Thesis
「このままでは日本は沈没する」
もし、松下政経塾の塾主であり、現パナソニックの創業者である松下幸之助が、2025年の今日を生きていたとしたら、彼はきっとこのように、日本社会と日本人に強く警鐘を鳴らしていたのではないだろうか。
松下幸之助は、一代で松下電器(現パナソニック)を世界的企業へと育て上げた「経営の神様」と称される人物である。その関心は企業経営にとどまらず、晩年にはPHP(Peace and Happiness through Prosperity)思想のもと、繁栄を通じた世界の平和と幸福を願い、幅広い分野において政策提言を行った。そして、自らの志を継ぎ、日本の未来を担う人材を育てるべく設立したのが、私たちが学ぶ松下政経塾である。
昨2024年は松下幸之助の生誕130年の節目の年であった。そして彼が生きた時代から数十年が経過した今、私たちの社会は本当に前進していると言えるのだろうか。新たな技術が次々と誕生し、物質的な生活は確かに豊かになった。しかしその一方で、日本は未解決の課題を数多く抱えたままであり、加えて新たな社会問題も次々と生まれているのが現状である。
本レポートでは、「もし松下幸之助が今も生きていたならば、現代の日本と日本人に対して何を訴えたであろうか」という視点から、現代社会が抱える問題、なかでも国民の関心が高い少子化問題に焦点を合わせ、松下の思想に照らしながらその解決の糸口を探っていく。そして、日本の未来をどう切り拓くべきかを考察するものである。
「静かなる有事」。少子化問題は、そう形容されることがある。
2025年6月初旬、厚生労働省が発表した最新の人口動態統計[i]によれば、2024年の出生数は68万6,061人となり、統計開始以来はじめて70万人を下回った。また、合計特殊出生率は全国平均で1.15とこちらも過去最低を更新した。これは政府の予測よりも15年早く、深刻な事態である。2060年には日本の総人口が1億人を割り込み、8,000万人台に落ち込むと見込まれているが、このままの推移が続けば、それすら前倒しになる可能性も否定できない[ii]。
少子化がもたらす影響は、大きく2つの側面に分けられる。
第1に、経済の縮小である。厚生労働省によると、2060年には65歳以上が人口の約40%を占めるようになるという[iii]。これにより労働人口が大幅に減少し、国家の生産力は著しく低下するだろう。その穴を埋めるには、まずはデジタル技術を最大限活用し、人間が担う作業を効率化することが不可欠となる。さらに、労働力の補完策として、移民の受け入れも現実的な選択肢となるだろう。
また、人口減少によって国内市場は自然と縮小し、日本経済の基盤である内需は大きく揺らぐことになる。かつて日本は、人口の多さを背景とした一定規模の国内需要に支えられ、2000年代までは世界第2位のGDPを誇ってきた。しかしその後は、新興国やグローバルサウスの台頭と相まって、国際社会における日本の経済的影響力は低下傾向にあるとされる。
第2に、社会保障制度の持続可能性が脅かされる点がある。現在の日本は、OECD諸国の中でも比較的高水準の医療・福祉制度を整備しているが、今後、高齢者の割合が40%に達すれば、残された50%以下の現役世代がその医療・介護費用を支える構造になる[iv]。これは制度自体の維持を困難にし、誰もが平等に医療にアクセスできるという社会の基本的前提が揺らぎかねない。
もちろん、少子化は先進国共通の課題であり、日本だけの問題ではない。しかし、日本の少子化の進行は特に急激であり、世界中がその対策に注目しているのも事実である。
まさしく、少子化は日本の国家運営の根幹を揺るがす「有事」である。いま対策を講じなければ、日本という国そのものの持続可能性が失われかねない。
松下幸之助が活躍した時代は、まさに日本が人口ボーナス期の只中にあった。
1971年から1974年にかけては「第2次ベビーブーム」と呼ばれ、年間の出生数は200万人を超えていた[v]。1967年に総人口が初めて1億人を突破して以降、2008年の人口ピークに至るまで、日本の人口は一貫して増加傾向にあった[vi]。一方で、出生数は1970年代のピークを境に減少に転じており、1990年には人口を持続的に維持するために必要とされる人口置換水準[vii](合計特殊出生率2.07)を下回った[viii]。
しかし当時の社会における主な懸念は、減少する出生数よりも、むしろ人口の急増がもたらす過密化や生活環境の逼迫にあった。松下が1976年に発表した「新国土創成論」は、まさにそのような問題意識から生まれた提言である。この中で松下は、国土の約70%を占める森林・山岳地帯のうち、およそ30%を生産可能な土地として活用すること、そして海岸線の埋め立てを通じて居住・生産エリアを拡張することを主張した。
彼はこの国土拡張によって都市の過密を解消し、ゆとりある生活空間を実現すると同時に、生産可能エリアを増やすことで食料自給率の向上にもつなげようとした。
さらに松下は、日本の人口は将来的に2億人規模が理想であると述べており、新国土創成論はその受け皿を整える構想でもあった。その背景には、当時の継続的な人口増加傾向に対する現実的な期待があったと考えられる。
