Thesis
本レポートは、松下政経塾が研修方針として掲げる自修自得の源流を松下幸之助が松下電器創業期に体験した出来事から考察するものである。
松下幸之助(以下、「塾主」)は、1894年(明治27年)11月27日に8人兄弟の末子として生まれる。塾主が4歳の頃、父親が日清戦争後の米相場で失敗。家財を明渡し、和歌山市内に移り住む。1903年に尋常小学校を4年目に途中で退学し、単身上阪する。
「丁稚」とは、「職人・商人の家に年季奉公をする少年。小僧。」、「奉公」とは、「(主人の家に住み込んだりして)主人に仕えること。他人に召し使われて勤めること。」を指す。[1]つまり、無給で商店に勤め、掃除や使い走りなどの雑役や、読み、書き、そろばんといった商人に必要なスキルを身につける。手代(元服ごろ)や番頭(30歳ごろ)への登用を目指す徒弟制度である。[2]
塾主は「満五年間、数え年十七の年まで奉公(中略)している間に、いろいろ世間のことについて教えてもらいました。」[3]と振り返るように、9歳から15歳までの火鉢屋や自転車屋での丁稚としての生活が、現地現場における実学として、その後の商売人生活の礎となっている。また商売の現場のみならず日常生活の中でも、自転車店での奉公の頃、タバコを買い置きしておくことで使い走りの買い出しの手間を削減し、おまけでついてきた分の利益を享受できることに気づき実践していたものの、同僚の反感を買い辞めざるをえなくなったという話や自転車の販売で幼いながらも熱心な売り込みで商談を成功させた話など、塾主が人情の機微に触れ、全ての経験から商売繁盛のコツや共存共栄のあり方について知恵を深める印象的なエピソードが散見される。加えて、全盲ながら不動産屋として生計を立てる五代五兵衛氏(自転車屋店主五代音吉氏の兄)と送迎の際に交わした会話は彼に強く感銘を与えており、「その送っていく道で、いろいろ自分の苦心談とかそういうことをそれとなしに話してくれたわけです。(中略)なんでもないような話でも、いまになってみると、『非常にええ話やったな』という感じがします。」[4]と振り返っている。これらのような丁稚奉公の現場でつかんだ人の心を掴む肌感覚的なコツや経験が後年まで生きていたことが窺われる。
自転車店を出奔したのち、3ヶ月の桜セメントでの現場勤務を経て、1910年10月21日に大阪電燈株式会社(現関西電力)に入社する。卓越した工事手腕を買われ、入社3ヶ月で工事担当者に抜擢される。工事担当者として様々な家の施工をする最中、千差万別な客先の様子から人情の機微を無意識的に覚え込み、「そういうことが、自分が商売してのちに役立った」[5]と振り返ると同時に、「ですから何ごとによらず、やはり私は経験やと思うんですね。(中略)(こういう経験がなければ)人を使うコツがわからんかもしれない。」[6]と述べており、組織経営において肝要な「人づかいの要諦」をコツとして現場での経験から掴み取り、その経験から現場での実体験の重要性を見出している。
塾主は大阪電燈内で順調に出世し、22歳の春(1917年)には当時最年少で検査員に昇格をした。検査員の業務は職工の施工後を巡回し、工事の検査を行う職種であり、責任は重たいものの業務量としては現場仕事とは比べ物にならないほど少なく、羨望の職種であった。一方で塾主は昇進によって生じた隙間時間でソケットの開発に関心を持ち、かつ、精神的緊張感が緩んだことによって肺尖カタルを発症したと塾主は振り返っている。そのような満たされない状況の中で、「自分の(試作した)作ったソケットは良い。」という信念にも似た強い思いと、「検査員の仕事は(中略)楽な仕事だ。しかし僕には物足りない」「精神的に緊張みを欠く生活というものは心身にはなはだしい悪影響を及ぼす」[7]という情熱や焦りが心裡に芽生えた。その結果、1917年6月20日に大阪電燈を退社し、独立し、松下電気器具製作所を開所する。開所後は川北電気からの扇風機の碍盤(絶縁板)の受注で事業をなんとか維持する中で、事業の構想していたアタッチメントプラグの改良や二股ソケットの開発を艱難辛苦の末成功させることで電気器具製造事業をはじめた。その後は、砲弾型電池ランプやナショナルランプ、スーパーアイロンの開発を通じて事業規模を拡大させていった。この成功は、塾主が常に既存の製品の欠点を克服して故障しない優れた製品をより安価で全ての人に届けたいとする商売人の思いの結晶でありと同時に、丁稚奉公や大阪電燈での現場の中で学んだ“ムシが好くように”全ての事柄から学びとることができることや自力で物事を進めることが重要な一方で周囲の理解や力添えがあってこそであること、人情の機微から得られた人間のもつ共通項といった小さな「コツ」の積み重ねが裏打ちした成功であることは多くの著書で触れられている内容からも明らかであろう。
