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人間観
2009年3月

塾生レポート

「宗教」が怖い!日本人
宇都隆史/卒塾生

解っているようで解らないのが「宗教」。本文では宗教の本質について人間観に基づく考察を行うと共に、国家における宗教のあるべき姿についての見解を提唱したものである。

 

1 「日本人は無宗教」の嘘

 「あなたの宗教は何ですか?」と聞かれて、「無宗教です。」と答える日本人は少なくありません。日本人にとってはあまり違和感のないこの回答ですが、海外では目を丸くされることがあります。なぜならば、海外では無宗教の人間なんてあり得ないのが普通だからです。日本人にとっての無宗教というのは、「特定の宗教を敬虔に崇拝しているわけではない」という位の意味なのですが、それは複数の宗教を容認する文化のない西欧の人々には理解不能な感覚なのです。日本人が宗教的な感覚に恐ろしく鈍い原因は、成人になるまで公教育において宗教を学ぶ機会が皆無だからに他なりません。(一部のミッション系の学校を除く)ところが、実は日本人ほど非常に宗教に寛容な国民はいないのです。年の暮れともなると宗教の多様性はより顕著となります。多くの日本人の年末年始の過ごし方を見てみると、師走の二十五日にはクリスマス【キリスト教】を祝い、大晦日にはお寺の除夜の鐘【仏教】を聞きながら年を越して、年が改まれば氏神様の神社【神道】に初詣をし、ご先祖様の仏壇【道教】に灯明をあげる。たった10日間程の間に4種類もの宗教的行事を行いながら、少しも違和感を伴わないのは我々日本人くらいのものでしょう。

 宗教問題を議論していると、日本人の国民宗教は何かというテーマが良く出てきます。評論家の山本七平氏は「日本教」という言葉を用いました。宗教学的には仏教も儒教もキリスト教も、日本に入ってくる時点で戒律や規範が取り払われ、エートスだけが抽出され「日本教」に変化されるというのです。つまり、日本人は行事の度に信者でもないのにキリスト教徒や仏教徒のように振舞うのではなく、日本教の信者として各々の行事を行っているに過ぎないと考えれば理解できるのです。

2 宗教とは何か

 さて、いったい宗教とは何でしょうか。この質問に対して、自分なりの考えで即答できた日本人をほとんど見たことがありません。何故私たち日本人の多くが宗教に疎いのかと言えば、教育の機会に恵まれていないということに加え、宗教を何か禍々しいものとして捉えているからではないでしょうか。知らない物に対する漠然とした不安が先に立つのでしょう。しかし、学ばなければ不安は消えませんし、宗教的無知はカルト教団などに対する精神的防衛力を欠くことにも繋がります。そこで、そもそも宗教とは何かという本質的な問題について、少し考えてみたいと思います。

 「宗教」という言葉は、明治時代になって「religion」の訳語として造られた新しい言葉です。レリジョンの元々の意味は「繰り返し読む」という意味です。キリスト教の文化圏である欧米においては「宗教と言えばキリスト教であり、神の言葉が記された聖書を繰り返し読み、神との契約を履行すること」これこそが信者の証なのです。宗教とは何かという問いに対し、社会学者のマックス・ウェーバーは「宗教とは行動様式のことである」と定義しました。つまり、人間の行動を意識的あるいは無意識的に突き動かしているものを総称して宗教であると唱えました。さらに言えば、信仰の対象となる神様の有無は関係なく、倫理道徳や習慣風俗も一種の宗教であるというのです。前述した山本七平氏は、このマックス・ウェーバーの説に則り、「日本人は特定の宗派に属していないだけで、日本人たる独特の行動様式を持っている。それが日本教である」という社会学的解釈をしたわけです。この説に則ると、信仰だけでなくイデオロギーもまた宗教の一種であると解釈でき、マルキシズムも資本主義もある意味、一宗教であると言えます。

 しかし、私は個人的にこの解釈に釈然としません。学問的にはそうなのかもしれない。しかし、何か自分の中で腑に落ちないところがあるのです。つまり、マックス・ウェーバーの解釈は私達日本人の宗教観にそぐわないのではないかと思うのです。そこで、宗教とは何かを考えるために、宗教は哲学や思想と何が違うのかということを考えてみます。この三者の関係を私は次のように解釈しています。哲学とは、宇宙や人間の根本原理を追求する学問の一つです。思想とは宇宙や人間の根本原理の中に、行動するための動機となりえる社会的意義を見出したイデオロギーの総称ではないでしょうか。そして、宗教とはこれに「信仰」というキーワードが加わったものだと思います。つまり、思想の中に人智を超えた神聖なものを見出し、それを畏怖し奉るときに、「宗教」と言えるのでしょう。この信仰の対象は、絶対者や神である必要はなく、自然の力や宇宙の摂理などでも良いのです。そう考えると、宗教は精神的に弱い一部の人が必要とするような禍々しいものではなく、人間が知的活動をし、社会的生活を営んでいく上で必要な精神的行動の一つではないかと私は思うのです。

3 宗教と政治の正しい関係とは

 ここで、宗教と政治の関係について考察してみます。良く聞きなれた言葉に「政教分離」というものがあります。しかし、誤った解釈がまかり通っているのが現状です。私は、日本国憲法が良くないと思っています。

