松下政経塾 The Matsushita Institute of
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2002年9月

塾生レポート

世界平和への第一歩 ~5名の女子学生のゼロからの挑戦~ 前編
白岩正三/卒塾生

 
 10月4日、スリランカから10名の女子学生が関西空港に降り立った。Mother Moon主催の和平ワークショップ『「スリランカに平和を、いま、私達がたちあがろう」~日本・スリランカ女子大学生が考える平和~』(注1)に参加するためである。Mother Moon(以下MM)は関西学院大学総合政策学部(兵庫県三田市)に籍を置く女子学生5名(注2)で組織する学生NGOである。私はMMのシニアアドバイザーとして、顧問の田島幹雄氏(注3)とともに、MMの活動に準備段階から携わっている。今回はワークショップ開催までの過程をたどり、次号でワークショップ本番の様子を紹介するとともに、若者の人材育成と社会参加への課題についても言及してみたい。

 MM設立の布石は2年前にさかのぼる。当時大学の2年生であった彼女たちは、田島幹雄教授(当時)のもとで「予防外交」と「信頼醸成」について、特に教授の専門であったスリランカをケーススタディとして学んでいた。スリランカでは過去20年間にもわたるシンハラとタミールの民族紛争(注4)によって7万人もの尊い命が失われている。民族の壁、宗教の壁、言葉の壁、文化の壁を越えて、いかに平和を構築できるか、その大きな問題をテーマに研究を進めていたのである。

 関西学院大学総合政策学部では毎年リサーチフェアと称して、学生の研究発表の場を設けている。2000年秋、MMメンバーは「スリランカにおける予防外交」と題して、日頃の研究成果を発表し、見事に大賞を受賞した。代表の宮垣は、これが後々のMMの正式な組織化の礎となったと振り返っている。基礎ゼミは1年間だけのコースであったが、MMメンバーは関心を持った分野の勉強をさらに続けていきたい、また、勉強を続けるうちに、実際に何か行動にうつしてみたいと強く願うようになった。田島教授のもとで学んだユネスコの平和文化(理解、対話、寛容、和解)に共鳴し、その中でも特に対話の重要性を認識したメンバー達は、いかにスリランカ問題において当事者間の対話を促進させることができるのか、また、彼女たち自身が当事者との対話を通して、いかに現状を学び、平和に貢献することができるのかを求めるようになった。

 「対話にはすべてのアクターの参加が必要である。同世代の当事者を集めて対話を持ちたい」。そう思った彼女たちは田島教授のもとへ相談に訪れる。様々な可能性を追求する中で、まだ紛争状態にあるスリランカにMMメンバーが渡航することは困難、また経済的負担を考えると、スリランカの学生達を日本に招待することは不可能と判断。経済的にも地理的にも実現可能性が高いタイ・バンコクに集合し、ワークショップを開催する道を模索することとなった。2001年2月、大枠だけは以上のように決めながら、ここからMMは長い苦難の時期に突入するのである。

 まず進級が一つの壁となる。2年から3年への進級は、本格的に将来を見据えたゼミ選びが行われる。残念ながら田島教授はその年以降ゼミを担当することはなく、よってMMメンバーは個々に異なったゼミへと散らばってしまい、それぞれのゼミ活動に勤しむようになる。またメンバーの細見はオーストラリアへと1年間の留学へと旅立つ。そのような中、メンバーのスリランカに対する思いは徐々に薄れていき、誰もが、ただただ何かをせねばという義務感からミーティングを繰り返す日々が続く。2000年4月の時点で、開催時期2000年10月、開催予算54万円(注5)という目標のみが確認されていた。

