論考

Thesis

『人に心を、国に指針を』 ~全ての礎は教育にあり~

問題の本質は何かを見極め、本丸に手を打たなければ改革は成功しない。改革に成功した経営者が語るその要諦である。では、我が国にとっての本丸は何なのか。私は、何にもまして教育であると思うのだが。

1.はじめに -教育への思い-

 昨今の日本をとりまく社会問題は目を覆いたくなるような恥ずべき内容が多い。犯罪の凶悪化や低年齢化だけでなく、若者の礼儀やマナーの悪さに至るまで、かつての真面目で勤勉な日本人像はどこへ行ってしまったのかと思う状態である。これについては、「近頃の若者は」と言われるように、若者に対して批判の目が向けられることが多いが、実際は若者に限らず、老若男女に言えることであろう。一体日本に何が起きてしまったのだろうか。

 戦後の復興期から高度成長を経て、経済中心に発展してきた日本が何かを忘れてきてしまったと多くの日本人が指摘してきている。坂の上の雲を超えた日本が、新たな時代に入り、これから課題先進国として混迷の社会を抜け出さなくてはならない難しい環境下にあることも納得がいく。しかしながら、グローバル社会において日本のプレゼンスが低下してきていることは、単に経済の観点からのみ語られるべきことではないであろう。日本が忘れてきた何かこそ、国家観であり、その希薄さが多くのひずみを生みだしてきているように思えてならない。

 政治に目を移せば、首相や閣僚が次々に変わり、政治のリーダシップが欠如していると国民の多くが思っていることであろう。経済が上向きの時には覆い隠されていた問題点が、この時代に入って表面化してきたと言っていい。同時に、省益あって国益なしと言われる官僚のセクショナリズムや滅私奉公の覚悟の希薄化などもまた同じであろう。

 危機の時にこそ真価が問われるものであり、混迷の時期に入った日本においてはまさに今こそこの国をけん引する人材が求められているはずである。しかしながら誰もが突破口を見出せないのは、まさに国家観が希薄になっているからなのではないだろうか。このような状況下においては、多くの政治課題や社会問題にどんな政策を打っても場当たり的で効果が薄い。立法する側である政治家が、運用する側である公務員が、ひいては、それを受け止める国民が、国家観や公益心を持たずしては、どんな政策も制度も金も何の意味も持たないと強く思うのである。

 そうして国家の危機を思えば思うほど、つまるところ教育の必要性や重要性にいきつくのである。どう考えても、一に教育、二に教育、三四も教育、五も教育であると思うのである。だからこそ、事業を営む家に生まれ、経済学を勉強し、金融機関で働いてきた私が、行きついた結論が、教育で日本を良くしなければならないということなのである。

2.教育の理念 -予防と対処-

 私は、教育とは人の道を教えるところであると考えている。そしてそこに様々な環境要因が加わり、右に行ったり左へ行ったりしながらも、人の道という一本の道を頼りに、それでも少しずつ前に進んでいくことで人間が形成されていくと思うのである。

 大切なのは、目指すべき方向性と、その環境なのである。だからこそ、私自身も人の道とは何か、日本人としての在り方とは何かという理念を求め、「武士道」に行きつき、同時に子供の人間形成に最も有用な環境とは何かを考え、「地域教育」の重要性を確信するに至ったのである。

 なぜ教育に武士道なのか。なぜ単に道徳ではいけないのだろうか。私自身も、この問いにずっと向き合いながら自分なりの解釈を求めることができたのは、松下幸之助塾主の人間観による気づきがあったからである。

塾主は、その著書『人間を考える』の中で、このように新しい人間観を提唱している。

『人間には、この宇宙の動きに順応しつつ万物を支配する力が、その本性として与えられている。人間は、たえず生成発展する宇宙に君臨し、宇宙にひそむ偉大なる力を開発し、万物に与えられたるそれぞれの本質を見出しながら、これを生かし活用することによって、物心一如の真の繁栄を生み出すことができるのである。かかる人間の特性は、自然の理法によって与えられた天命である。この天命が与えられているために、人間は万物の王者となり、その支配者となる』

