教育勅語が発布されるまでの二十余年間(明治時代前期)に焦点を絞り、その時代における日本の教育環境が如何なる推移を経たのかについて考察し、そこから論点を抽出して議論を展開するものとする。とりわけ、当該時代における国家主導の教育のあり方に着目し、現代への示唆を獲得することを狙いとしたい。

2. 明治時代前期の教育環境

明治時代前期の教育環境を概観するに、最初の動向として、1871(明治4)年の文部省の新設とともに、翌年の1872(明治5)年に公布された「学制」(文部省布達)を指摘することができる。フランスの学区制などを取り入れた統一的な学制は、近代的な学校制度を日本で最初に構想した法令とされる。それは、全国の府県を8つの大学区に分けた上で、1大学区を32中学区、1中学区を210の小学区に分け、それぞれに大学校、中学校、小学校を置くという壮大な計画であった。当時の日本の状況下でそれが実現されるはずもなく、地方の実情を無視した画一的な強制に対する政府内外の反動から、1879(明治12)年には学制を廃して、教育令(自由教育令、太政官布告)が公布された。これにより、画一的な学区区分を廃して町村を小学校の設置単位とし、最低就学期間も大幅に短縮された。しかしながら、強制から放任への急転換への反省から、翌年の1880(明治13)年には、早くも新たな教育令(干渉教育令)が公布され、小学校教育に対する政府の監督責任が強調されるに至った。このように、明治時代初期の教育法制は、極めて不安定であったといえる。

ただ、明治政府が、「学問は国民各自が身をたて、智をひらき、産をつくるためのもの」という近代市民社会的な教育観を唱えて、小学校教育の普及に力を入れ、男女等しく学ばせる国民教育の建設を目指したという姿勢には大いに着目すべきであろう。資料によれば、実際、義務教育の就学率は次第に高まっていった。明治政府は、専門教育にも力を注ぎ、1877(明治10)年には東京大学を設立し、多くの外国人教師を招いて各種学術の発達が図られた。また、師範教育や女子教育・産業教育についても、それぞれ専門の学校が設けられた。早くも1872(明治5)年には東京に初めて女学校が設立され、次いで女子師範学校も設置されたことは、史実に明らかな通りである。こうして、教育は主として政府の力で進められ、法制度の試行錯誤を経つつも、明治維新より十余年の歳月をかけて、徐々に新たな教育環境を構築していったといえる。一方、明治時代初期より、福沢諭吉の慶応義塾、新島襄の同志社など、私学の創設が逐次展開されたという事実も見逃してはならない。

その後、1885(明治18)年に太政官制度が廃止され、内閣制度に移行したことを受けて、初代文部大臣に森有礼が就任することになる。ここで、森有礼文部大臣のもとで、1886(明治19)年に帝国大学令、師範学校令、小学校令、中学校令(いずれも勅令)が公布され、学校間の体系が整備された。これら諸学校令の内容をみると、帝国大学令一条は「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」、師範学校令一条には「生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備エシムルコトニ注目スヘキモノトス」という但書がある。開明派と儒学派の軋轢が深まる中において、開明派の森有礼が文部大臣でありながら、次第に教育行政が国家主義的性格を帯びていったことは注目に値する。なお、小学校令においては、就学に関して初めて「義務」という表現が用いられ、父母後見人等に子どもを尋常小学校へ就学させる義務が課せられた。また、教科書に関しては文部大臣による検定制度が導入され、これは中学校令においても同様であった。このようにして、国家主義的な教育環境の素地が当時の日本に構築されていった状況が窺えるであろう。

その潮流は、1889(明治22)年の大日本帝国憲法の発布によって、いっそう強みを増すことになる。これは、天皇主権の欽定憲法であり、教育に関する条項はなかった。帝国議会成立後も、教育にかかわる法令は、教育財政制度を除く他は全て勅令として発せられ、内閣から枢密院の審議を経て天皇により裁可されるという手続きがとられたのである。そして、1890(明治23)年10月30日、忠君愛国が教育の基本であることが強調された「教育ニ関スル勅語」が発布され、全国の学校に謄本が下賜されることになった。さらに、1891(明治24)年には小学校祝日大祭日儀式規定(文部省令)が出され、紀元節など学校での儀式で勅語を必ず奉読することが定められるに至り、明治政府の教育政策は、国家主義的性格を強めていったのである。なお、1890年には小学校令が改正され、尋常小学校3~4年間の義務教育が明確化されるとともに、高等小学校の修業年限には弾力性がもたされたことによって、義務教育における就学率向上の素地が整備されたことも注目に値する。

