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歴史観
2006年8月

塾生レポート

石原莞爾の思想 -歴史というダイナミズムの捉え方
源馬謙太郎/卒塾生

「石原莞爾」 その名前にはさまざまなイメージが付きまとう。彼自身のその複層的なイメージそのものが、日中戦争から大東亜戦争へと引き込まれていった日本の複雑な情勢を顕しているともいえる。本稿は石原莞爾とその思想を俯瞰し、その中からわれわれは何を学ぶべきであるかを考察するものである。

 

1.はじめに

 石原莞爾と聞くと、一般的な評価としては、満州事変を引き起こし日本を戦争へと導いた「戦争犯罪人の一人」というイメージが語られることが多い。他方では、日中戦争を世界平和のための戦争と捉えた平和主義の先駆者という見方もある。

 旧日本陸軍の中でも卓越した天才的戦略家であり、「戦争の天才」と称されていた。またその知的側面から「狡猾な陰謀家」とも「精緻な理論家」とも評されている。思想面では天皇を中心とする国家観を強靭に持つ典型的帝国軍人であると同時に、日本という国家を超える理想のビジョンを持ち、勤惰文明のダイナミズムを信奉する国家主義者でありながら、都市文明の解体を予見したユートピア主義者であった。

 そのどれもが実際に石原が持っていた側面であるだろう。その彼が大東亜戦争の時代に生き、そして戦後まで生き残った。その彼の思想は現代の日本に何を残したのだろうか。以下に石原の経歴とその思想を考察し、そこから現代日本が学ぶべきことを考察してみたい。

2.石原莞爾とは

 石原は1889年1月18日に山形県鶴岡市に生まれる。父石原啓介は警察官である。1915年には陸軍大学校に入学。陸軍大学校創設以来かつてない頭脳の持ち主といわれ、三年後には次席で卒業する。歩兵連隊中隊長、陸軍大学教官などを経てドイツに駐在し、軍人としてのキャリアを積み上げていく。この前後に日蓮宗系の国柱会に入会しているが、この日蓮宗の教えが彼の後の思想に大きく影響している。

 石原がその特異な才能を発揮するのは、満州事変からである。
後述するように石原は満蒙領有の構想が示したが、結局は陸軍中央、関東軍内部との調整の結果、満州国家を独立させる方針を採ることになるが、1931年の柳条湖事件を機に満州事変が始まる。兵力は関東軍1万人に対し中国軍は25万人(別の資料によれば、公安隊を含め45万人)と、圧倒的に不利な状況であった。また装備も自動小銃など中国軍の方が良いものが多かったにもかかわらず、たった5ヵ月で満州全域を占領、翌年3月1日には「満州国」を建国した。これは、第2次世界大戦における、ドイツの電撃作戦(対ポーランド・フランス)に匹敵する戦果であったため、作戦の立案・実施を行った石原は「戦争の天才」と称されようになったのであるが、この戦勝をきっかけとして石原の思惑とは裏腹に、日本は中国軍の実力を極端に軽視し、戦火を拡大する方向に傾いていく。

 1937年7月7日の北京西南の盧溝橋で起った日本軍と中国軍との一軍事衝突は、華北地方に拡がり、更には上海・南京へと飛び火して、全面戦争へと拡大していった。この時、参謀本部作戦部長であった石原は戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え軍部中枢と対立し、さらには後に参謀長の東条英機との確執から予備役に回されることとなる。対ソ戦を最優先に考えると今中国と戦争するのは得策ではない、また来るべき最終戦争では東亜の一員である中国とも協力してアメリカと対抗しなければならない、と考えていたからである。しかしながら、現地の部隊にも国内の陸軍中央にも強硬派が多数を占めていた。満州事変が5ヵ月で終わった経験から、中国全土を支配するのも短期間で済むだろうという楽観的な考えが支配的だったのである。やがて石原は不拡大方針を引き下げるしかなく、本格戦争へと発展していったのである。

 戦後は東条との対立が有利に働き、極東軍事裁判においては戦犯の指名を受けず、東亜連盟結成に奔走しながらマッカーサーやトルーマンを批判した。東亜連盟の構想は、戦後の右翼思想に大きな影響を与え、また中国や韓国にも支持者が多くあったといわれている。