 人間は生まれながらにして万物を活かし活用する天与の特質を与えられている。だからこそ、人間は大いなる使命をもって世界のために生成発展の道を歩まねばならない、という非常に強い責務をもった性善説を唱えているわけだが、裏を返せば、全員が万物の王者たることができないからこそ、努めて強くあらねばならないと述べているのであろう。

 塾主の言葉には、「それもまたよし」という文意の言葉が多い。困難や不完全な状態をも受け止めて、それをより良くしていく、生成発展していくことが大切だと説いている。

 私は、人間の道徳心もまた同じなのではないかと思うのである。人には道徳心が必要不可欠であることは言うまでもない。しかしながら、世の人全てが道徳心にあふれているということもあり得ない。だからこそ、道徳心を育てることが、非道徳的な感情を持たないように、行為に及ばないように心を育てることが求められるのであり、まさにそれこそが「道徳」なのである。

 例えば、いじめは許されない行為である。絶対になくさなくてはならない。しかしながらいじめがゼロになることはない。だからこそ、いじめをする人間にならないようにするのが道徳の大切さである。つまり道徳とは、発生防止、予防の概念であると私は考える。

 一方で、ある意味においては「いじめもまたよし」であるとも言える。社会に出れば辛く厳しい環境下に置かれることは人生の中で何度もあるだろう。様々な人間がおり、嫌な思いをすることも少なくはない。そんな時に力になるのは、同じような辛い体験をどれだけしてきたかということだろう。「苦労は買ってでもせよ」というように、厳しい環境は人を強くするいい経験の場なのである。そう思えば、厳しく辛い環境も一面ではまたよしとなるのである。つまり、この痛みや苦しみ、辛く厳しい現実を自分で戦い乗り越える力、すなわち生き抜く力こそ人間が人の道を全うしながら生きていく上で重要な能力である。これまでの教育では、豊かになり子供に苦労をかけまいという親心や大人心から、子供が育つ環境の中で極力厳しく辛い環境を排除し、優しく温かく個人の自由を尊重できる快適な環境を作ってきたとも言える。これが、道徳心の欠如と同時に、困難に立ち向かう生き抜く力を弱体化させてしまった要因であると考えるのである。

 単なる道徳心に留まらず、その中でもこの混迷する社会を人の道を守りながら生き抜く力こそ武士道の心であり、今の世の中に欠けてしまっている重要な対応、対処の概念であると思うのである。だからこそ、私は道徳心の育成だけでは足りず、生き抜く実践力や気概ある心も同時に教育することで、日本国のために、世界のために生成発展の道を進むことのできる人間がまた生まれてくると思うのである。

 こういった理念から、私は先のレポートの中で、「学校・家庭・地域」の三位一体の教育環境の整備が重要であるのはもちろんのこと、それぞれの環境における役割として、学校は厳しい環境として、家庭は温かい環境として、そして地域は実践の環境としてあることが理想的であるとし、私のテーマである「武士道の国」を創る上でも、地域教育がとりわけ肝になってくると述べてきたのである。

3.地域教育への具体策

 この教育の三環境を改めて見ていくと、家庭においては、核家族化が広がる中で、両親や兄弟姉妹だけの気のおけない人間だけの環境であるといえる。また、学校においても、同じ地域に住む同じ年の固定化された人間だけの環境である。しかしながら、地域においては、様々な世代の人間が存在し、様々な職業に従事する十人十色の人生観を持った人間が存在する環境である。家庭や学校で学んだ多くのことを具体的に実践する小さな社会としての地域の役割は非常に大きいものと言える。だからこそ、できるだけ小さい時から社会に触れ、大人の背中から人間としての生き方や日本人としての道徳心を体得していかなければならないのである。

