松下政経塾 The Matsushita Institute of
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2002年4月

塾生レポート

小さな村の大きな挑戦 ~鹿児島県三島村のギニア共和国・ジャンベ交流~
白岩正三/卒塾生

 
 本年2月、私は鹿児島県三島村を訪問した。国民参加型国際協力の根幹をなすアクターの一つとして、私は地方自治体に注目していたからであり、自治体の国際協力、途上国との国際交流のユニークな例の視察を行っていたのである。私が最初に三島村の存在を知ったのは大学院時代である。当時私はスコットランドのエディンバラ大学でアフリカ学を専攻しており、日本とアフリカの交流の可能性について調査をしていた。政府や自治体、NGOや企業等の草の根レベルでのアフリカとの交流を調査していた私は三島村とギニアとの交流に遭遇することとなる。自治体としてアフリカと交流をしているところは少ない。日本とアフリカの間での姉妹都市提携も一つは存在するが、この町でさえ事実上の交流は皆無だという。したがって、継続的にアフリカと交流をしている自治体はこの三島村だけであろう。

 当時から私を驚かせていたのは、アフリカと交流をしているという事実だけではない。三島村が人口450人ほどの小さな離島であること、そしてその離島の村の行政が実際に子ども達をアフリカに派遣したということである。大都市でさえ(大都市だからこそとも言えるが)アフリカと交流をする土壌は整っていない。また安全面や衛生面などを考えると、行政が子どもを派遣するということは衝撃的であった。それを小さな離島がやってのけたという記事を読んで、私は非常に強い興味を覚えたのである。

 三島村は竹島(94km)、硫黄島(108km)、黒島(153km)の三島の離島からなる村である(カッコ内は鹿児島港からの距離)。人口約450名、小中学生併せて約60名。少子高齢化のため、学校を維持するためには潮風留学生(山村留学生)を受け入れなければ存続できないという現状があり、高校もない村である。

 私は鹿児島市内にある三島村役場で、担当者からブリーフィングを受けた後、硫黄島に向け出発した。硫黄島は人口約140人、面積は11.78平方キロメートルである。活火山と温泉、そして野生の孔雀で有名な島である。鹿児島港から村営定期船「みしま」に乗り込み約4時間船酔いに苦しみながら、ようやく到着した。硫黄島では、息子がギニアを訪問したという村議会議員にジャンベ交流のさらなるお話を聞きながら、島を案内していただいた。また村役場は私のために三島村小中学校への訪問もアレンジをしてくれ、校長先生と教頭先生からもお話を伺うことができた。そして何よりも、子ども達のジャンベ演奏を聞くことができたことは私にとっては貴重な体験となった。約10分弱の演奏であっただろうか、子ども達の演奏からは彼らのジャンベに対する誇りと情熱、そして愛情を感じ取ることができ、村人がジャンベに魅せられる理由を肌で感じることができた。役場の関係者の話などを聞いている限り、子ども達だけではなく、職員や村人も心からジャンベを愛し、三島村を愛していることが伝わってくる。そしてこの人や村に対する思いやりや愛情こそが、そしてママディ・ケイタや関係者との間に築かれた信頼こそが、村を挙げての交流を成功させている要因となっているのである。

  三島村とギニアとの交流の原点は1993年にさかのぼる。「ジャンベフォラ~聖なる帰郷~」(原題:Djembefola・監督:Laurent Chevalier・制作:1991年 フランス=ギニア=アメリカ合作)という映画が日本で上映されたことがそもそものきっかけである。ジャンベフォラとはジャンベ(西アフリカの伝統的な太鼓)の名人を意味する。ギニア共和国のバランデュク(Balandugu)村出身のジャンベフォラであるママディ・ケイタ(Mamady Keita)は世界的な伝説のジャンベフォラである。彼はギニアがイスラム原理主義国家となった後、国を追われるようにベルギーに渡る悲運に遭う。この映画は20年ぶりに故郷へ帰るママディをドキュメンタリータッチで描いた作品であった。世界中で上映され、高い評価を得た。この作品を見た日本人の間からも、是非彼を日本に招きたいという話が浮上してきた。

 NHKエンタープライズに企画書を提出したところ企画が通り、日本の子ども達との交流を描いた番組を作ることで来日が実現した。ママディ側の希望は「出身地が小さな村なので、同様の村と交流してみたい」とのこと。離島の村に白羽の矢が立ち、当時全離島会長をされていた栗原正村長が誘致を引き受け、1994年に交流の運びとなったのである。

 環境が整ったからといって交流が進むわけではない。心の交流がうまくいくかどうかは、当然、当事者である村民たちの興味次第である。村役場としては、まず小学校をまわり映画「ジャンベフォラ」の上映会を実施した。村役場の努力もあり村人達も関心を示すようになり、子ども達19人が交流プロジェクトに参加してくれることとなった。

