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2008年10月

塾生レポート

「新しい農業観」の提唱
宇都隆史/卒塾生

最近のテレビや新聞を眺めていると、食や農に警鐘を鳴らすようなニュースに事欠かない。これは、食や農業といった我々の生命に直結する資源が侵されつつあることに対する社会的関心・危機感の高まりがその背景にあるといえる。今回は日本の農業にスポットを当て、その問題の核心と日本が目指すべき農業の未来像の提言を行う。

 

1 低迷する日本の農業とその問題点

(1)歴史的背景

 農業政策は外交政策にも深く関わる問題であるため、まず日本の戦後経済復興の歩みを簡単に押さえておきます。

 敗戦後の日本の国家目標は「経済復興」に絞られ、民衆は生活をより豊かにすることを人生の目標として勤労に励みました。戦後の経済復興の中心となったのは製造業です。日本の製造業は国際社会においても十分な競争力を発揮し、特にトヨタやホンダに代表される自動車産業は、海外のマーケットにもおおいに受けいれられ、朝鮮戦争を背景とした特需景気とも重なり、日本は奇跡ともいえる経済復興を遂げることができました。しかし、順調に貿易黒字を伸ばす日本は、徐々に海外のマーケットを侵食していき、70年代後半に至ると貿易摩擦を起こすようになります。特に米国の日本バッシングは厳しく、デトロイトを中心とした自動車産業を票田に持つ米国の政治家による圧力もあり、日米間の政治的問題として取り上げられるようになりました。テレビの映像で、日本車や日本製の電化製品を路上で打ち壊すパフォーマンスが頻繁に行われたのもこの頃です。

 この時、米国が特に厳しく批判したのが、日本の農作物に対する輸入量規制でした。当時、農作物に関しては輸入量の規制が設けられ、国内の農業生産者を海外からの安い輸入農産物から守るような仕組みになっていたのです。しかし、国際社会の主流は国家間における自由貿易の促進にあり、日米間の貿易摩擦の解消はガット(General Agreement on Tariffs and Trade:関税及び貿易に関する一般協定)に基づいて、1986年よりウルグアイにおいて交渉が行われました。

 当時の日本の主張は「国内農業の保護は当然で、食料安全保障上、米などの基本的食糧は輸入規制を認めるべきである」というものでした。一方の米国は、「輸入規制を関税化に変え、補助金も削減して国内農業保護を撤廃すべきである」として真っ向から対立します。当時の米国は、国内農産物の生産量が過剰気味で、国内マーケットだけでは消費できずにいたため、海外マーケットへの進出を見据えた戦略的交渉だったのです。日本としても容易には妥協できなかったため、交渉は8年間にも及びましたが、冷戦の最中でもあり、アメリカの核抑止力に国防を頼りきっていた日本には国際政治力などあるわけもなく、最終的には米国に屈し、コメ以外の作物の関税化への転向と、コメについては国内消費量の4%(6年間で8%に拡大)を最低限度輸入する機会を設けることを締結したのです。これが戦後の大きな流れです。

 結局は、経済的な側面から圧力を受けた日本が、国内農業をある程度犠牲にして、製造業を中心とした貿易黒字の獲得を選択したというのが実情でしょう。しかし、この決断は仕方のない一面もあります。なぜならば、鉱物資源や農産物を海外輸入に頼らずには発展していけない我が国の実情を考慮すると、貿易摩擦で生じる不公平感に調和を図りつつ、海外との取引を継続していくことはやむを得ないからです。しかも、農作物を含めた貿易の自由化の流れは変わることがありません。そこで大切なことは、ただ国内農業を市場競争から保護するだけでなく、まずは、国内農業が国際社会の自由競争の中で生き残っていくための体力をつけ、徐々に関税を落とし、最終的な自由化に踏み切るまでソフトランディングをすることでした。

 そこで、このウルグアイ・ラウンド農業合意の結果を踏まえ、日本政府は国内農業の基盤力強化のための特別農業予算(6兆100億円)を組み、地方に配布しました。しかし、この予算は農業の基盤強化に使われることなく、多くの場合が、地方の公共事業や農業協同施設整備に消えてしまいました。つまり、「お金を投資しさえすれば体力が付く」と考えた政治家や官僚の失策です。結果的に、何の具体的な対策も施されないまま、どんどんと体を細らせているというのが現在の日本の農業の姿なのです。現在でも、日本の農業は自由化をするほどの体力などあるはずもなく、それが足かせとなって、各国との自由貿易協定(Free Trade Agreement)の締結を結べずに、FTAを締結することで得られる政治的・経済的メリットを生かし切れていないというのが現状なのです。