 それでは、実際に地域教育を具体的に進めていくにはどのようなアプローチをとることができるのだろうか。

(1)道場の活用

 一つは、まちの道場の有用性である。

 地域の武道場や芸道の稽古場などがその道場に当たる。武道や芸道は、日本の心や道徳心、武士道の心を育み次世代に継承してきた大切な人の道、日本人の道の語り部である。戦後の占領下では、これまでの価値観が否定され、多くの日本らしさを制限された。武道や芸道また然りである。しかしながら、そんな中でも、静かに自らのかたちをしっかりと守ってここまで継承されてきたこの「道」には、現代人が忘れかけている大切な心が凝縮されているのである。そうした武道や芸道を幼い時から学ぶことは非常に大きな意味があると考えるのである。同時に、道場には様々な人生を送り、其々のバックボーンを抱えた多くの世代の人々が集まる場所でもある。家庭や学校ではなかなか得ることのできない環境がそこには存在するのである。人としての道や日本人としての道を武道や芸道を通して、多様な人間の存在する環境の中で学び取っていくことは、最も優れた教育環境であると思うのである。

 こういった道場は、各地域に非常に多く存在しており、初等教育における授業の教室としてこれらを活用することが望ましいと考えている。私は、こうした地域の道場への地域授業を皮切りとして、様々な科目を地域の教室で地域の先生に教えて頂く環境をできるだけ多く作りたいと考えている。学校の授業半分、地域の授業半分というくらいまで広げていくことができたならば、日本人が日本人を育てるという観点に立って、大人は大きな責任を自覚し率先垂範するようになり、子供たちもそんな大人の背中に憧れて自律し自立するようになると思うのである。しかしながら、予算の問題や人材の問題、授業時間の問題や安全の問題などなど、できない理由を挙げればきりがない。いずれにしても、まずは、何も学校だけが人を教えることのできる教室ではないということを、私たち大人が柔軟に考えていくことから始めなければならないのであろう。

(2)先人の活用

 もう一つは、地域の先人の活用である。

 それぞれの地域には、郷土が誇る偉人がたくさん存在している。何百年も前にその地域の礎を作り、人々を救い、日本に明るい希望の道標を示してくれた先人たちの存在は、何よりもすばらしい地域資源であるといえよう。

 そういった地域の偉人の功績を称え、その心を後世に伝えていくことはそのまま、人の道や日本人の道を伝えていくということではないだろうか。授業科目としての歴史が嫌いな人も多いだろうが、自分の生まれ育ったまちの偉人となれば、身近に感じることができるのではないだろうか。身近な人を尊敬し、憧れ、誇るということができれば、自然と自分の郷土を誇ることができるようになる。

 愛知県の東海市は江戸時代の儒学者である細井平洲の出生地である。平洲は、私塾「鷗鳴館」や藩校「明倫堂」によって上杉鷹山をはじめとする多くの人材を育成した日本が誇る教育者である。東海市では、地域の偉人である細井平洲を教育やまちづくりに活かしており、先人を活かした地域教育のパイオニアである。平洲の哲学である、知識の実践を重んじた「学思行相須つ」という教えを軸に、小中学校の道徳の授業なども通じて子供たちに継承し、様々なまちづくりにも活かされているのである。

 東海市は、中部圏最大の鉄鋼基地であり、その産業政策から鉄鋼関係の企業誘致によって、一時は住民の6割以上を流入者で占めていた。それ故、郷土に対する愛着もなく、地域としてのまとまりも希薄で、治安もあまり良くなかったという。しかしながら、地域の偉人である細井平洲をまちづくりの中核に据え、その教えを教育やまちづくりにおいて浸透させていったことによって、非常にまとまりのある郷土心あふれる住民によって作り上げられるまちへと発展していった。何十年もかけて、平洲の教えを広め続けたことが、大きな効果をもたらした成功の要諦であったと言えよう。

