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歴史観
2006年7月

金子堅太郎が日露戦争期に果たした広報外交の役割
千田勝一郎/卒塾生

国際世論に対する説得力は、今後の日本外交にとって益々重要になるであろう。百年以上も昔、二時間超の演説により、日露戦争に対する国の立場を熱弁し、米国民を味方にした日本人政治家がいた。金子堅太郎である。本稿では国際世論を相手に海外で命を賭けた金子の足跡を考察し、今の時代に活きる智恵や経験を学び取りたい。

 

1.はじめに

 日本が経済的繁栄を今後とも維持してゆくためには、国際社会の平和と安定が必要であることは論を待たない。そのためには、国際社会におけるイニシアチブの発揮と、国際世論に対する説得力が、今後の日本外交にとってますます重要になっていくであろう。国際世論に対する説得力が必要であるといっても、日本人にとって苦手な分野として初めから諦めの感があるかもしれない。しかし、百年以上も前に、2時間を越える演説によって、日露戦争に立ち向かわざるを得なかった日本の立場を熱弁し、米国民を味方に取り込んだ日本人政治家がいたことを知り、誇らしく思うと同時に勇気を貰った。その人物とは、第三次伊藤内閣で農商務相、第四次伊藤内閣で法相を務めた金子堅太郎(1853年~1942年)である。

 金子は日露戦争期に政府の命を受けて渡米し、セオドア・ルーズベルト大統領と直接交渉をするなど、終戦工作に奔走した。同時期、海外で活躍した人物としては、渡英した末松謙澄、日本債起債による戦費調達を英国で行った高橋是清、或いはフィンランドなどに潜伏してロシア革命支援工作を行った明石元二郎などを挙げることもできるであろう。国家の存亡と威信を賭けた戦いの裏舞台で、異国の地で国際世論を相手に命を賭けた逞しい先人たちの智恵や経験から学ぶことは多い。本稿においては、その中でも金子堅太郎が果たした役割に焦点をあてて、考察していきたい。

2.時代背景

 金子は、ハーバード大学ロースクール留学時代や明治憲法制定にかかる調査時など、数度渡米しているが、本稿では日露戦争の終戦に向けて特命任務を行った1904年2月から1905年9月を歴史の軸としている。そこで、開戦の前夜から日露戦争に至るまでの歴史の時代背景を把握しておきたい。

 1498年にポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を廻り、南インドに到着した時点から、欧米の海からのアジア侵略は始まった。その後、欧米列強はこぞって植民地争奪競争を展開した。二十世紀初頭のアジアは、産業革命による生産力拡大を捌くための貿易市場を求める列強の草刈場となっていった(参考:『続・世界史の見取り図』荒巻豊志)。帝国主義の時代である。明治維新により新興の近代国家となった日本は、明治28年(1985年)の日清戦争の勝利により、日本は遼東半島と台湾の割譲を得るが、同年、独仏露三国干渉により、遼東半島の返還を余儀なくされる。しかし日本の遼東半島の返還直後には、ロシアが清国に有無を言わせず同地域を租借し、軍事拠点として要塞を竣工。外洋進出を切望するロシアは、その後次々と南下政策を実行に移していく。明治29年(1896年)には朝鮮王高宗を京城のロシア公使館に移している。また、明治33年(1900年)の義和団事件が収束した後にも、東清鉄道保護の名目で満州全域に駐留し、事実上占領下に置くなど、着々と極東進出の足掛かりが構築されていった。これに対して日本は開戦直前まで、日本は朝鮮に権益を持ち、ロシアは満州に権益を持ち、互いに不可侵にしようという協商案の交渉を働きかけていた。しかし、ロシアは朝鮮領土の軍事利用禁止と朝鮮の北半分である39度線以北の中立化の主張から終始譲歩することはなかった。要するに、ロシアは初めから日本の要求には何も譲る気はなく、恫喝すれば日本がロシアの要望に屈すると考えていたのである(参考:『日露戦争が変えた世界史』平間洋一)。三国干渉では、国際政治の力関係により日本は外圧に屈せざるを得なかったが、それから約10年、日本は「臥薪嘗胆」を合言葉に、挙国一致で軍備増強を行い、自衛力を強化していた。そして明治37年(1904年)2月、御前会議の結果、日露間の交渉を断念し、ロシアとの国交断絶と開戦を決断することになったのである。

