松下政経塾 The Matsushita Institute of
Government and Management

日本語英語


塾生レポート 一覧へ戻る
人間観
2007年6月

塾生レポート

松下幸之助の人間観と茶道
宇都隆史/卒塾生

松下幸之助の提唱する「新しい人間観」の構築に影響を与えたものは何であったのだろうか。それは、「常に松下の身近にあった死の影」の存在と、「茶道」の根底に静かに流れる禅の精神であるという仮説。松下幸之助の思考の構造を今までにない新たな視点から紐解く。

 

1 幾つもの死を乗り越えて

 ここに一枚の白黒写真がある。白シャツに灰色がかったスリーピースのスーツをかっちり着込み、髪を短く刈り込んだ青年実業家。その能面のように感情を押し殺した表情と耐え忍ぶような瞳が、見る者の心をひきつける。写真の青年は32歳当時の松下幸之助である。いったいどういう人生を歩めば、人はこういう瞳になるのだろう。私はそこに、松下の人間観に影響を与えた「精神的何か」を見て取った気がした。それは「常に松下の身近にあった死の影」である。

 一つ目の影は、親兄弟の死である。松下家はもともと和歌山県千旦の小地主で、広大な土地を持つ資産家であった。しかし、幸之助が父政楠が米相場に失敗してから、松下家は一気に没落する。8人兄弟の末っ子であった松下は当時4歳。苦労を知らずして育った裕福な家庭の子供たちにとって、夜逃げ同然で始まった辛く苦しい極貧生活。過度のストレスと貧困にどんなに心身をすり減らせたことだろう。翌年から兄弟が相次いで病気で亡くなり、松下11歳の時に父、18歳の時に母が相次いで亡くなる。そしてとうとう最後に残った一番上の姉も亡くなって、文字通り天涯孤独の身となる。松下は26歳であった。

 二つ目の影は、自己に忍び寄る病魔である。大阪電燈株式会社に勤めていた20歳の頃、過労により体を壊し医者に「肺尖」であることを告げられる。当時の松下ほど社会的に弱い存在はない。蓄えもなく、帰る故郷もなければ頼る家族も殆ど死に絶え、やっとの思いで貧困から這い出し、人生に希望が見え始めた矢先の病であった。しかし、松下は絶望しない。逆に病気は松下に大きな恩恵を与えてくれた。当時の松下は体調の不良により病臥していることの方が多かった。このどうすることもできない膨大な時間を、松下は人生や死の意味、人間の使命や宇宙の成立といった哲学的問題に取り組む思念の時間、いうなれば「臥禅」に費やしたのであろう。人は自らの死を直視し生命の本質を見極めようとするとき、初めて人間として本来あるべきよりよい生き方が見えてくるものである。

 そして三つ目に最大の死が訪れる。最愛の息子幸一の突然死である。長女の幸子から6年越しで生まれた待望の跡取り息子は、ふとしたことから脳症を患い、わずか数ヶ月の人生を終える。当時の松下は、家庭も商売も順調そのもの。しかも幸一は丸々と太った健康優良児だったから、まさに青天の霹靂だったろう。当時、松下は非常に人生を悲観し、無常感・無気力感に苛まれ、事業をやめようと思うほどであったという。

 もう一つ、「戦争による同胞の大量死」も、あの時代に生きた人々日とっては忘れ難い強烈な歴史であり、松下が受けた影響も少なくなかったであろう。

 以上の四つの身近な死は、松下に哲学的思考を芽生えさせるとともに、「人間を第一に考える」といった弱者に対する惻隠の情を育んだであろう。そして、後に提唱する「人間観」を大悟する伏線となったに違いない。

2 茶道との出会いとPHP研究

 芽生えた哲学的思考により、経営を哲学の域まで高めるきっかけとなったのは、某宗教の存在であった。松下はその宗教本部にて奉仕活動をする人々の嬉々とした表情、敬虔さに感動する。そして何故同じことが会社ではできないのかと熟考した末に、「宗教も人心を豊かにするが、経営も違いはない。経営こそ聖なる事業であるべきだ」と悟り、「生産者の使命は貴重なる生活物資を、水道の水の如く無尽蔵たらしめることである」という、有名な「水道哲学」を打ち立てるのである。しかし、松下が経営という枠から更に一歩飛躍して、独自の人間観・宇宙観を得るためにはもう一つ何か別の外的作用、つまりは触媒が必要であったはずである。私は、その触媒として「茶道」が重要な影響を及ぼしたと仮説を立てた。