 予算を確保するために資金集めが5月頃から始められた。国際ソロプチミスト篠山、同川西へと企画を持ち込み、協力を募った。そのような活動の一方で、メンバー間のコミュニケーションは確実に減ってきていた。それぞれのベクトルの方向も異なり、この間に脱退を表明したメンバーも少なくなかった。しかし、「もう駄目だ、もう諦めよう」、そう心に決めようとすると、悔しさがにじみ出てきて辞めることはできない。その繰り返しが春学期中続き、大した進展のないまま、夏休みに突入することになる。2001年7月、夏休みを前に10月開催を再確認するも、その決意は弱く、夏休みになると皆が旅行へと旅立ってしまい準備は一向に進まなかった。

 この葛藤の背景には彼女たちだけでは解決できない難題が山積していたことも事実である。最大の問題はスリランカから招待する学生達の学校の選定がまだできていなかったことであろう。学校の選定には田島教授経由で、シンハラ、タミール、ムスリムをそれぞれ中心として構成されている現地の3大学に協力を呼びかけていたが、先方からの連絡がなかなか来なかった。計画を進めてもスリランカの学生を招待することができるのだろうか、見えない相手を想定し、実行可能性の見えない計画を進めるには、相当の強い意志が必要である。「何に向かって活動をしているのか、どういうハードルを越えなければならないのかさえわからなかった」と郷は言う。当時のMMにはこの状況が八方ふさがりにしか見えず、志気が低下していたのだろう。

 2001年9月11日、世界を震撼させた米国への同時多発テロが発生。学校の選定も相変わらず進まぬまま秋学期を迎えたMMメンバーは、残り一ヶ月では準備不可能と判断。テロの影響にも配慮してプロジェクト中止を決めることとなる。助成金の支給が決まっていた兵庫県国際交流協会、また資金援助の要請をしていたソロプチミストへも、お詫びと説明の行脚に追われた。熱烈な応援を得ていただけに、心の痛む日が続いた。

 就職活動の本格化も目前に控え、MM自身は活動の休止を決定したものの、思いを継ぎ、企画を実行してくれる後輩を捜すことで、プロジェクトを継続させる道を模索することを決めた。約1年もの間の苦労をすべて白紙に戻すようなことだけはしたくなかったのだ。スリランカに対する熱い思いはまだ各自の胸にある。しかし就職という現実の前にはなす術もない。それならこの思いだけでも伝えたい、そしてもしできることなら誰かにこの思いを継いで欲しい。そのような気持ちで2001年12月、MMにとって2回目のリサーチフェアを迎える。悔いを残さないように、準備にも相当の力を注いだ。在日スリランカ人へのインタビューも試み、できるだけ生の声を拾う努力をして回ったのだ。発表ではスリランカに対する世界の無関心を嘆き、メディアの不当な操作を追及した。また、活動の現状を説明し、志ある後輩を募った。数名からのリアクションはあったものの、結果として引き継いでくれる人材は見つけることはできなかった。「とにかくやれることはやったじゃないかと自らを納得させようとした、今までの活動や研究の成果だけでも関係者に配布して、早く肩の荷を降ろしたかった」。MMメンバーは当時の苦しみをそう振り返る。

 私と彼女たちとの出会いはちょうどこの頃であった。リサーチフェアで後継者を見出せなかったMMをCLUB GEORDIE(注6)、BLUE PLANET(注7)、田島クラブ(注8)と、私の関連する組織をまわり、プロジェクトの引受先をともに探しまわることから協力を始めた。残念ながらどの組織もMMのプロジェクトに割く人的、時間的余裕がなく関連組織からの良い答えは得られなかった。これで終了かと思っていた矢先、やはり終わらせるわけにはいかない、誰も継いでくれないのであれば自分たちでやはり完結すると伝えてきた。

 この時点での私の感じていた実現可能性はゼロに近かった。それは彼女たち自身の中の混乱が大きかったことが原因である。まずもって代表の宮垣に求めたのは「覚悟」であった。他の組織の協力が事実上得られないことがわかった今、本当に単独でも実行する覚悟があるのかを全メンバーに問い、その上で4月に再スタートをきれるように組織化をせよという指令をだした。5人が本気になって取り組めば、まだ遅くはないと信じていたからである。