3.金子堅太郎の渡米使命

 開戦と同時に、日本の為政者には終戦の絵図も念頭に入っていた。この点は先の大戦とは異なる点である。明治の元勲・伊藤博文は、御前会議の直後には既に金子を呼び、当時ロシアに有利であった米国民の世論を、日本の味方に有利に惹き付けるという使命を依頼している。米国留学の経験などから米国事情に精通し、また大学同窓であるルーズベルトとも個人的に親しい関係にあったことが買われた。しかし金子は事情通であるがゆえに、成功の見込みはないと再三固辞するのであるが、最後は伊藤の執念に根負けする。伊藤曰く、「成功不成功などは眼中にない。かく言う伊藤博文のごときは皆、陛下からの賜物である。今日は国運を賭して戦うときであるから、わが生命財産栄位栄爵ことごとく陛下に捧げてご奉公する時機であると思う。」「身を士卒に伍して鉄砲をかついで、山陰道か九州海岸に於て、博文の生命あらん限りロシア軍を防ぎ敵兵は一平たりとも日本の土地を踏ませぬという決心をしている。(『金子堅太郎・回顧録 日露戦争・日米外交秘録』石塚正英)」 勝算無きかつての高杉晋作の挙兵にも、真っ先に馳せ参じた伊藤ならではの気骨を見たように思う。

 かくして、金子は翌月3月に渡米する。船中には英国に渡る高橋是清(当時日銀副総裁)も居合わせた。その後、約1年半、日露戦争に立ち向かわざるを得なかった日本の大義について、米国民に演説や新聞を通じて親日の世論を醸成し、ルーズベルトをしてロシアを講和の席につかせることに成功するのである。当時の日本は、それ以上戦争を維持することは難しい状況であった。日本国民の知るところではなかったが、軍事費の圧迫により、財政は破綻寸前であった。日露戦争には19億円の戦費を費やしたとされているが、これはこの当時の国家予算の3倍程度の途方もない金額規模である。また、日本の死傷者数は甚大で、特に士官クラスが殆ど戦死するという壮絶な状況であった。とても組織的な戦闘を継続できる態勢にはなかったのである(参考:『坂の上の雲』司馬遼太郎)。そうした中、金子が終戦工作を成功させた意義は大きい。

4.金子の演説

 ではなぜ、金子堅太郎は終戦工作を成功裡に収めることができたのか。どのようにして、米国世論を味方に付け、米国大統領を講和仲介へと動かしたのであろうか。

 勿論、米国留学などの経験を通じて、米国民の国民性をよく理解していたということもあろう。正義を重んじる米国民に対して、日本の大義について、英語で論理立てて主張を展開できた金子の能力の高さは感服に値する。しかしそれ以上に、武士道精神を体現した金子の言動姿勢こそが、意外な力を発揮したのだと思う。

 自叙伝によれば、金子は米国到着1ヶ月後には、ニューヨークのユニバーシティクラブで、前内閣大臣、陸海軍将校、裁判所判事、大学総長、商業会議所会頭、実業家、銀行家、新聞記者など、二百人を超える壮々たる面々の前で、日露戦争の原因から当時の状況、日本人の決心の程を述べている。そして最後に、前々日にロシアの海軍大将マカロフが旅順港外で戦死したことを受けて、敵将の歴史に残る栄誉を称え追悼の意を表し、演説を結んでいる。敵味方の区別なく、死者の顕彰をすることは日本人らしい姿勢であるが、金子の演説発言を掲載した翌日の新聞紙上において、日本人は欧米人が考えることができない高尚な思想を持っていると賞賛されている。ロシアの駐米大使カシニーが、粗暴野卑な姿勢で日本攻撃を展開したのに対して、金子は無礼な言辞を並べるのではなく、称えるべきは敵国側でも敬意を示し称えるなど、武士道の美徳を髣髴させる演説でもって対抗したのである。