 その後立命館大学で国防学の教鞭をとったが、後に山形県に隠居し、1949年8月15日の終戦の日に没した。

3.石原の思想

 石原莞爾の代表的思想は、いうまでもなく「最終戦争論」にある。
この思想はどのようなものであったのだろうか。また、当時の、そして後の日本音思想や外交方針にどのような影響を与えたのだろうか。

 最終戦争論は1940年に京都で行われた講演で発表されたものであり、当初は「世界最終戦論」として発表されたが後に「最終戦争論」と改題された。彼のこの戦争論は東亜連盟の思想としてその後の日本の右翼に大きく影響を及ぼすことになったといわれている。

 石原は、この最終戦争論のなかで、近代技術文明の発達に伴って軍事力を及ぼしうる範囲と武器の力が増大し続けている、というダイナミズムに注目した。同時に、彼は人類の歴史とは抗争の歴史であると位置づけ、このようにして軍事力が増大していく以上世界のどこかで強力な国が出現し、他を圧倒するようになっていくだろうと予測した。そして、彼にとって第一次世界大戦はこの流れの中で必然的に起こったものであり、しかしながらその結果の不徹底のため、やがてそれを上回る世界規模の大戦争が起こると予言したのだ。戦争発達の極限に達するこの決戦戦争をもって戦争がなくなるのであり、それは決して人間の英知などによるものではなく、そもそも人間の持つ闘争心はなくならないと主張している。世界平和という理想を唱えながら、それを実現させていく人間は必ずしも理想的な生き物ではないと捉えているのだ。

 しかしながら、高坂正堯によればこの論旨は当時の世界の中ではよく見られ、したがってこの点が彼の最終戦争論のユニークな点であったとは言えないとしている。彼のユニークさはむしろ、第一次世界大戦の次の大戦、すなわち大東亜戦争、が「準決勝」であると考えたことにある。石原は当時の国際情勢を見て、いまだ最終戦争にいたるまでは煮詰まっていないと考えていた。ヨーロッパとアジアには大きな隔たりがあり、それぞれにおける覇権も定まっていないため「決勝戦」にはまだいたらないと考えたのである。そして、その経過の中で東洋文明を代表する日本と、西洋文明を代表するアメリカが「決勝戦」を戦うとし、そうした歴史観の元に外交および安全保障を展開しなくてはならない、というのが彼の提唱した「最終戦争論」の特徴であった。

 同時に、この「最終戦争論」の特徴的なこととして、上述したとおり日蓮宗の教えを継承しているということである。日蓮が「日本を中心として世界に未曾有の大戦争が必ず起こる。そのときに本化上行(*1)が再び世の中に出て来られ、・・・日本の国体を中心とする世界統一が実現する」と予言していることをあげ、自らの最終戦論を裏付けようとしている。そしてその先には世界の真の平和があるとし、そのユートピア実現を理想としている。

 多くの国が利害を争って戦争を行っているが、最終戦争は利害だけの問題ではなく、世界人類の長年の憧れであった世界の統一、永遠の平和を達成するための、やむをえない大犠牲としているのである。

 そして注目に値するのは、この最終戦争論を発表した時期は1940年であり、日中戦争の最中であったということだ。日中戦争は、東洋が西洋の盟主と決戦戦争をする前の準決勝であり、これに日本が勝利した後に中国も含めて東亜が結束し、西洋文明に立ち向かっていかなくてはならないと主張した。それゆえに戦略論として満州事変を起こした石原が、盧溝橋事件以降の日中戦争拡大に反対したのである。東亜の結束は、西洋が科学文明や技術力を柱として結びつくのに対し、それに立ち遅れた東亜の諸国は精神力・道義力によって提携するのが肝要であると述べている。そして天皇がその盟主となるのが望ましいが、これは日本が他国を制して実現すべき問題ではなく、日本は諸国家と平等に提携し、その徳と力によって諸国家の自然推挙によるべきであり、現在進行している紛争の最中に自ら強権的にこれを主張すべきでないとしている。

 このように、石原の最終戦争論は、決して一般的に捉えられているような「日本国粋主義」という単純な思想ではなく、その最終目標は戦争のない世界平和にあったことは間違いない。そしてそれは単なる空想的な理想主義ではなく、現実に進行している戦争を19世紀から続く戦争史のダイナミズムの中で捉え、日本のとるべき姿を提唱していると考えられる。

