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素朴な気づきを宗家研修で得させていただきました。お客様大事ということです。入塾以来、何の基礎知識も経験もない状態から、中島業躰、紺谷・加藤両先生のご指導のもとお点前の基礎を学ばせて頂いていたこの8ヶ月間は、ただただ所作を覚えることのみに意識が集中していました。床の間に生けてある花や、重菓子などに情趣を感じることもできずに、お茶を立てて、お客様に対して差し上げていました。結局のところこの本来の茶道研修から学び取らなければならないほんの一部のものを習得するだけで精一杯だったのです。まさに、自分が大事と言う状態でした。プレゼンテーション講座で学習したことを茶道に適用しますと、【うまく出来なかったらどうしよう】という隠された議題を持ちつづけたために、意識が自分の内面に向きすぎでいたということになります。このようにして、茶道研修は進みました。
京都での宗家研修の一日目に、千利休が求めた茶道と、それまでの茶道の違いを教えていただきました。利休以前のお茶と、それ以後のお茶の圧倒的な違いは、道具でもお客様のためにお茶を立てるという点であることです。この本質的な原点を教えていただいた時、茶道に対する見方が変わりました。筆舌に尽くしがたい感覚というものを言葉や文字で表現しようとした時、それは時として的外れなものになりがちですが、今回の宗家研修ではまさにそういった「気づき」の連続でした。
お点前という型を教えていただいている、また覚えているにもかかわらず、茶道には定型というものがないという直感を得ました。ただひたすら、お客様に対するおもてなしの心をもち続けるということだけではないでしょうか。相手の心を理解しようとすれば、自然と自分の心が、相手の心に入ろうとするために、自己の存在から離れていきます。自己の存在から離れると言うことは、自己の存在の理由がお客様にゆだねられているわけですから、お客様は完全に精神的に自由な状態になることが出来るのではないでしょうか。自由とは自己存在の理由を発見する若しくは理由に気づくことにほかなりませんから、このような連続体験を通じることによって、茶の道の理解が深まっていく気がしています。2日目、茶室の掛け軸に「無一物無尽蔵」というものがありましたが、無一物な精神状態を保つためには、所作は定型であるけれども、その型は、生物が呼吸をするように無意識のうちに身についていることが必要で、そこにはじめておもてなしをする精神的な準備ができるのだろうと思いました。そしてそのような境地に至ったときに、おもてなしの心は尽きることがなくなるのではないでしょうか。
「近年の日本人は、日本が持っていた独自の歴史・伝統・文化を忘れてしまっていると言うよりむしろ意識したことがない。」というような言い回しの言葉は良く耳にするし、実際に自分自身もそう思ってきた。しかし、今回の宗家研修で私は初めて、日本の伝統文化を実感できた。生まれが京都であるため、子供の頃から神社仏閣などには親しみもあったし、日本史も学んだ。しかしそれらには自発性が全くなかった。
そこには好奇心が存在していなかったのだ。今年度、私は幸運にも裏千家のお家元に直接お会いでき、お話をお聞かせいただく機会を得たのだが、今回の感情の高ぶりは、これまでいろいろな先人にお会いした時のものとはかなり趣が異なっていた。
なぜだろう。おそらくそれは、入塾以来の茶道研修によって、自分がいかに日本人としての精神的な「拠り所」を渇望していたかと言うことの現れだったからではないか。
今回の研修で、和服を仕立てていただくことにした。すべては実感から始まるとおもったからだ。今後も日本の伝統や文化を抵抗感なく自然に実感できる日々を求めていきたいと思う。
家元の仰る通り、日本のことを知らないで、国のことを知らないで、国とのかかわり「国際」を語ることはできないのだから・・・。
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Yukio Saito
第22期
さいとう・ゆきお
有限会社鹿屋電子工業 経営戦略室