以上を総括するに、明治時代前期の教育は、主として政府の力によって推進されたといえる。最初の十余年は、文部省新設並びに近代的学校制度たる学制の公布に始まり、地方の実情を重んずる自由教育令の公布、再び政府の監督責任を強調した干渉教育令の公布など、実に様々な試行錯誤を経ながらの体系整備であった。しかしながら、続く十余年では、森有礼文部大臣のもとで諸学校令が公布され、学校間の体系が整備されるとともに、大日本帝国憲法及び教育勅語の発布を経て、国の教育理念も明確化されたのである。かくして、明治時代前期の教育体系は、二十余年の歳月を経て一つの形をなしていった。一方、明治時代初期より私学の設立も逐次展開されたが、教育分野においては、政府が主導的な力を発揮したことが当該時代の特徴であろう。なお、政府の教育観が、「学問は国民各自が身をたて、智をひらき、産をつくるためのもの」という近代市民社会的なものから、教育勅語の示す忠君愛国を基本とするものへと帰着したことは、着目すべき重要な展開である。

3. 時代背景分析

前項における明治時代前期の教育環境の概観を通して考察するに、当該時代の教育分野にみられる特徴として、1)政府主導による教育政策の推進、2)近代市民社会的な教育観から忠君愛国的な教育観への帰着、という2点を指摘することができるであろう。ここでは、なぜ明治時代前期には国家主導による教育政策が推進されることになったのか、なぜ明治時代当初に唱えられた近代市民社会的な教育観は忠君愛国を基本とする教育観へと帰着していったのかについて、その時代背景を分析することによって考察する。

第一に、欧米列強の東アジア進出を前にして、日本が対外的独立を達成するためにも、欧米列強に並ぶ強国の建設を第一に実現しなければならないとする明治政府の基本理念があったことを指摘できる。これは、欧米列強による東アジア諸国の占領・侵略が現実のものとなる世界情勢の中で、日本そのものも近代的国家を確立しなければ、列強諸国による占領・侵略を免れないという状況にあったことによる。そのためにも、明治政府は、富国強兵を掲げて資本主義化と軍備の拡充を目指し、近代産業育成政策として殖産興業を推進したのである。これを皮切りに、社会の様々な分野において、近代化のための政策が推進されることになった。ここで論じる教育政策も、まさに近代化の一環として行われたものである。すなわち、政府は欧米列強に倣った近代的な教育制度を導入する必要に迫られ、これを実現していくためにも、中央政府が強い推進力をもつ必要があったわけである。

第二に、中央政府による強い政策推進力の必要性から、国家を個人に優先させるという国家主義が主力となり、これが天皇を中心とする伝統的な権力体制と結合していったことを指摘できる。すなわち、明治政府は、富国強兵・殖産興業の政策を国家主導で推進するに伴って、欧米列強に並ぶ強国の建設を第一とする国権論を強く示すようになり、さらに、日本の伝統的君主である天皇に主権が存すると明示した大日本帝国憲法を発布するに至り、天皇を頂とした国家主義が構築されていったといえる。かくして、近代国家の確立のためには、民権抑圧もやむを得ないという情勢になった。そのため、明治政府が当初掲げていた、「学問は国民各自が身をたて、智をひらき、産をつくるためのもの」という近代市民社会的な教育観も次第に国家主義的性格を強く帯びるようになり、結果として、教育勅語に示されるような忠君愛国を基本とする教育観へと帰着していったものと考えられる。