 しかしながら、この石原の東亜連盟の構想は、後の「アジア主義」思想に大きな影響を与えことは間違いないが、同時にいわゆるアジア主義とは一線を画するものであった。満州に関しても、石原はあくまでも戦略的軍事的側面から満蒙地域の「領有」の必要性を訴えていた。対ソ連戦へと「準決勝」が拡大していくことも考慮していた石原は、満蒙を軍事的拠点にすることが不可欠であるとしていたからである。しかし、陸軍中央部はここに親日的な「支那政権」を樹立することを主張していたため、地方自治政権を樹立することに譲歩した。しかし直後に陸軍中央を支えてきた民政党の第二次若槻内閣が崩壊し、今度は関東軍の中にあった自治政権に強硬に反対する勢力との調整の中で、領有論に戻ることもできず独立国家論に転向したのである。

 そもそも石原は、先に見たように最終戦争に備えるために中国本土で事を構えることには慎重であった。対米決戦戦争に備えるために、中国との関係悪化を最小限にとどめながら「日本の生命線」である満蒙を領有し、東亜が連携して静養のアメリカに立ち向かうという構想であった。しかし、ともに満州事変を指導した板垣征四郎などは日中戦争の可能性を想定していた。この想定の元では、満州国は日本の自己都合のための傀儡国家にならざるを得ない。しかし、いざ独立国家建設という方向に動き出すとそこに新たな理想として「アジア主義」的日中提携を主張する勢力も出てくることになった。彼らは満州国を「全中国が模範とするに足るような模範的な政治組織を作り上げ」、その結果「ほかの地域の一体化と団結」が可能になるだろうという認識である。これは主観的には日中提携とアジア連携を目的とする満州国の建国でありながら、客観的には中国侵略という矛盾が生じ、それを矛盾捉えられずにその後のアジア主義を構成する重要な要素となっていったのである。ここに満州国の悲劇があったといえる。

*1
釈尊が使わしたとされる使者。日蓮は自分自身もこの本化上行であると悟りを開いた。

4.石原の果たした役割:われわれは石原からなにを学ぶか

 これまでみてきたように、石原莞爾とその思想が当時の日本に与えた影響は大きいものであるといえる。日本の対中作戦には大きな発言力を持ち、また実際の戦闘においてもその天才的な戦略力を発揮し、日本を局地的ではあるものの、勝利に導いた。

 しかしながら同時に、彼の戦略と方針の転換(満州国の独立など)は、後の日本を泥沼の戦争に引き込んでいったことも事実である。満州国の独立が紆余曲折を経ながら石原によって決心されたため、この満州国理念が国内にいわば「逆輸入」され、国内のアジア主義思想に影響しつながっていくことになる。戦略の一部であった満州国そのものが、アジア主義思想として一人歩きしていくのである。

 私たちが住む現代の日本は、紛れもなくこの石原が存在した時代を含めた歴史の上に成り立っている。

 歴史家のE.H.カーは、歴史は解釈するものであって、過去と現代、未来との対話であると述べた。しかしそれは、ある立場や理念、思想を持つものや、過去にあった気分を肯定したり否定したりすることではない。その歴史が存在することを認め、それを大観し、そこから未来への理想像を見出していくことではないだろうか。その意味で、石原は当時から見た過去に向き合い、特に戦争を中心とした国際政治のダイナミズムを大観していたのである。

 その分析が結果的に正しかったかどうかを論じるのはあまり意味のないことである。石原が唱えた最終戦争論にしても満州領有論にしても、その欠陥を現代から見出して批判することはたやすいことであるが、その背景にあった歴史を大観し、結果としての失敗をもたらした歴史の流れを理解していくことが重要なのである。

 石原自身が望んでいた世界の平和は結局達成されず、また現代においてもユートピアとは程遠い。しかしながら、彼の理想としていた世界平和のビジョン構築とそのための歴史観は、後世に住むわれわれがまた石原の時代を歴史として振り返り未来のビジョンを描くときに、大きな参考になるのではないだろうか。

【参考文献】

石原莞爾 「最終戦争論」 中公文庫:1993年
井上寿一 「アジア主義を問いなおす」 ちくま書房:2006年
高坂正堯 「世界史の中から考える」 新潮選書:1996年
中村晃 「哲人参謀石原莞爾」 叢文社:2003年
福田和也 「地ひらく」 文春文庫:2004年
2006年8月 執筆
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