 かくして1994年8月、ママディが来島した。毎日4時間ジャンベのリズムを学び、練習を通しながらアフリカ文化や生活スタイルを学ぶこととなる。ママディにジャンベを学んだ19名の子ども達は、ママディとともに奄美大島、広島、岡山とコンサートツアーに旅立つことになる。コンサートでは子ども達は日を追うごとにアフリカの心を理解し、アフリカの言葉で歌を歌うようにもなった。彼らの努力もありコンサートツアーは大成功となる。以来、毎年8月になるとママディは約一週間来島し、村民と交流する。滞在中、昼間は子ども達がママディからジャンベの演奏を学び、夜になると大人達との宴会が始まる。元来人に優しい土地柄だけあって、交流は思った以上の成果を挙げることとなる。三島村において、ジャンベは今や必要不可欠の存在となっている。入学式や卒業式などの学校の行事や、人々の送別時などには演奏がつきものである。

 さて、この成功の裏には三島村役場や村民の多大な努力と、村に対する危機感があった。交流の成功を一度きりで終わらせたくなかった役場職員は交流の継続に向けてその方法を模索することとなった。三島村にとって今回の交流は是が非でも続けたかったのである。その背景には離島につきものの過疎と少子高齢化があった。どうすれば三島村を活性化させることができるのか、どうすれば村人達がいきいきと生活することができるのか。過疎地共通の課題である。

 しかしそれにも勝る問題意識として、子ども達への教育問題があった。中学を卒業するまでの間、島を出る機会といえば、鹿児島市内に出かけて行くくらいなものだ。前述のように村には高校がない。高校生になると多くが鹿児島市内で一人暮らしをし、学校に通うことになる。卒業後は様々な土地で子供達が生きて行くことになるので、島の外で生き抜く力を付けさせる教育も考えなければならない。だからこそ、「自己」を発見し、開放できる機会であるこの国際交流を必ず成功させなければという気持ちが強かったようだ。そして、クーデターで国を追われたママディと、高校生となり島を出ていく子ども達の姿をだぶらせ、故郷を愛する心を育てたいという気持ちもあった。

 言葉にも問題があり、地理的にもずいぶんと遠い。村人の誰もギニア共和国やアフリカに対する知識があるわけでもない。どうすれば継続して交流の場がもてるのか、職員一同悩み抜いたという。その結果、やはり音楽をうまく活用して継続性を持たせることが得策だろうということになった。まずはジャンベの指導者を養成しようと、村役場有志でジャンベバンド「アイニケ」(ママディの部族語のマリンケ語で称賛の「よくできました」の意・鹿児島弁の会いに来ての「会いにけ」の意を込める)を結成した。そして、学校のゆとりの教育や放課後のクラブ活動などを利用して、積極的に子ども達の指導にあたったのである。子ども達は音楽を通して、異文化を学び、そしてまた村の良さを再認識する。三島村の人間として誇りを持ち、大きく成長していくこととなる。ジャンベ交流は様々な波及効果を生むこととなり、村としても大きな財産となった。島民間、三島村三島間の結束の強化、島の外部との交流がそうである。三島村=ジャンベ交流、三島村=アフリカ交流という図式も浸透し、三島村の宣伝や活性化にも大きな役割を果たしたのである。

 さて、私は国際交流で必要なものは継続性と双方向性だと考えている。三島村の継続性は十分であり、また継続の度に発展しているとさえ言える。問題は双方向性であった。ママディの毎年の来村にどのように応えるべきなのか、ママディからは是非子ども達をギニアに連れていきたいという声もある。果たしてこの声に応えて子ども達をギニアに送ることは可能なのだろうか。交流に携わる村役場の職員達は、是が非でもギニア共和国訪問を実現させたかった。しかし壁は厚い。ギニア共和国の情報はママディ経由のものしかない、危険度もわからない。そのような中、行政の立場で現地訪問を進めることができるのであろうか。不安は募るばかりであった。

 1997年12月、職員の熱心な要請に、そこまで言うならと、村長は職員の事前視察を許可した。まずは職員が現場を訪問することで、派遣の可能性を視察してこいということである。そして職員3名が派遣された。悪天候やアクシデントも手伝って、片道19時間の旅の末ようやくギニア共和国コナクリ国際空港に到着する。空港から3日間の車の旅の後、ようやく目指す交流の地バランデュク村に到着した。ガスも電気も水道もない村である。日本の生活からは想像できない暮らしとなるであろうことは容易に予測できた。しかし相互交流を実現するためにも、子ども達に自己のルーツを探る機会を与えるためにも、そして何よりも三島村の発展のためにも訪問は必ず実現させなければならない。大きな不安はあったが、バランデュクの村人達の暖かい、そして力強い歓迎は成功への自信へともつながった。