 4月になると細見がオーストラリアより帰国するが、3年生に戻る彼女は多くの授業と課題に追われることになるだろう。また5人のメンバーのうち、3人が6月から7月にかけて教育実習を抱えていた。それらの諸問題を考慮したためか、最終決断までかなりの時間を要した。しかし悪いニュースばかりではなかった。12月にはスリランカで選挙が行われ、首相が交代。そして2月に停戦合意にまで話が進んでいたのである。また、あきらめかけていたスリランカ側のカウンターパートの大学も、田島教授が4月にスリランカに赴き調整を計ったことで、ようやく決定したのである。

 4月末、「このままでは卒業できない」と最終的にMMは2002年10月に開催時期を再設定し、バンコク開催に向けて再スタートを切ることを決意する。残り約5ヶ月。資金5万円弱からの再スタートであった。田島教授はニューヨークに、MMメンバーは関西に、私自身は東京に拠点を置き活動をしていた。したがって、コミュニケーションはメールや電話に頼らざるを得なかった。スリランカサイドとのコミュニケーションはさらに困難を極めた。メールはすぐに返信されず、ファックスや郵便も届いたかどうかの確認が容易ではなかったからだ。時間も資金も限られ、関係者間のコミュニケーションでさえ難しい状態で準備は進められたのだった。MMが「覚悟」を決めたことで、田島教授も私も全力で支援する体制を整え始める。限られた時間枠と予算枠の中でこのプロジェクトを実行するためにMMメンバー達には次々にクリアすべき高いハードルを課すこととなった。

 予算の確保のため、ソロプチミストを始め関係者への広報も再開する。6月には毎日新聞、7月には関学ジャーナルに記事が掲載されたが、この記事が新たな出会いを生むことになる。関西学院広報室の豊島美弥子氏は関学ジャーナルの取材を通じてMMの活動を知る。6月の異動で広報室長に就任した古森勲氏に相談すると、スリランカと交流のある作詞家もず唱平氏が紹介された。話はトントン拍子に進み、7月に一時帰国していた田島教授ともず氏、古森氏の間で会合がもたれ、どのような協力が可能かを探る運びとなった。議論の中心は「日本での開催の可能性」であった。資金面での理由をあげ、難しさを田島教授が指摘すると、今年は奇しくも日本スリランカ国交樹立50周年の記念年でもある、大阪国際交流センターの企画委員も務めているので協力もできるという打診がもず氏から伝えられた。その後、日本・スリランカ友好国会議員連盟所属の平野博文衆議院議員の協力も得ることができ、バンコクと日本の双方を視野に進めていた準備を、日本開催に絞り準備を進めることとなった。MMと田島顧問、シニアアドバイザーの私に加え、関西学院広報室、もず唱平氏、平野博文事務所という新体制で開催時期を2002年10月、開催場所をワークショップは千刈セミナーハウス(兵庫県三田市)、シンポジウムは大阪国際交流センター(大阪市)、開催予算を240万円と決定し、あくまでもすべての企画運営はMMが執り行うことを確認し、準備を進めた。

 関係者からの賛助金、個人支援者からの寄付金、MMの街頭募金などで予算の約半分は集めたものの、まだまだ資金は不足していた。加えて、スリランカの大学において派遣学生の選定が進まずMMメンバーはいらいらの募る毎日を過ごした。派遣大学生が決まった時点で各々にパスポートの取得を依頼する、そして航空券の購入と受け渡しを行い、そのパスポートと航空券をもってビザを取得する。このようにスリランカ学生の来日にはまだまだ課題が残されていたのだ。