 次の演説はそれから1ヶ月経たない間に行っている。出身校のハーバード大学の誘いを受けて、学内のサンダース・シアターで演説している。豪雨にもかかわらず集まった何千人という聴衆を、金子は演説で2時間半、釘付けにしている。それどころか、長丁場になった演説を悪く思い、金子自ら1時間半ほどで中断したところ、寧ろ聴衆から総立ちになって、思いの丈を全て話せと演説継続を頼んだくらいである。結局、2時間を越える演説になった。英語教育の機会が格段に進んだ現代においても、海外で英語の演説で、2時間超に亘って聴衆を惹きつけることの能力のある日本人は殆どいないであろう。ここでも金子は、日露戦争開戦に踏み切った、止むに止まれぬ日本の事情を説明し、日露両国の国力の圧倒的な差を認めながらも、勝ち負けを超えて正義のために戦う日本人の決意の程を述べている。曰く「もしこの戦争で日本が亡びても、日本は少しも構わぬ、日本は正義のため、国を守るために国民皆矛をとって戦ったが、いかにせん暴露のために滅ぼされたということを歴史の一頁に残せば満足する。後世の人が昔日本という国がアジアの東南にあったが、暴露のために滅ぼされたという歴史を知りさえすれば、我々日本人はそれでもう満足だ。」と。大義のためには死生観念をも超越する武士道的態度、日本人の心意気を示しているかのようだ。また、米国ではアンダードッグといって、立場の弱い者に肩入れする国民性があるようである(参考:『日露戦争と金子堅太郎 広報外交の研究』松村正義)。大国に追い詰められた小国にも、「一寸の虫にも五分の魂」とでも言わんばかりである。この演説はアンダードッグに同情する国民性を掴んだもので、米国民は大いに義憤を感じている。独立戦争時にロシアが米国を支援した恩義もあり、また経済界にロシア系アメリカ人が多くいたことから、米国民の世論はそれまでロシアに傾いていたが、以後急速に対日友好の方向へと向かっていくのである。演説会を主催したハーバードクラブなどは、演説内容を小冊子にして、米国各地で配布活動を行ったりもしている。オピニオンリーダー層への直接の訴えかけが、一般民衆へも伝播していくのである。

 その後、金子は各地で日本の大義と日本人の考え方について、理解を広める活動を行った。そして渡米から1年、ニューヨークのカーネギーホールにおいても単独公開演説を行っている。このような場所で、「日本人の性質と理想」と題した演説を、二時間以上行った。日本人が古来より、他国から儒教や仏教を取り入れ、文明国家としての基礎を築き上げたことや、精神性の高さを言及するため、日本人の国民教育の方針である教育勅語の紹介もしている。ロシアが国際世論を奪うために、黄禍論を持ち出したり、非キリスト文明国としての日本のレッテル貼りをしたりしていることに対するカウンターである。「将来においては東洋の平特性と西洋の学術とを融合せしめ打って一丸となして一つの文明を造り、世界の人民をしてその恩沢に浴せしめ、全世界の平和を維持して世界皆兄弟という東洋西洋の聖教の本旨を実現させるという大希望を日本人は抱いている。」と、金子の平和観を披露している(参考:『金子堅太郎・回顧録 日露戦争・日米外交秘録』石塚正英など)。現在においても、日本人の独特な文化や考え方を世界に説明できずにさまざまな誤解を生むことがあるが、金子の広報外交は、理解の輪を広げる具体的成果を出していったのである。

 こうした米国内での世論の後押しもあり、ルーズベルトは終始日本に対して好意的な態度をとっていた。講和への仲介もさることながら、金子に対して友人として、さまざまな助力や助言をしている。例えば、ロシア艦隊がフランスの植民地下にあった港への入港に抗議したり、国務長官にも未だ知らされていないドイツ皇帝からの講和に関する極秘情報を伝えたりしている。ついでに言えば、金子はルーズベルト以外にも数多くの友人・味方を得ている。例えば国務長官の知恵袋といわれたヘンリー・アダムスは、帝政ロシアが行ったユダヤ人迫害(ポグロム)に端を発し、帝政ロシアに抵抗する勢力を応援する機運があることを金子に伝え、ユダヤ金脈を味方に引き込むよう助言するなどしている。これが高橋の英国での起債成功にも繋がるのである。

 勿論、ルーズベルトも単に金子との交誼で日本に協力した訳ではない。そこは米国の目的達成があることは当然である。中国への「門戸開放」や「領土保全」を主張する米国は、要するにはハワイ併合、米西戦争によって遅れを取った極東進出の足掛かりを必要としていたのは事実である。また、日露何れの国も大勝するとその後米国と利害が生じることから、両者痛み分けが都合良かったであろう。しかし、少なくとも日本の文化も含めて理解をしようと努力を払った最初の米国大統領であることは確かだ。日本美術研究者フェノロサやビゲローを通じて、日本人の性格や精神性に興味を感じていたルーズベルトは、金子から新渡戸稲造が著した『武士道』から、日本人の徳性を学んでいる。高尚優美なる性格と、誠実剛毅なる精神とを涵養すべしとして、5人の子供に『武士道』を読ませている。また、上下院議員や親戚にも配布している。更に、官邸の一室に日本から畳を取り寄せ、柔道の稽古までしている(参考:『日露戦争と金子堅太郎 広報外交の研究』松村正義)。著者もかつて米国で子供たちに柔道を教えて交流を図った経験があるが、このような国境を越えた心の交流や文化交流の大事さを改めて考えさせられた。