 日本の農業をこれ程までに低迷させたのは、政治の責任だけであるとは言い切れません。責任は、農業生産に従事してきた農業者自身にもあります。戦後の経済復興は、戦争で失った労働生産階層を地方から都市部に集約させたため、地方の農村から都市部への若者の流出を促す結果となりました。製造業やサービス業を中心とした都市部のサラリーマンと、生産業を中心とした農村部の農家の間での所得格差はいよいよ広がり、より豊かな生活を求めて若者は生まれ育った村を捨て、都市部の新興住宅地に自分たちの家を構えるようになります。「農業は古臭く、都会の会社で働くだけの能力のない者が仕方なしにやるもの」といったマイナスイメージが、若者の農業離れを加速させました。つまりは、農家の後継ぎらが自ら農業を捨て、経済的に割のいい職種に転向した結果であることも否めません。また、戦後の日本の農政は生産調整や補助金等により、あまりにも農家を保護しすぎてきました。これによって、農家は補助金をもらうことが当然という傾向が強まり、農家自身が企業努力をしなくなりました。

 農業協同組合という組織も、農業衰退の片棒を担いでいます。もともと、農業従事者達によって自発的に作られた労働組合というよりは、戦後復興のためにGHQ(連合国軍最高指揮官総司令部)によって食料の管理・統制を目的とし設立された機関です。そのため、特に主食であるコメなどに関しては、最近まで流通に関する管理を行っていました。この管理体制が、農業従事者をただの農作物生産者にしてしまったとも言えるでしょう。つまり、通常の製造業であれば、生産→流通→販売→マーケティングの一連の経済活動を行わなければいけないのに対し、農作物生産者はただ農作物を作り、JAに収めさえすれば直接収入が得られ、また国や県からの補助金を出るというふうに護られ過ぎていたのです。

(2)問題点の整理

 そこで、現状の日本の農業問題の論点を整理すると、以下の5つの問題点に整理することができます。

【1】制度的問題

 農業政策上の問題とも言えます。ここではまず、生産調整について述べます。自由化が行われていない主食のコメについては、現在でも農水省の指導により生産調整、つまり転作や減反が行われています。生産調整は、品種改良等によるコメの生産量の増加と消費者のコメ離れにより、コメ余りが生じてきたため1970年から生産量を調整し、市場価格を維持するための政策です。当時、日本国内で生産拡大のための基盤整備事業が行われていた最中だったので、農家の農耕意欲の低下や経営悪化につながるとして、各方面から批判が出ました。国家事業として取り組んだ秋田大潟村などでは、この政策に反発する勢力が強く、長年に渡って国(農協)と対立してきました。米農家がコメを自由に売買できるようになったのは、意外に最近のことなのです。当時、農協を通さない自主流通米は「ヤミ米」と呼ばれ、国道などでの検問がある時代だったのです。現在では自主流通が可能になったものの、全国のコメの流通量の1%に過ぎません。しかし、自主流通米は無農薬米やブランド米などといった高付加価値商品として、高値で取引をされます。ちなみに、平成20年の新米魚沼産コシヒカリが1kg1500円でネット販売されているのに対し、同年の農協買い取り価格は250円程度。助成金等を含めても400円程度にしかならず、この所得の不公平感が農家の米作離れを加速させているのも実情です。

 また、農業を衰退させている制度上の問題として、新規参入のハードルが挙げられます。これまで大資本による農業ビジネス参入は、既存の農家を圧迫するという理由で、農地法により規制されていました。改正農地法により、2005年9月1日より株式会社の農業参入が認められるようになったものの、出資金額の規制などが設けられ、実際の農業ビジネスとしては、まだまだ高いハードルを課せられているのが実情です。更に個人の新規就農となると、2~3年の農業経験がないと農業者資格の認定が下りないのです。ところが、実家が農家であったり、農家に嫁いだ場合は、この資格要件には該当しないという不公平さ。実際は就農したい若者も結構いるのですが、実情としては、農業法人に就職することを勧められるのが現実で、後継者がいないと悩んでいる割には、制度上の矛盾を感じます。