 東海市では、このような取組を全国に広げていこうと、「ふるさとの先人をまちづくり、人づくり、心育てに活かす」ということをコンセプトに、全国から多くの自治体の参加を受けて(平成23年度現在13自治体が加盟)鷗鳴協議会を設立し、その成功の要諦の共有や情報交換を行う組織を先導している。

 私自身も、この鷗鳴協議会で研修をさせて頂き、まちづくりの要諦を掴むことができたと同時に、地域の先人を活かした教育はすぐにでも始めることができる非常に効果的な地域教育であると確信するに至り、自分の郷土である埼玉県入間市の地域の先人を教育に活かすことができないか、計画し協議している最中である。

4.実践活動 -理念をかたちにするために-

 このように、教育の理念やあるべき姿を模索し、具体的方策を考えてきた。そして、まさに「学思行相須って良となす」というように、それを実践しなければならないと、これまで様々な取組を行ってきた。

 私は、文武両道の人づくりをすべく、小平市にある空手道場においてその実践を行っている。心技体とよく言うが、体を鍛え、技を磨くことはもちろんのこと、その心の育成に重きをおいて、武道から何を学ぶことができるかということを中心に、その環境づくりやきっかけづくりを進めている。道徳の授業やセミナーを開講し、地域の清掃活動や福祉施設へのボランティア活動など、社会活動に積極的に取り組むと共に、子供たちが主役となって企画や立案をして地域のお祭りを運営し、実際にお金に触れて売上や経費を計算して利益を生み出すことの大変さを学ぶ経営体験など、道場が一つでも多くの経験を積む場となってもらいたいという思いで、単なる空手道場に終わらない教育環境を作ろうと師範一同努力しているところである。

 つまり、武道の心を実社会にどう活かすかということを道場という場で学び取ってもらいたいのである。道場では規律正しく礼儀正しい君子でありながら、普段の生活の中で挨拶もできない、他人を思いやることもできない、やりたい放題しているようでは何の意味もない。武道とは何を学ぶものなのかと問われれば、まさに「生きる」ことを学ぶのだと答えよう。武道の道は全ての道に通じている。道場の内外で様々な経験を積む中で、武道の教えと日常生活での在り方が一致していく気づきを与えることこそ、最も重要かつ難しいところであると考えている。

 実際に、教育基本法の改正に伴って、来年度から全国の中学校で武道が必修化された。これには指導者の問題や授業時間の問題などから、その効果に疑問が投げかけられてはいるものの、国家の方針として大切な武道の心を教育していこうという方針がかたちになったという点においては、非常に大きな一歩であると考えている。あとは、これを私たちがそれぞれの地域においてどう運用していくかが明暗の分かれ目となってくるであろう。

 ぜひともこれをいい機会として、私が掲げた地域教育における道場の活用へと広げていきたいと思っている。

5.苦悩と確信 -てんでんこの理念-

 実際に具体的方策をかたちにしようと実践活動を進めていくと、多くの困難や課題が見えてくる。

 道場の活用をとってみても、実際問題としては、様々な流派が存在し、それぞれに道の極め方にも違いがあって、一度にまちの道場を教室に変えていくことはそう簡単なことではない。また、武道や芸道に対する考え方も人によって異なるため、子を持つ親御さんや地域の人々になかなか理解をして頂けないことも少なくはない。

 また、地域の先人についても、その功績だけを捉えて賞賛するのは難しいこともある。武士や軍人ともなれば、功績と捉えることも戦火を招いた罪悪と捉えることもあるであろう。また、政治家や商人ともなれば、考え方の違いや業界での競争関係など、どうしても認めることができない人が存在することもよく理解できる。

 このように、小さな活動を広げていこうと思えばたくさんの障壁を越えなければならず、日々苦悩の連続である。しかし、それでもとにかく歩み続けようと思うのは、初めに述べた教育への想いがあるからである。