 松下と茶道の出会いは、昭和12年、田中太介氏(田中車輌(株)社長)の邸宅「萬里荘」において行われたお茶会であった。松下は当時42歳。強い信念をもって活躍する若手の松下を、何かと支援してくれていた田中氏からのお呼ばれであった。たまたま正客に推された松下は、茶の嗜みが皆無であり招待客の前で恥をかく。「商売だけではいかん。日本文化も知らなあかん」と、田中氏の紹介で、松下は大阪茶道会理事長・裏千家流矢野宗粋氏に茶道を習い、京都の茶道具商・善田喜一郎氏に道具を世話してもらうこととなる。松下は翌々年に完成した自宅「光雲荘」の茶室「光雲」の茶室開きに、裏千家14代家元・淡々斎宗匠夫妻を招いてお茶を振舞った。十分な手前ではなかったものの、これ以降、松下は淡々斎宗匠の弟子として、また一つ年上の尊敬する友として生涯にわたる親交を重ねるようになるのである。

 戦後の荒廃の中で、昭和21年、松下は「物心一如の真の繁栄を実現するシンクタンク的存在」としてPHP研究所を設立する。これにより松下の哲学は事業を離れ、広く社会や国家・人類や宇宙に対して向けられるようになる。戦後復興により会社の経営が多忙となり、一時活動を中断していたPHP研究だが、昭和36年、場所を京都の真々庵に移し再開する。その際に、真々庵に新たな茶室を作るに当たっての地鎮祭で読み上げられた「真々庵に茶室を作る事の意義」の中で、松下が茶室とPHPの関係を述べているところがあるのでそのまま引用する。

「そもそもこの真々庵はPHPすなわち繁栄によって平和と幸福とを実現するための道理と方策を究めるべく縁あって私どもに与えられたいわば天与の道場であります。(中略)ことに日本古来の伝統によって育まれた茶の道には限りなき先人の教えが含まれております。この茶の道を味わいつつ時に瞑想し、時に清談することによって私どもはこの上なき心の安らぎと潤いとそして勇気を与えられる事と信じます。その意味において、これはPHP研究の道場であり私どもが真理に思いを馳せつつ心を養うための精進の場であるとも申せましょう」
こうして茶道の精神を根底に据え、幾多の議論、衆知の結集を経て「新しい人間観」の骨格ができ上がっていった。

3 新しい人間観と茶道の繋がり

 茶道はまさに日本文化と伝統精神の集大成である。そこには日本古来のあらゆる様式美がちりばめられており、花、書(和歌、表具)、道具(焼物、漆器、鋳物)、食(懐石、菓子)、着物(織物)、造園、建築、礼作法と枚挙に暇がない。しかし、松下が茶道に深く傾倒していったのは、その根底に静かに流れる精神文化、つまりは無形の美に心ひかれたからであり、そこには禅の精神が色濃く反映されている。

 松下の提言する新しい人間観は「正しい宇宙観の認識」「人間の本質(存在意義)の自覚」「人間の使命の実践に必要な心構え」の三つの柱から成り立っている。この三つの柱に対して、上記の禅の教えがどのように関連しているかを見てみよう。

(1)正しい宇宙観の認識

 松下の宇宙観を一言で表すと「万物の生成発展」である。

「この地球上においては、人間はじめいっさいのものは、たえず動き、変わりつつある。(中略)そして、それはただ変化しているのでもなければ、もちろん衰退死滅でもありません。生成発展なのです」。
これは禅で言うところの「万物流転、諸行無常」の精神に通ずるところだろう。だが、松下の宇宙観のオリジナリティーは、宇宙さえも限りのある一生命体に過ぎないとしたところである。宇宙万物に作用する目に見えない大いなる意思「根源」の存在があり、その意思によって万物は意味を持って存在し、宇宙全体の本質は「生成発展」することにあると説く。では、その根源の意思により与えられた人間の本質とは何であろうか。

(2)人間の本質(存在意義)の自覚

 古からの宗教・哲学の大テーマである「人間の本質」を松下は次のように考えた。「万物を支配活用する王者としての素質を発生当初から与えられている」。この「人間は万物の王者」という概念こそが松下の提唱する「新しい人間観」の最大のオリジナリティーである。人間に与えられた本質・能力を正しく認識し、根源の意思である偉大な使命を認識し実践していくところに真の生成発展は生まれるというのである。そして松下は、この宇宙の認識と人間の本質の「自覚」が何よりも大切であると説いた。