【2】金銭的問題

 農業問題として最もよく取りざたされるのが、農家の所得問題です。(個人的に所得保障は農業問題ではなく、社会福祉だと思うのですが。)実際に、農業はそんなに効率よく儲かるものではありません。相手が生き物ですし、自然が相手の商売。不動産や株の売買などと比べると、売り買いするのも現物ですから実直な利益しか上がらないようになっています。しかも工業製品と違い、一つ一つ形や大きさも異なれば、計画どおりに所定の基準に達した作物の数量を収穫できないこともあるため、生産のロスは大きい業種といえるでしょう。

 農業で経営を成り立たせて行くには、誤解を恐れずに言えば、二つの方法しかありません。一つは生産量を挙げることです。これには広大な農地や設備投資が必要になります。しかし、日本には広げるほどの農地面積を確保する平地が少ないため、新たに農地を広げるにも限界があります。このような理由から、政権与党である自民党は、政策としての集落営農を推奨しています。つまり、小規模農家が多い日本の農家の経営基盤を向上させるために、農地を繋げて整備し、共同経営による中規模の農地にすることで収量を確保し、国際競争力を上げようというものです。しかしこの政策は、地方で既に破たんをきたしつつあります。何故ならば、農家の所得が低いのは農業という業種が持つ生産ロスもありますが、もう一つ大きな原因は、農業者自身の経営力の低さにあるからです。農地を広げても、広くなった農地を経営する集団の経営能力が向上したわけではないので、業績の向上にはつながりません。しかも、広くなった農場で効率を上げようと、大型農機などの新たな設備投資をして減価償却費を増やすようなことをすれば、なおさら経営は悪化します。

 経営を成り立たせるもう一つの方法は、高付加価値の商品を作ることです。つまり、生産の質を上げるわけです。しかし、ここにも問題があります。仮にすべての日本の農業従事者が、効果付加価値の農作物を作ったらどうなってしまうでしょうか。日本のマーケットで高付加価値の商品を購入してくれる購買層のパイは決まっていますから、生存競争が激化するでしょうし、より高く買い取りされる商品しか市場には出回らなくなります。そうなれば、そのような商品はより高く購入してくれる客を求め、お金のある国へ集まっていくでしょう。国内には食料が行き渡らなくなるか、あるいは、安い輸入食材を購入するしかなくなります。安いものには理由があります。長距離を輸入するということは、鮮度が落ちるか、あるいは鮮度が落ちないように薬品漬けされた食料であるということです。すでに海外の発展途上国では、国産の食糧が高値で取引される海外に流出してしまって、食糧難になっているという現象が相次ぎ、ブラジル、インド、エジプトといった国々では、国産米の輸出禁止措置をとりました。

 つまり、高付加価値の食糧だけを生産すれば農家の所得は上がるかもしれませんが、それでは農業が本来持つ、国家の食料生産基盤としての使命は果たせなくなります。贅沢品がなくても我慢すれば良いことですが、食糧は、命に直結しているのでそうはいきません。ここに、農作物が工業製品と同様に扱えない難しさがあるのです。よって、安定した価格と量を維持しつつ、国内農業の持続性を保つためには、政府の資金投入はやむを得ないというのが私の考えです。しかし、手法は考えなければいけません。野党である民主党が考えるような、バラマキ型の直接保障などは論外です。農業の衰退と後継者不足の原因が農家の所得が低いためであると考えるのは、少々短絡的な思考ではないでしょうか。そこで、次に人材問題について話を移していきます。

【3】人材問題

 最も深刻な問題として取り上げられる問題に、後継者問題があります。実際に地方の農村へ足を運んでみると、高齢化が加速度的に進んでいます。以前にお邪魔した農村でも、「この辺の村でも若くて農業をしているのは一人だけになっちまった」などと聞いたので、てっきり自分と同じ三十代くらいの男性が来るのを想像していたら、登場したのは白髪頭の初老の男性でした。後継者が育たない理由はどこにあるのでしょうか。大きな理由は2つあると考えています。第一に、若者にとって農業が魅力的に映らないことでしょう。農業者のイメージが極めて悪いのが原因です。親が仕方なく農業など継いだ場合や、儲からないことを理由にしょっちゅうぼやいているような姿を見て育った子どもが、意欲的に農家の後継ぎを目指すでしょうか。逆に親がしっかりとした農業理念を持ち、農業者としての使命感と誇りを持っている家庭の子どもは、農業に魅力を感じて戻ってくる傾向が強いように見受けられます。もう一つの理由は、新規参入の難しさにあります。制度上の問題は前項でお話ししたとおりですが、それ以外に、農村の人間関係が閉鎖的で、よそ者を敬遠する傾向が強いことが挙げられます。就農意欲も強くやる気もあるのに、実際には受け皿がないという就農希望者や、その予備軍は少なくありません。