第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 この政教分離の起源は、ローマ教会にあります。政治の混乱と分裂の中、ローマ帝国は宗教の影響力を国の統治に利用するため、キリスト教を国教に指定します。しかし、ローマ帝国は東西に分裂したため、ローマ教会は政治的後盾を確保するために、協会が各国の国王に戴冠する教会と政治の二人三脚の体制が出来上がりました。これを、二王国論といいます。(政治的権力は国王が、宗教的権威は協会が握る二元的な体制)しかし、信仰と政治権力が強力に結びつくとロクなことはありません。なぜならば、信仰を理由に戦争を起こしたり、教義に反した政策はとれなくなったりするからです。そこで、ルターの行った宗教改革以降、信仰と政治を分離することを原則としたのです。つまり、憲法にある「政教分離の原則」とは、宗教的権威と政治的権力の分離を徹底させるということに他なりません。しかし、憲法の20条を見るかぎりでは、政治の中に宗教色が入ることすらも認めないようにもとられます。だから、国や公的機関が祭事を行ったり、公人がこのような行事に参加したりすることを極端に問題視するのです。ところが、ここで本質を考えてみましょう。政治が社会的生活を効率的に統治システムであるとすれば、宗教は社会生活を有意義に営むための精神的支柱です。この二つは国家を統治する上で、もっといえば人間が社会的な営みを行うために必要不可欠な両輪であるとは言えないでしょうか。政治は別の言い方で「政(まつりごと=祭事)」ともいいます。どの国家にとっても、政治は宗教的側面と切っても切れない関連性があるのが当たり前なのです。つまり、必要なのは両者のバランスなのです。「政治的権力と宗教的権威の分離は徹底する。しかし、一方が過ぎるようなことがないように双方の調和を保つ」これが政治と宗教の正しい関係であり、国家の安定を作り出す基本原則であると私は考えます。日本の歴史を眺めると、平和の続いた時代には宗教と政治の調和がとれていたのではないかという仮説が成り立ちます。このような仮説に立って大東亜戦争を振り返ると、最大の政治的失敗は、「軍部の独走」というよりも、天皇という宗教的権威を政治的権力の頂点に据えた明治以降の国家体制そのものにあったと考えられるのです。

 翻って、現代の国家体制を見てみると、政治的権力から宗教的権威は切り離されたものの、敗戦のショックにより、国家から「宗教」というものを極端に排除した、バランスを欠いた国家体制になっているのが非常に気になります。(公明党の問題は、紙面の関係上ここでは触れません。)

4 日本精神の再興には、知的闘争が必要である。

 最後に、何故人間にとって宗教が必要かということについて考えてみましょう。

 私達人間が他の動物と決定的に異なる部分は何でしょうか。それは、我々に知性があるということです。人間は生きる上で、普遍的な命題にぶつかります。例えば、「生きることに何の意義があるのか」「人は死んだらどうなるのか」「この世界はどのように生まれ、そしてどこへ向かおうとしているのか」など、ただ生きていくだけなら必要のないこのような問いの数々。しかし、知らないことに対して知ろうとすることこそが知性の知性たるゆえんであり、人間の本性であるのです。フランスの思想家パスカルの「人間は自然のなかで最も脆い葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。」は至極名言であると言わざるを得ません。そして、歴史を大局的に眺めると、それは自らの存在意義を確かめ、それを肯定するために先人達が苦悶してきた「知的闘争の歴史」だということが解るでしょう。私たちの祖先は、人間が誇り高い存在としての地位を獲得するために、未知のものと格闘し、この世界や宇宙に対して、偉大な価値と意味を見出すための知的試みを繰り返してきた。その試みの一つが宗教であり、人類発展の原動力であったと言っても過言ではありません。

 ところが、昨今の日本人は、思考するという訓練をしていないために、精神的に非常に未発達なのが解ります。最近の犯罪の傾向を見てみても、短絡的で衝動的な理由による犯罪が多いのもそれを良く表しているではありませんか。かつて世界に誇った日本精神はいったいどこへいったのでしょう。国家崩壊の最大の危機は、外的の侵入などではなく、国民の精神の頽廃にあります。吉田松陰先生や安岡正篤先生といった、日本を率いてきた大思想家達はこのことをよく理解していました。

 よって、私は21世紀の日本の真の繁栄には、日本精神の再興が必要不可欠であると信じて止みません。そしてそれは、日本人が日本人たるゆえんに対して、もう一度知的闘争を挑むことを意味しています。そこに日本人が気づいたとき、我が国は再び世界に名だたる一流国家として他国の信頼と尊敬を集めることができるでしょう。その具体的手法である「行動哲学としての農本生活」の説明は、また次の機会に譲ることにいたします。

 終わりに、藤田東湖先生が若き松陰先生に送られた金言を持って結びといたします。

「国難襲来す 国家の大事と雖も 深憂するに足らず 深憂とすべきは 人心の正気の足らざるにあり」

<参考文献>

小室直樹 著  「日本人のための宗教原理」 徳間書店
橋爪大三郎 著 「世界がわかる宗教社会学入門」 筑摩書房

2009年3月 執筆
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