このように、松下の時代には少子化への切迫した危機感はほとんど存在せず、彼自身も少子化について言及することはほぼなかった。むしろ、当時の国家的課題は、膨張する人口への対応であり、それに応じた国土の再構築であった。
では、松下幸之助が2025年の日本に生きていたならば、急速に進行する少子化問題をどう捉え、どう対応しただろうか。
私の考えでは、松下はこの問題を「国家の存亡に関わる有事」と位置づけ、必ずや自らの提言活動を通じて根本的な解決に取り組んだはずである。そう考える根拠は、以下の三点に集約される。
第一に、経営者としての視点である。企業経営者にとって、国内市場の縮小や労働力の減少は、企業経営にとって致命的なリスクであり、最も避けるべきシナリオである。経済全体の停滞は企業の成長を阻むものであり、国家の未来にも暗い影を落とす。
第二に、政治的提言者としての姿勢である。労働人口の減少は単に生産力の低下をもたらすだけではなく、税収の減少を通じて国家財政を圧迫し、必要な分野への投資や支援が難しくなる。[1]結果として、国のガバナンス機能が弱体化し、安全保障を含むあらゆる分野で危機的状況を招くおそれがある。
第三に、愛国者としての信念である。松下は日本の伝統的な文化・思想・芸術を敬愛しており、新しい世代が減少すれば、それらの伝統を継承し支える担い手もまた失われていく。日本という国の精神的基盤が将来的に失われることに、松下は強い危機感を抱いたに違いない。
では、その松下が現代の日本に向けて提言を行うとすれば、どのような政策を掲げただろうか。私は、彼が提示したであろう政策パッケージを「新・日本繁栄論」と名づけ、以下の三つの柱に整理した。
1.ダイバーシティー立国
松下は、「生々発展」や「日に新た」といった言葉を好み、常に進歩し続ける姿勢を重視していた。また、創業期のパナソニックでは、自ら発明家として新製品を次々と生み出すなど、古い価値観にとらわれない柔軟な思想を持っていた。さらには、日本で初めて海外に習い、週休二日制を導入したのも松下である。
このような松下であれば、現代社会においても、一人ひとりが自分らしく、与えられた天分を活かし、生成発展に資するような社会づくりを提唱するに違いない。例えばライフスタイルの面においても、結婚を選ばない人、子どもを持たない選択をする人、あるいは非婚のまま子どもを育てる人など、自由と多様性を尊重すべきだと訴えるだろう。したがって、少子化対策だからと言って「産めよ、育てよ」という一義的な価値観を推奨することはないはずだ。
松下が現代に生きていれば、育児や家事におけるジェンダー不平等を是正するため、男女問わず育休取得を義務化する制度や、企業・地域コミュニティ単位での育児支援の整備、さらにはマタニティハラスメントの根絶に向けた制度をいち早く自身の会社に導入するだけでなく、法整備なども国に提言すると思われる。
2.こども無負担・無税国家
現代の日本では、子どもを育てるには経済的負担が大きすぎるという現実がある。こども家庭庁の発表によると、カップルが希望する子ども数を実際には持てない理由の最も多く(52.6%)が「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」だという[ix]。事実、民間の調査によると、子どもを22歳まで育てるのにかかる費用は国立大学に進学した場合でも約2780万円かかるとされている[x]。2026年から出産費用が保険適用となり無償化される予定ではあるが、高等教育以上の学費や塾代など、その他の費用は依然として大きな壁となっている。
松下であれば、こうした状況を打開するため、子育てにかかる費用の完全無償化を進め、さらに子育て世代からの所得税を免除する制度を打ち出したであろう。実際に、ハンガリーでは4人以上の子どもを持つ母親に対して所得税を生涯免除とする政策がすでに導入され、今後は2人以上にまで拡大される予定である。[xi]
松下ならば、このような先進事例を参考にしつつ、日本独自の形で「子ども無税国家」のビジョンを提示したに違いない。
3.DX立国
たとえ少子化対策が功を奏したとしても、かつてのような急激な人口増加は現実的ではない。そこで松下は、デジタル技術やAI、ロボティクスを活用することで、人の労働を補完し、効率化と生産性の最大化を図る社会を構想するであろう。
松下にとって、テクノロジーは人間の代替手段ではなく、人間がより創造的な分野に専念できるようにするための「経営資源」であった。限られた労働力をどう補うかという視点から、彼は技術革新を新たな商機として積極的に捉えたに違いない。
以上の三本柱を軸に据えた「新・日本繁栄論」は、少子化という国家的危機に対して、松下幸之助が現代日本に向けて遺したであろう包括的な提言である。
松下幸之助が生きていた時代から50年が経ち、社会は大きく変化した。高度経済成長の終焉後、少子高齢化と人口減少が深刻化し、従来の家庭像や終身雇用は過去のものとなった。今、日本の最大の課題の一つが少子化であり、労働力不足や経済縮小、社会保障や文化継承の危機を引き起こしている。だからこそ、松下が示したように、国家の根幹を揺るがす問題に真摯に向き合う姿勢が求められる。