 このような状況を受けて、日本の関係者の最大の疑問は「果たしてスリランカの学生は来日できるのか」にあった。関係者からは来日が保証されなければ資金協力はできないと伝えられるが、逆に資金協力が確定しなければMMは来日の準備を進められない。そのジレンマに加えて、果たしてどのようにして航空券を入手し、スリランカの学生達の手元に無事に届けることができるのかという問題にも直面していた。MMメンバーの現地への派遣の検討や、現地NGOや政府機関への協力依頼を試みるが、どの選択肢も難しかった。田島教授と私は幾度となく協議を繰り返した。資金面や渡航準備の打開策が見あたらず、中止を真剣に検討したことも幾度かあった。渡航に関しては、最終的にもず氏の友人のスリランカ人で、日本でビジネスをしている二ファール氏がスリランカに一時帰国するということで、調整を依頼、無事にビザの取得にこぎ着けた。来日の可能性が最大の焦点となっていたため、スリランカ学生全10名の渡航準備が整った時は、関係者一同歓喜と安堵に包まれた。「とにかくほっとした。正直に言うと来日の実現可能性は15%くらいだと思っていた。」と石橋は振り返る。9月15日時点ですでに全員がビザの取得を終えていたが、その連絡がMMに入ったのは来日4日前であった。これでようやく準備にも熱が入る。こうしてワークショップに向けてのラストスパートが始まったのである。

 残りはソフト面であった。宗教や文化が異なる学生たちの食事や生活環境を整備するための宿泊先との打ち合わせ、ワークショップを円滑に進めるためのボランティア体制の確立、公開イベントのスムーズな進行のための会場や担当者との打ち合わせなどが、ワークショップの企画準備とともに急ピッチで進められた。関西学院広報室の計らいで記者会見も設定され、マスコミへの対応にも追われた。学生にとってはすべてが初めての経験であり、一つ一つが難しい課題であったことは間違いない。

 本番が近づくにつれ支援の輪は広がり、外務省、文部科学省、国際連合広報センター、関西学院大学からも後援を頂けるまでになった。またスリランカ国内の都市と姉妹都市を結んでいる吹田市(大阪府)と宇治市(京都府)からのご支援も頂いた。多くの人が若い学生に大きな期待を寄せていたのである。MMメンバー達の苦労を知る支援者達もスリランカの学生達の到着を今か今かと待ちわびていた。最後の最後まで本当に学生達が無事来日してくれるのかという疑念は残り、緊張と疲れの中でスリランカの学生を迎えることとなる。10月4日午前7時スリランカの学生10名が関西国際空港に到着した。いよいよMMの挑戦の始まりである。

*今回は会議開催までの経緯だけを追ってみた。次回は会議本番に触れるとともに、再度準備段階に目を向け様々な分析を試みる。

【注釈】
(注1)10月5日~10月10日までのプログラム。10月8日、関西学院大学総合政策学部にて開催された公開ワークショップ、10月10日に大阪国際交流センターにて開催された公開シンポジウムをのぞき、ワークショップ全日程を兵庫県三田市にある千刈セミナーハウスにて泊まり込みで開催。

(注2)宮垣美香(代表)、石橋真理恵、郷文香、細見宏子、山名千啓の5名。

(注3)元国際連合経済政策社会開発部長、元関西学院大学総合政策学部教授、現在国際連合本部Global Compact顧問として活躍中である。

(注4)公式見解ではこの紛争は「民族紛争」ではなく、「テロ」行為だとみなされており、LTTE(タミル・イーラム解放の虎)は国際社会でもテロ集団と位置づけられている。現在はノルウェー政府の仲介により和平調停が進められている。

(注5)バンコク開催時の当初の見積もり。スリランカ学生10名をバンコクに招聘する費用、会議費用のみを見積もり、MMメンバーはすべて自己負担で参加する予定であった。

(注6)関西学院大学総合政策学部に支部を置く国際交流・国際協力支援団体。筆者は代表。

(注7)同学部公認の学生NGO。筆者は元代表。

(注8)田島教授に学んだ学生(各期ゼミ生、国連研修参加者、CLUB GEORDIEスタッフ、BLUE PLANETスタッフ)らが退職パーティーを期に組織したクラブ。筆者は同パーティーの実行委員長。

2002年9月 執筆
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