 さて、このような困難や課題に直面していた時に、励みになった概念がある。それが「てんでんこ」である。東日本大震災以降、多くの時間を気仙沼で過ごしたが、その時にお世話になった方が、津波の話をするときにいつも大切なのは「てんでんこ」だと話して下さっていた。そのような伏線があって、専門家である片田敏孝氏や実際に釜石の防災教育プログラムを作り指導に当たっていた教諭の森本晋也氏から、釜石市の防災教育における要諦をお聞きして「てんでんこ」の価値に改めて気付かされたのである。

 津波が来た時には「てんでんこ」に、つまりばらばらに逃げるという意味である。自分の命は自分で守らなければならないという大原則にたって、それぞれが自分の責任で逃げることが最も重要であると防災教育で刷り込んでいたのである。一見すると、当たり前のようであって、しかもすこし無責任のように感じるかもしれない。しかしながら、ただ「てんでんこ」を押し付けているのではなく、そこには不可欠の二つの要諦があるのである。

 その一つが、「目標」である。

 地震が発生したら、あそこの山に逃げると避難すべき目標をしっかりと設定し共有するということである。目標さえしっかりと共有できていれば「てんでんこ」にどんな道を辿ったとしても、最後に必ずまた会うことができる。次に集まるための「てんでんこ」なのである。

 そして、もう一つが、「信頼」である。

 仲間のみんながそれぞれ「てんでんこ」に逃げていると信頼するからこそ、自らも自分の判断で逃げることができるのである。防災においては、すぐに逃げることが正しい行為である。しかしながら、自分が真っ先に逃げたら弱い人間だと恥をかいてしまう、だとか、自分が逃げたらみんなを不安にさせてしまうので、あえて避難せずにその場に居続けるといった心理が働いて逃げるのが遅れてしまうことが被害の拡大を生んでしまう。自分の逃げる行為は正しく、みんなも逃げていると互いを信頼しているからこその「てんでんこ」なのである。

 自分の命は自分で守る。その大原則に立って、生きるためにどうすればよいか、普段からどのように心がけていなければならないかということを日常から教育に反映させたことが、結果として釜石の奇跡と呼ばれる全員無事に避難という成果を生んだのである。

 「てんでんこ」の理念こそ、まさに武士道であり、教育に必要な概念なのであると確信することができた。どんなに物事の道理を教科書で教えても、それが日常に活かされていなければ意味がない。どんな困難があったとしても、人としての道を全うすべく予防と対処の訓練を行うことが教育であり、その環境を作り出していくことが人としての大いなる使命であると思うのである。

6.おわりに

 今回、自分がなぜ教育問題を最優先事項として取り組み、その中でも武士道や地域教育を提唱してきたのかを述べてきた。松下政経塾で学び、塾主の理念や多くの価値観に触れる中で、自分の理念や考えも少しずつ変化を遂げてきた。そして、様々な考えをめぐらせればそれだけ改めて教育の重要性を痛感するに至るところである。

 塾主は、「企業は社会の公器」であるとし、多くの社会貢献をされてきた。その一方で、赤字を出すことは社会への罪悪だとして、適正な利潤の必要性も説いてきた。

 同様に、我々国民も社会の公器であると思う。それぞれが個人の幸せを考え、適正な欲を満たしながらも、常に自分が社会の一員であり、その総和が国家であるということを認識しながら、一たび事あれば公のために尽くすことのできる、そんな物心一如の繁栄の姿こそ理想的な国家の在り方なのではないだろうか。

 国家においても、「てんでんこ」を尊ぶことができるように、「目標」と「信頼」という二つの要諦がいち早く確立しなければならないと強く思うのである。

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杉島理一郎の論考

Thesis

Riichiro Sugishima

杉島理一郎

第31期

杉島 理一郎

すぎしま・りいちろう

埼玉県入間市長/無所属

Mission

自治体経営における『無税国家』と『新国土創成』の探求

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