以上の通り、明治時代前期の教育分野にみられる特徴と考えられる、1)政府主導による教育政策の推進、2)近代市民社会的な教育観から忠君愛国的な教育観への帰着、という2点について、その時代背景の分析から、それをもたらした要因に関して考察を深めた。その結果、「欧米列強の東アジア進出を前にして、日本が対外的独立を達成するためにも、欧米列強に並ぶ強国の建設を第一に実現しなければならないとする明治政府の基本理念があったこと」、「中央政府による強い政策推進力の必要性から、国家を個人に優先させるという国家主義が主力となり、これが天皇を中心とする伝統的な権力体制と結合していったこと」という状況を考察したことから明らかな通り、その時代背景というものが、明治時代前期の教育分野の特徴を形作っていたであろうことを見て取ることができよう。

4. 明治時代前期の教育から考察すべきこと

ここまでにおいて、明治時代前期の教育環境を概観し、当該時代の教育分野にみられる特徴を考察するとともに、その特徴をもたらしたと考えられる時代背景を分析した。それでは、これらの考察から得られる、現代の教育分野へ応用すべき視点とは何だろうか。

第一に、国家主導による教育政策の長所と短所の考察が挙げられる。明治時代前期における国家主導の教育政策の推進をみるに、その長所としては、強制力をもって全国に均質的な政策を一挙に推進できるという点を指摘できる。また、それまで何らかの理由により教育を受けることが困難であった者に対して教育機会を提供することができるという点も指摘できるであろう。逆に、その短所としては、強制力を発揮する反面、教育に関する個人の自由を奪い得るという点が挙げられる。また、中央の視点が色濃く反映されやすいため、学制の発布に顕著であったように、地方の実情を無視した政策になる可能性を孕むという点も指摘できる。我々は、これら長所と短所の双方を認識する必要があるであろう。

第二に、教育理念の重要性の考察が挙げられる。明治時代前期における国家の教育観は、近代市民社会的なものから忠君愛国的なものへと帰着した。それに伴って、教育制度及び教育体系が変貌を遂げていった点は注目に値する。つまり、教育観すなわち教育理念とは、教育によって何を成すかということそのものであり、その如何によって人々の思想・生活様式も大きな影響を受けるという意味において、極めて重要であると言わざるを得ない。とりわけ、国家主導の教育政策においては、その政策推進が強制力を伴うため、いっそう慎重な配慮が為される必要があるであろう。教育分野においては、それが官主導のものであれ、民主導のものであれ、確固たる教育理念が第一に重要であることは言うまでもない。

第三に、教育主体の考察が挙げられる。ある教育理念を実現しようとするとき、それを達成するための教育主体が必要となる。すなわち、誰が教育を担うのかということである。明治時代前期においては、国家という教育主体が主導的な役割を果たした。忠君愛国的な教育理念を実現しようとするには、まさに国家という教育主体が適していたとも言えよう。但し、掲げる教育理念によっては、多種多様な教育主体が考えられるはずである。それは、その時代背景等にも大きく関連するのであるが、ここで肝要なのは、教育主体の選定に柔軟性をもたせるという視点であると考えられる。つまり、時代に即応した教育主体を活用する柔軟性こそ、ある教育理念の効果的な実現をもたらすと考えるものである。

最後に、これらの考察を踏まえ、現代の教育はどうあるべきかについて考察するとどうなるか。現代における国家の教育理念の根底は、日本国憲法及び教育基本法に求めることになる。それは、「個人の尊厳」「人格の完成」というものである。極めて抽象度が高いため、如何ようにも解釈できるといえる。但し、考察すべきは、それを実現するための教育主体及び教育制度には何が適するかということである。時代情勢に鑑みれば、改めるべき点を多々指摘することができよう。このように根本を再考していくと、そもそも義務教育という制度が本当に適切なものなのか、教育は誰が担うべきなのか、教育とは何なのかという議論にまで行き着く。この論考を皮切りに、逐次、私自身の展望を示していきたい。

参考文献
『詳説日本史』 (山川出版社)
『新詳日本史図説』 (浜島書店)
『教育小六法』 (学陽書房)
『人をつくる教育 国をつくる教育』 小室直樹、大越俊夫(日新報道)

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谷中修吾の論考

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Shugo Yanaka

谷中修吾

第24期

谷中 修吾

やなか・しゅうご

ビジネスプロデューサー/BBT大学 経営学部 教授/BBT大学大学院 経営学研究科 MBA 教授

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