5.金子の功績から学ぶこと

 金子の功績として、勿論、終戦工作を成功させたことが挙げられる。しかし、その過程において、日本の文化や価値観、思考方式などについて、多くの米国民に認識を拡げたことの意義を重んじたい。明治期の先人が求めた武士道の義の追求は、理念や正義感を尊ぶ米国民にも共感を呼んだのである。同時期に英国においても、産業革命の反動から退廃的・刹那的風潮が強まる中、武士道を柱とする日本の精神面についての評価がなされている(参考:『日露戦争-その百年目の真実』産経新聞取材班)。「国家という存在が稀薄となり、愛国心が死語になりつつあるなかで、われわれ平成の日本人は日露戦争百年の歴史を振り返り、明治のサムライ日本の義を再確認し、武士道の本質である義務や名誉などを見直し、世界に尊敬される義のある普通の国を再構築(『日露戦争が変えた世界史』平間洋一)」する必要があるであろう。

 また、金子はキリスト教国対異教徒国説や黄禍論、宣戦布告なく日本が戦闘開始したとするロシアの世論攻撃に対して、機を逸することなく反論を切り返している(注:当時は国交断絶すれば直ぐ戦端を開くことができ、国際法違反ではない。開戦前の宣戦布告が求められるようになったのは、日露戦争後である1907年のハーグ平和会議における「開戦に関する条約」締結以降。)。現在、靖国問題や南京大虐殺の有無などを巡り、中国及び韓国との間で軋轢が生じている。この論争に対して、国内では理論的な反論が多数出ているが、日本に理解を示す論調を伝えている欧米メディアを余り目にしたことがない。歴史の見方というものは、立場によって当然異なるものではあるが、英語という言語でも主張すべきはしなければならないと思う。例えば、南京大虐殺は、中国政府や華僑が総力をあげて英語で発信しているため、このまま日本が英語で反論をしなければ、二十一世紀の世界史として定着してしまうのではないだろうか(『日露戦争が変えた世界史』平間洋一)。北朝鮮拉致問題では、国連の場などで粘り強く主張を繰り返してきたことの成果や、政府が英語版のパンフレットを作製・配布や、被害者家族による国際社会の理解を得る国外活動の開始などがあってから、事態に大幅な進展があったように思う。戦後の日本外交を回顧してみれば、国際社会に対する説得力が欠如していた要素であることは否めない。国際社会の理解を得ることを意識し、海外に主張を発信する態勢を強化することが、今後は重要になっていくであろう。

 昨年、日露戦争終結百周年を迎えたその年、著者は日露戦争の激戦地、旅順郊外の二○三高地に立った。難攻不落の二○三高地を制圧してから、この高台から一望できる旅順港を支配に入れ、日露戦争の勝敗は決定的となる。旅順攻防は熾烈を極め、日本は6万人以上の死傷者を犠牲と引き換えに二○三高地に立つのであるが、壮絶な戦いの中に咲く先人たちの心意気は、司馬遼太郎著の『坂の上の雲』に詳しく紹介されている。まさに「皇国の興廃この一戦にあり」の覚悟が示す通り、日露戦争に敗退していたならば、日本は南下政策を成り振り構わずに進めるロシア帝国の支配域になったであろう。或いは、当時の清国と同様に、欧米列強の分割支配の対象とされていたかもしれない。平和の時代、国家が存続していることは、ごく当然のことにも思えるかもしれないが、特に20世紀は、国家の誕生や国家の消滅或いは統合が繰り返された歴史であったことを考えると、精一杯の時代責任を果たしてきた先人たちに対する感謝の想いが尽きない。このことを伝えて、本稿を締め括りたい。

以上
参考書籍

『金子堅太郎・回顧録 日露戦争・日米外交秘録』石塚正英編著
『日露戦争が変えた世界史』平間洋一著
『続・世界史の見取り図』荒巻豊志著
『坂の上の雲』司馬遼太郎著
『日露戦争と金子堅太郎 広報外交の研究』松村正義著
『日露戦争-その百年目の真実』産経新聞取材班著
2006年7月 執筆
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