そして、1929年3月に「綱領・信条」を制定すると同時に、松下電器製作所に改称をし、現在のPanasonic株式会社まで続く事業の隆盛へ導いた。1917年に従業員数5名(松下夫妻込み)だった0歳事業所が、開業から15年後の1932年には、従業員数1,200人あまりの企業に急成長を遂げたのである。
塾主は卒塾した人間に求める人間像について「何を見ても、みな有意義だという見方ができるようになること」[8]だと当時一年目の塾生に説いている。また、多くの人がつまらないものだ学ぶべきところがない人だと思うような場面でも、「諸君はすべてのものが尊く見え」、「誰を見てもそういうふうに見えるように、ひとつ修行してください」[9]と説いている。つまり、塾主は塾生に対して、一切の事物を融通無碍に捉え、自ら学ぶべき点を見出し実践者としての振る舞いに自ら昇華できる「自修自得」の精神を求めたのであろう。
塾主の歩みの中で一貫しているのは、現地現場で自ら掴んだ経営のコツを成長の糧にして生涯活かし続けている点である。塾主は晩年、政経塾生に人生の手解きをする中で、自身の経験を引き合いに出して経営の要諦を説いている。名著「道をひらく」の「体験の上に」において水泳を例に挙げながら、どれだけ崇高な知識があろうともその生かし方は体験の中で自ら掴み取らなければ無用の長物になってしまうことが述べられている。松下電器の隆盛を支えた経営哲学や、「自分でつかむ研修」、「自修自得」、「現地現場主義」、「自主自立の事」「万事研修の事」など松下政経塾の屋台骨をなす概念は上記の松下電器創業に至る中の経験に大きな影響を受けたものである。塾主が松下電気器具製作所を創業したのと同じ年齢である22歳の私は、今後の研修においてこれらの言葉が持つ背景を十二分に斟酌して研修に努める所存である。
[1] 岩波 国語辞典より
[2] 東近江市近江商人博物館_商人の一生より
[3] 松下幸之助「リーダーを志す君へ_松下政経塾塾長話録」PHP研究所、1995、68頁
[4] 同著、67頁
[5] 第十一回国家公務員合同初任研修(昭和五十二年四月五日)発言内容より引用(松下幸之助発言集8巻122-123ページ載録)
[6] 同上
[7] 松下幸之助「私の行き方_考え方-わが半生の記録-」PHP研究所、1986、64頁
[8] 松下幸之助「君に志はあるか_松下政経塾塾長問答集」PHP研究所、1995、63頁
[9] 同上_68-69頁
・松下幸之助「研修方針」松下政経塾、1979
https://www.mskj.or.jp/about/pamphlet
・松下幸之助「私の行き方_考え方-わが半生の記録-」PHP研究所、1986
・松下幸之助「実践経営哲学/経営のコツここなりと気づいた価値は百万両」PHP研究所、2014
・松下幸之助述「リーダーになる人に知っておいてほしいこと」PHP研究所、2009
・松下幸之助述「リーダーになる人に知っておいてほしいことⅡ」PHP研究所、2009
・松下幸之助「リーダーを志す君へ_松下政経塾塾長話録」PHP研究所、1995
・松下幸之助「君に志はあるか_松下政経塾塾長問答集」PHP研究所、1995
・松下政経塾編「松下政経塾塾長問答集_塾生との対話」PHP研究所、1983
・東近江市近江商人博物館「商人の一生」
https://e-omi-muse.com/omishounin/about2.html
・松下幸之助「道をひらく」PHP研究所、1968
・松下政経塾編「松下幸之助が考えた国のかたちⅢ」
・佐藤悌二郎「松下幸之助成功への軌跡」PHP研究所、1997
・松下幸之助述「松下幸之助発言集」PHP研究所、1992
Thesis
Masaki Otani
第46期生
おおたに・まさき
Mission
経験や思考を重視する公教育を通じた持続可能で中庸な日本の実現