【4】土地の問題

 農地問題は非常に大きな問題です。それは、農地が食料の生産基盤としての価値以外に、不動産的価値を有することです。このため、農地の所有者は土地を売りたがりません。日本人の土地に対する執着心が強いということも影響しているでしょう。しかし、農家の多くが農地を簡単に手放さないのには、別の理由もあります。それは第一に、相続税に起因するものです。相続した農地は、申告期限後20年間農地として使用することで、相続税の納税を猶予されるという特権があります。これにより、農地を相続した農家の子どもたちは、自分で農業をせずとも、相続税よりも安い賃金で、農地を近所の農業者に貸し出したり、たまに土いじりをするにわか農業者となったりすることで、土地を維持することができ、農地を必要としている就農希望者へは土地は回ってきません。

 また、農業推進地は都市計画法により定められているため、簡単に宅地に転用できないようになっているのですが、なぜか田んぼのど真ん中にショッピングモールなどが建ったりするのは何故でしょう。これは、地方政治家が自分の選出地域の都市計画法を変更し、企業誘致をすることによる安直な地域振興をすることで、集票を狙っているという政治的背景があります。このようなことは、地方の農村部においていたるところで起こっています。水が豊富で、農業基盤整備がなされている田んぼというのは、企業にとっても使いやすい土地であるのです。これまで田んぼしかなかった農村地帯に、突然巨大なショッピングモールが立ち、その周辺は開発が行われ、人も集まるようになります。そうすると、今まで二束三文だった土地の地価がはね上がるため、農家は喜んで土地を手放します。このようにして、農地としての価値よりも不動産価値の方が高くなった場合、土地の所有者は農地として貸していた土地を返すように求める、いわゆる「貸しはがし」が近年各地で増えているというのです。農地所有者が農業を行うのを原則とする農地法ですが、農地という特別な土地所有の在り方については、再考する余地が大いにあります。

【5】安全保障的問題

 5つ目の問題点として、日本の農業に安全保障的視点が欠落していることを挙げます。一つは、食料自給率の問題です。日本の食糧自給率は昭和40年代の73%から現在39%まで激減してしまいました。これは、先進諸国の中では最低です。同じ島国で日本の次に自給率の低いイギリスでさえ、71%の食糧自給率を維持しています。食糧自給率を大きく低下させた原因は、食生活の変化にあります。

 野菜や穀物を中心とした食生活が主であった昭和40年代に比べ、現代の日本人の食生活は、牛、豚、鶏といった畜産物や油脂類を使った料理の消費が急激に増加し、食生活の欧米化が進んだことが背景にあります。(この食生活の欧米化も、米国の食料戦略に他なりません。)一般に牛肉1kgを生産するためには、飼料穀物としてのトウモロコシが11kg必要で、大豆油1kgを生産するには大豆5kgを必要とすると言われています。国土が狭く平坦な農地を確保できない日本は、これらを輸入に頼るほかないため、したがって日本の食糧自給率は大きく減少しているのです。食糧を外国からの輸入に頼っているといことが何を意味するかと言えば、外国の農家に自国の国民の生命をゆだねているといっても過言ではなく、39%という数値は、安全保障上の観点から極めて危険な状態であると言えます。

 もう一つの問題は、食の安全の問題です。食糧は直接口に入れ、国民の生命に直結する資源です。よって食料は他の資源よりも、より安全で確実なものが求められます。ここ数日、中国製の食材の安全性を巡って様々な意見が交わされていますが、この問題の本質は、我々日本人が自らの生命の根源である食料をいかに軽んじてきたかということに尽きるのではないでしょうか。