本レポートでは、「もし松下幸之助が現代を生きていたら、少子化という問題をどう捉え、どのような提言を行っていただろうか」という視点から、彼の思想を手がかりに現代社会の課題を読み解いてきた。そして導き出されたのが、「多様性の尊重」「子育ての無償化・無税化」「テクノロジーの最大活用」という三つの柱からなる、私なりの『新・日本繁栄論』である。
ここで松下政経塾の五誓にある一節を紹介したい。
「一、先駆開拓の事
既成にとらわれず、たえず創造し開拓していく姿に、日本と世界の未来がある。
時代に先がけて進む者こそ、新たな歴史の扉を開くものである。」[2]
塾主・松下幸之助が私たち塾生に求めたのは、従来の「あたりまえ」に縛られず、新たな発想と行動で社会の難題に挑むことであった。松下政経塾で学ぶ私たちは、少子化問題を含むあらゆる社会課題に対して、多様な視点と柔軟な発想をもって取り組み、新たな時代を切り拓く責務を担っていることを胸に刻み、日々の研修に励みたい。
[1] なお松下は、国家財政においても企業同様、剰余金を積み立てて運用することで財政の安定化が実現するという無税国家論を提唱した。
[2] 引用:松下幸之助「松下政経塾 五誓」.
https://www.mskj.or.jp/about/oath.html
[i] 厚生労働省, 2025, 「令和6年(2024年)人口動態統計月報年計(概数)の概況」(取得日2025年6月15日,
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai24/dl/gaikyouR6.pdf).
[ii] 厚生労働省, n.d.,「我が国社会保障制度の構成と概況:日本の人口ピラミッドの変化(図表)」(取得日2025年6月15日,
https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/shakaihoshou/dl/08.pdf).
[iii] 厚生労働省, n.d.,「我が国社会保障制度の構成と概況:日本の人口ピラミッドの変化(図表)」(取得日2025年6月15日,
https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/shakaihoshou/dl/08.pdf).
[iv] 厚生労働省, n.d.,「我が国社会保障制度の構成と概況:日本の人口ピラミッドの変化(図表)」(取得日2025年6月15日,
https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/shakaihoshou/dl/08.pdf).
[v] 厚生労働省, n.d,,「図表1-1-7 出生数、合計特殊出生率の推移」(取得日2025年6月15日,
https://www.mhlw.go.jp/stf/wp/hakusyo/kousei/19/backdata/01-01-01-07.html).
[vi] 国土交通省, 2012,「国土交通白書(平成24年版)第1部第1章1節:人口減少社会の到来」(取得日2025年6月15日,
https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h24/hakusho/h25/html/n1111000.html).
[vii] 厚生労働省, n.d.,「第1節若者を取り巻く社会経済状況の変化」(取得日2025年6月15日,
https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/15/dl/1-00.pdf).
[viii] 厚生労働省, n.d,,「図表1-1-7 出生数、合計特殊出生率の推移」(取得日2025年6月15日,
https://www.mhlw.go.jp/stf/wp/hakusyo/kousei/19/backdata/01-01-01-07.html).
[ix] こども家庭庁, n.d., 「第2部我が国おけるこどもをめぐる現状」(取得日2025年8月12日,
https://www.cfa.go.jp/assets/contents/node/basic_page/field_ref_resources/26eaf394-b81d-4778-8303-eeb3d28c89c2/60425ddc/20250611_resources_white-paper_r07_06.pdf).
[x] ベネッセ教育総合研究所, 2023, 「【保存版】子育てに必要な費用はいくら?未就学~大学までにかかる費用や制度を解説!」(取得日2025年8月12日,
https://benesse.jp/kosodate/201509/20150910-2.html).
[xi] 産経新聞, 2025年, 渡辺浩,「2人以上子供がいる母親は所得税を生涯免除 ハンガリーの「異次元対策」をマスク氏が称賛」, 2025年2月26日(取得日2025年6月15日,
https://www.sankei.com/article/20250226-YMOV54YOP5HBBM3RWYDG6XJMPI/).
Thesis
Hinari Hosoda
第46期生
ほそだ・ひなり
Mission
すべての人が自分らしく生きられる社会環境作り