 禅には「不立文字(ふりゅうもんじ)」という教えがある。これは「仏法とは文字や言葉による知識ではなく、体感的な学びの中で自らが掴み取る悟りである」という意味で、説明することはせず、ひたすら自らを悟らせ自得せしめるように仕向けるのである。「百聞百見は一験に如かず」と松下は言った。つまり聞いたり見たりした断片的な学習は、自ら体験し煩悶して自得した真理には及ばないということであろう。松下哲学は、「まずは自覚ありき」、そしてそのための「実践ありき」なのである。

(3)人間の使命の実践に必要な心構え

 最後に松下は、人間の使命の実践過程を「素直な心をもってその天命を逐次高度に自覚していくとともに、個々の知恵を高め衆知を集めつつ、その本質を刻一刻と実現させ、これを人間の共同生活の上にも、万物いっさいの上にも及ぼしていく」と説いた。大切なのは「素直な心」と「衆知を集める」という二つの心構えである。

 「素直な心」とは「一つのことにとらわれずに物事をあるがままに見ようとする心」であると定義している。茶席でもよく掛けられる禅語に「本来無一物」という教えがある。これは「そもそも人は裸で生まれてきて裸で死んでいくもの。いっさいの物事に捉われてはいけない」という形而上の心構えを示したものである。松下の意味する「素直」もこの意味に近い。

 また、「衆知」とは「過去、現在を通じてのすべての人間の知恵」を指す。

 このように、「新しい人間観」には、茶道を通じて松下が得た精神的なエッセンスが散らばめられており、その形成に茶道が果たした役割と及ぼした影響は大きかったであろうことが推測されるのである。

4 政経塾に託した想い

 「新しい人間観」の提唱から3年後の昭和50年、松下は「新しい人間道」を提唱した。この一連のPHP活動を通じ、松下は人間の共同生活が真の繁栄に向かうようにするためには強固な政治が必要だと確信し、PHPの思想に則った若い力を政界に作り出すことを決意する。そして昭和54年(松下84歳)理想の国家の実現を目的に、それをなしうる人材育成機関として財団法人松下政経塾を設立し、理事長兼塾長に就任するのであった。塾生とのざっくばらんな意見交換や膝を突き合わせての清談につきあいながら人材育成に尽力する松下であったが、開塾から10年目の平成元年4月27日、日本政治の夜明けを見ずしてその生涯を終える。

 その政経塾も今年で創立28年を迎え、その知名度も全国区に及び、多くの政治家を輩出してきた。しかし我々は、塾主である松下幸之助の想いをどれだけ正確に汲み取り「自覚」し、かつ「実践」しているだろうか。

 私は、人生の意義とは「伝統・精神の継承と伝授」であると思っている。つまり、親や祖先、師や先輩、先人や偉人などが古代より受け継いできた伝統と精神。これを捉われのない心でしっかりと腹の中に落とし込み、自己の血肉とすること。そうして後から来る者たちのために、次の世代にまた正確に伝え受け渡していくことが、今を生きる者の使命ではないだろうか。塾生としての立場を省みるに、我々のなすべきは、理想の国家実現に向けて松下政経塾を設立した塾主の想い、そして塾生としての使命をまずは正しく理解し、捉われのない心で自得することだと思う。

 冒頭に記した塾主の若かりし頃の写真。今の私と同じ32歳当時の塾主のあの瞳に向き合い、自問自答する。
「塾主、我々はあなたの想いを正確に受け止め、そして実践しているでしょうか。」

<参考文献>

『人間を考える』 松下幸之助 PHP文庫
『私の行き方 考え方』 松下幸之助 PHP文庫
『PHPのことば』 松下幸之助 PHP文庫
『滴みちる刻きたれば』 福田和也 PHP研究所
「宗晃-茶人としての松下幸之助」 谷口全平 『松下幸之助研究』2002年冬季号 PHP研究所
「松下幸之助のお茶と真々庵」 徳田樹彦 『論議 松下幸之助』第5号 PHP総合研究所第一研究本部
『裏千家茶道』 学校茶道教本偏集委員会 財団法人今日庵
2007年6月 執筆
  1. HOME >
  2. 卒塾生一覧 >
  3. 宇都隆史 >
  4. 松下幸之助の人間観と茶道
ページの先頭へ