2 農業の諸問題の核心

 それでは、ここまでで整理した問題点の核心となるものは何なのでしょうか。更に問題を掘り下げてみると、3つの大きな要点が浮かび上がってきます。

(1)社会構造上の限界

 近代社会は、経済的な生産性を追い求めるあまりに効率を求めすぎました。効率的でないことやロスの多いものは、悪とみなされ排除されたのです。農業に代表される第一次産業は、産業として未熟な生産活動で、経済活動としては脱却すべき過去のものとして扱われる風潮が蔓延しました。一次産業から発展した製造業、サービス業、IT産業と発展していく新しい業種ばかりが新鮮で美しく見え、それらの新たな業種の根底には、第一次産業がなければ成り立たないという当たり前のことを忘れてしまったのです。無駄や非効率が排除された極端な分業化の世の中では、流通業や食品提供業という間に阻まれ、生産者と消費者の直接のつながりも断ち切られます。そのような中では、消費者は自分たちの命の源となる大切な食糧が、一体どのようにしてつくられるのか、またどの程度の生産コストがかかるものであるのか想像もつきません。都会と農村というように居住空間も隔離され、無機質な人工物に囲まれた都会で生まれ育った消費者は、人間の力の及ばない世界(=偉大な自然の造化)があることなど思いもよらず、そして自然の恩恵に対する敬意を次第に失っていきます。

 このように、現代の農業問題というのは、農業という一業種の問題ではなく、人間の生き方に関わる哲学的テーマでもあると私は思うのです。世界には、激しい食料危機に直面し、暴動を起こしている貧しい国家があるというのに、我が国は飽食を貪っています。東京都の一日に出る食物残さの量は、50万人分の食糧支援量に匹敵すると言われます。これが求めるべき真の発展の姿とは思えないのは、私だけではないはずです。世界が飲み込まれている米国を中心とした資本主義経済社会(消費社会)は、構造上の限界を迎えているのではないでしょうか。そして、この時代に農業がクローズアップされる理由は、人類が持続的な繁栄を考える上で、当然帰着すべき、将来的な生活スタイルの鍵を握っているからではないかと思うのです。

(2)国際社会全体を覆う価値基準の格一化

 経済的価値が全ての基準になっているところに、第二の核心があります。お金を儲けることがすべて正しいというような、最近の風潮には賛同できません。我々はもっと様々な価値基準を認めるべきではないでしょうか。農業は儲からないから駄目だというのはいかがなものでしょう。農業はうまく経営することで、儲かるようにできます。しかし、ビジネスチャンスだけを見てしまって良いものでしょうか。儲けるためだけであれば、もっとボロイ商売はあるはずです。しかし、経済的価値から離れたところにこそ、農業の素晴らしいところがあるように思います。たとえば、「都会の同年代のサラリーマンに比べ農業者の所得は低いから、これは業種間の所得の格差であり問題である」というようなことを言う政治家がいます。しかし、そもそも所得の格差がない社会なんて、自由主義経済の中に存在するでしょうか。都会とは物価も違うし、朝早くから夜遅くまで電車通勤のストレスと戦いながらもらう高給と、田舎の物価の安い中で、地域の住民と助け合いつつ、自分の食べる物を片手間に作りながら、太陽の下で汗を流して得た薄給。どちらが本当に幸せなのでしょう。経済的価値に代わる体感的価値。人間が本当に幸福感を感じることのできる価値基準は、金銭でない別の所にあるのだと私は思います。そしてお金にとって代わる価値というのが、必ず農業に存在するはずです。

(3)文明の円熟期における精神の頽廃

 第三の核心として、日本人全体の精神の頽廃があるのではないでしょうか。「文明」という言葉の定義を、歴史家の故木村尚三郎先生はその著書『耕す文化の時代』で「都市における普遍的な生き方の形式である」と定義しました。文明、つまりは都市型生活様式が円熟した時代においては、例外なく人間は精神的な頽廃の時期を迎えることを、歴史は教えてくれます。つまり、土から離れた都市型の普遍的生き方、つまり自然を克服し利便性と効率を追求した生活様式の中では、神に対する信仰や、人間の生きる意義に対する哲学的考察などという精神的な活動は停滞し、人間の精神は堕落するのです。一方、文明と反対に位置する言葉が「文化」です。同木村先生の言葉を借りれば、文化とはカルチャー(耕作)の訳語であり、その土地独特の生き方の形式で、土地から離れて輸入も輸出も出来ないもの。それが文化であり、それを最もよく表すものが食であるとも言っています。土と共に生きることで情緒が養われ、作物を育てることで人間の無力さと自然の摂理の偉大さを体感できる。それが農業の醍醐味であり、農業が人を育てる所以です。今改めて農業が見直されている背景には、現代人が生きる上での精神的支柱を失っているからではないでしょうか。戦後奇跡と言われる経済復興を遂げた日本ではありますが、毎年約3万人の自殺者を出すような現状が、はたして真の繁栄の姿であるとは誰も思わないはずです。