 視察は無事に終えたものの、いざ子ども達の派遣となるとまだまだ問題点は多い。情報もまだ十分ではない。最終決断を下す村長も大きな不安は感じていた。しかし最終的にはママディの人柄を信じてゴーサインを出すこととなった。不安以上に、毎年接する彼との信頼関係が十分に築けていたからである。

 子ども達のギニア共和国訪問はその一年後、1999年1月に実施された。今回の訪問の募集対象は体力的なことも考慮して中学生にしぼられた。受験を控えた3年生は対象から外し、村内4中学校から1名ずつを募集した。中学生4名(男子生徒3名・女子生徒1名)に加え、役場職員2名。そして不慮の病気等に備え医師と看護婦も同行することとなった。

 訪問期間は2週間。前述のような過酷な旅路のため、実際の村での滞在期間は5日だけとなった。子ども達は度重なるアクシデントにも耐え、自らの体力と勝負しながらも目一杯、ママディの故郷を楽しんだ。毎日村の子ども達とともにママディのジャンベ指導を受け、最終日には村人を集めて合同演奏会も催された。村人達は歓喜の拍手を送り、ママディは歴史的な瞬間であると感動した。これが三島村に吹くジャンベの風を一層強くしたことは言うまでもないが、実はバランデュクにジャンベの風を吹かせるのにも大きく貢献したのである。

 三島村の子ども達の滞在中、前述したようにママディは三島とバランデュクの子ども達に同時にジャンベ演奏を指導していた。しかし残念なことに、ジャンベ文化が浸透していると思われていたバランデュクの子ども達は演奏をしたことがなかったのである。ママディが村を出ている間、ジャンベ文化は風前の灯火となっていたのである。今回のバランデュクでのジャンベ交流は、バランデュクの人々に改めてジャンベの大切さを示すこととなった。三島村の子どもたちのルーツ探しの旅はまた、バランデュク村の人々のルーツ探しのきっかけを与えたのである。

 残念ながら、子ども達のアフリカ訪問はその後開催されていない。しかし、三島村のジャンベやギニアに対する想いはしっかりと引き継がれ、発展している。2000年8月には鹿児島県の霧島国際音楽ホールにて、ママディとのジョイントコンサートが行われた。また、2001年8月にはEUジャパンフェスト(EUと日本の文化・芸術交流祭)の企画の一環としてドイツ3箇所にてママディと公演ツアーを開催した。2002年2月には鹿児島県中学校音楽コンクールに隣の竹島の中学生とともに共演した。このようにジャンベの輪は三島から鹿児島へ、そして世界へと広がっているのである。

 さて、今年ももちろんママディは来日する。この交流の輪をさらに大きくするために、三島村は将来にむけて様々な構想を練っている。その一つが「体験型観光」である。このプロジェクトには国土交通省の支援もあり、三島村は2001年には離島ツアー交流推進支援事業の候補地にもなった。国土交通省はそのモニターツアーの報告書の中でこう述べている「自然景観の観光資源だけではなく『ジャンベ演奏』の質の高さと島ぐるみでの取り組みシステムは、有効な観光資源として交流型催事として若年層からシニア層まで若い女性からファミリーまで幅広い客種対象の観光誘客の武器として活用できると考えられる。」

 アメリカ、ヨーロッパにしかないジャンベ学校をアジアの拠点として三島村に作りたいという構想もある。ジャンベワークショップの積極的な開催などは、ブルー・ツーリズム(漁村滞在型余暇活動)とともに、離島の活性化、観光強化にもつながるであろう。

 国際交流とは何も異文化を伝え合うことだけではない。異文化理解や交流を通じて、相手との信頼関係や愛情を育み、自らも学び、そして自らを成長させるツールでもあるのだ。三島村のジャンベ交流はそういう側面からみても大成功を納めている。音楽に国境がないように、故郷を愛する気持ちや他人をもてなす気持ちにも国境がないということを肌で感じ合っているようだ。

 私は今回の訪問を通して、わずか450人の村に「国際派」を感じた。国境や国籍を越え、相手を尊重し、心からもてなす心をお互いが持つことこそが真の国際交流であり、そしてその交流ができる人物こそが真の国際人であろう。三島村の今後の活躍に大いなる期待をするとともに、交流を経験した子ども達が今後日本社会をどのようにリードしていってくれるのか非常に楽しみにしている。最後に私の訪問を可能とし、情報提供など様々な側面で私をサポートしていただいた、三島村役場のみなさん、三島小中学校の中西校長先生、辻教頭先生、そしてジャンベ演奏をしてくれた子ども達、三島村議会の大山辰夫氏に心から感謝を申し上げるとともに、関係者のみなさまのジャンベ交流にかけるご尽力に心から敬意を表したい。

<参考文献>

2002年4月 執筆
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