3 日本が目指すべき農業の未来像

 最後に日本が目指すべき農業の未来像について以下の4つの項目についての提言を行います。

(1)環境創造型

 農業を中心に話を進めてきましたが、要はいかに自然との調和を図り、循環型の生活環境を構築するかというところが今後の方向性であると思います。こうなると、農業という一業種だけの話ではなく、林業、漁業も含めた第一次産業全体の、そしてその恩恵により生活を営んでいる国民全体の問題となります。そこで日本がとるべき農業のスタイルは、環境創造型の農業です。米国やEUのような大規模な資本投資による国際ビジネスとしての農業とは、一線を期すべきであるというのが私の持論です。日本の農業は、日本独自のスタイルでいけばよい。まだ数は少ないながら、心ある篤農家によって、少しづつ広がりつつあるのがこのタイプの農業スタイルです。生物の多様性や自然の循環システムを利用して、持続可能性のある食料生産基盤としての農業経営を目指すもので、経済との調和も図りつつ、自然の作用や力を利用しながら、環境を自ら創造していく農法です。この農業スタイルでは、特に水田の持つ多面的な能力の発揮に期待がかかっています。兵庫県豊岡市の取り組みは有名で、コウノトリと共生できる里づくりを合言葉に、集落単位で無農薬水稲栽培に取り組み、多大な成果をあげていて、農業者のみならず、それに参加する住民や子どもたちが一体感を持ち、自分達の暮らしの環境を整えていくことに充実感を感じているようでした。

(2)地産地消型

 日本が目指すべき消費スタイルは、地産地消型であると思います。政治家や官僚の中には、海外における日本食のブームを背景にして、海外の富裕層向けに生産物の海外輸出を促進させるべきだとの声がありますが、私は反対です。なぜならば、第一に海外の富裕層がいつ日本食に飽きないとも限らないこと。所詮ブームはブームです。一過性のものであるリスクは常に付きまといます。第二に国内の市場を開拓し切れていないことです。海外に売り込む前に、まずは身近な地域への徹底した市場開拓と顧客の確保をすべきだと考えます。そのためには、消費者と生産者の連携が不可欠です。地方行政はこの地産地消の促進に対して、効果的対策を講じることです。地方行政で耕作放棄地を借り受け、企業に資本投資するようなこともあっていいかもしれません。また、地方行政単位での食料備蓄や安全対策も視野に入れて考えれば、より消費者の関心を呼び、地域性に沿った農業政策が可能となると思います。

 もう一つは、食というのは単なるエネルギー補給ではなく、その土地の風土、歴史、習慣に根差した文化によって育まれた生命を体に宿すという行為であるということです。つまり地産地消という行為は、単なるエコロジー的発想で捉えてはいけません。人間の細胞は、約3ヶ月ですべてが入れ替わるほどのサイクルで、常に生成が繰り返されているようです。老化した細胞の代わりに作られる新たな細胞は、食した物質から生成される。これは当然のことです。かつての細胞学では、食べた食料は分子レベルまで消化により分解され、それを基に新たな人の細胞が作られると思われていましたが、実際にはそうではないということが近年解ってきました。食した食物はある程度の物質まで分解されると、そのまま人間の体細胞として、吸収され組み込まれていくというのです。つまり、我々生物は、食糧を食べることで、生命を維持するための基礎的なパーツ集めを行っているのです。栄養価があれば良いというものではなく、水や空気、それが成長するために与えられた肥料や飼料など、食糧となる物体の過去の記憶を細胞として取り入れることでもあります。よって地産地消という行為は、生命維持と自己のアイデンティティーの確保のために、より安全かつ確実な生命活動であると考えるべきでしょう。

(3)目的別多様性型

 農業は、その目的に応じて多様性を持った産業です。そこで、そのすべてを農業として一括りにしてしまうのではなく、その多様性を発揮しやすいように目的に応じた制度や規制を設けるべきであるというのが私の個人的考えです。

【1】産業的農業

 いわゆる農業ビジネスは、この部類に入ります。業界に対して活性化を促すことにもなるため、緩やかな規制緩和の方向で進んでいくべきでしょう。しかし、リスクを伴わないビジネスは存在しません。大企業がその資本力を背景に、大量の農地を買収して大規模農業を起こすことは、地方の小規模農家の圧迫につながるばかりでなく、その経営を失敗すれば、大規模な食糧基盤を一度に耕作放棄にするリスクを伴います。よって、ビジネスとしての農業は農地の使用量の制限を設け、手厚い所得保障からは外すことが必要であると思います。

【2】食糧基盤的農業

 産業的農業に反して、安心安価で大量の食糧を安定生産するための農業は、国家安全保障の観点からも重要です。しかしこの農業では、農家自体の所得が低いため、産業としては経営を成り立たせるのが困難です。よって、国家による所得保障を実施しなければこの種の農業は衰退し、必然的に国内の食糧生産基盤は低下するでしょう。また、この種の農業に従事する農業者は、兼業農家のように副次的な収入として従事する農業者は望ましくありません。専業農家として使命感を持って、食糧生産に貢献することを条件に、政策としての所得保障を実施するべきであると思います。また、この種の農業に従事する農業者は、一般的に「篤農家」「農士」と呼ばれるような崇高な農業理念と信念をもったプロの農業者である必要があります。つまり、ビジネスとして儲かる農業を目指すのではなく、国家の食糧生産の責務を理解し、農耕を根本とした宇宙観・人間観を体得し、農耕文化の保護や継承にも思いをいたせる人物がふさわしいのではないでしょうか。

【3】医療福祉的農業

 土に触れることは、人間としての原点回帰を促す力があります。事実、老後の営みとして農業を始める定年退職者は少なくありませんし、帰農した多くの企業戦士の方々は、一様に「農作業を通じて、生きている実感を得られる」と満足げに話していただけます。また軽度の知的障害者にとっても、土と触れ合い農耕生活をすることは情操的に安定するようで、同様の観点から高齢者特別養護老人ホームなどでも、折り紙やお遊戯などの代わりとして、農耕の時間を設ける施設も出てきています。このように、農耕が持つ癒しの効果を利用して、福祉を目的とした福祉的農業という側面もあるでしょう。これは、経済原則からは独立した形で保護すべきであるし、また農耕すること自体に福祉的な効果があるため、技術的な指導者や教育者を必要としない点も特徴的です。また、食農教育による生活習慣病の改善や、食生活の見直しといった予防医療的側面にも活躍の場がありそうです。

【4】教育的農業

 農業は教育的に高い効果を持っています。近年では公教育の中において、総合学習の時間などを利用した農耕体験を実施することで、食の大切さや環境問題を学習することが流行っています。また、都会で暮らす学生や一般の社会人に対しても、農村宿泊による農業体験や、グリーンツーリズムなどが盛んにおこなわれています。しかし、これらの教育的農業が、それなりの教育効果を上げることなく、一過性のものに終わっていることは非常に残念です。その理由はこれらの教育的農業の中に、思想的な裏付けがないからに他ならないと考えます。ただ田舎の自然の中で、田植えや芋堀りなどをしたところで、それは癒しの効果はあっても、思想の転換を得るためのパラダイムシフトにつながるような教育的効果は得られないのです。教育効果を高めるためには、「なぜ、人は土に触れ農耕をしなければならないのか」「食べるということの意味は」「人間に与えられた使命とは」というような普遍的な命題に対し、哲学的な思考を深める時間を意図的に取り入れなければいけません。また、そのような教育を施すためには、農耕技術に優れているだけでなく、思想的奥深さと人材教育に対する情熱を兼ね備えた先生の存在が必要です。

4 命の時代の到来

 21世紀は「経済発展の時代」から「命の時代」を迎えます。世界は近い将来に必ず、食糧危機に直面するでしょう。ある組織の試算によると、2020年の世界の推定人口は75億人。この時の世界の飢餓人口は、8億4200万人に達すると言われています。お金を出せば食料が、そして安全はタダで手に入る時代は間違いなく終焉を迎えようとしています。今後数十年の間に、我々人類が直面したこともない未曾有の脅威が到来するだろうことは、あらゆる分野の専門家からも指摘されていることです。そんな命の時代の到来が予期される今だからこそ、我々はその備えとして、先人の知恵をその土地に根差した文化である農業に求めるべきであるのです。産業としての農業ではなく、環境を創造するための循環システムとして農業を捉え、生命維持装置としての役割をそれぞれの地域で確保し、そして農業が持つ多面的な役割を掘り起こすことで、真の豊かさを手に入れていくことこそが、これからの時代を生き抜く我々には必要不可欠であると思われます。

2008年10月 執筆
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