松下政経塾 The Matsushita Institute of
Goverment and Management

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2001年7月

研修レポート

現場体験実習報告
白岩正三/卒塾生

 

研修日程

2001年7月10日~2001年7月28日

研修場所

さくらプロジェクトタイ さくら寮など(タイ・チェンライ県)
76M3. T. Rimkok A. Muang C. Chiangrai 57100 Thailand
TEL: 66-53-750560, 66-53-751190 FAX: 66-53-751191
ホームページ http://chmai.loxinfo.co.th/~sakura/

研修先詳細

 さくらプロジェクトはタイ北部において、山岳少数民族の子供達に対して、寮を運営し教育機会を与えている。子供達の寮費、教育費等は日本の里親達によってまかなわれ、貧しい山岳民族達の負担を最小限に押さえることで、学校に通うことを可能にしている。また山間部の教育や生活改善のためのプログラムも行っており、衣服の提供や教師の派遣、またインフラの整備等も手がける。今年で10周年を迎え、郵政省のボランティア貯金や、ロータリークラブなどからの支援も受けながら、現地スタッフ6名とともに、その活動規模を拡大している。

研修内容

 寮内の子供との交流、指導、設備の改善、ホームページ作成など

 食事は毎日朝7時、正午、午後5時に寮内にて取る。毎朝9時頃よりホームページの作成作業や翻訳作業に入り、午前中いっぱいを過ごす。この間は子供達も皆学校に行っており、集中して作業に向かえる時間である。正午に近づくと一時帰宅している子供達が、ご飯を食べに行こうと誘いに来てくれる(パイ(行く)・キン(食べる)・カウ(ご飯)これが最初に覚えたタイ語である)。作業も後半はストレスがたまってくるので、毎回こうして向かえに来てくれる子供達は私にとっては天使のような存在であった。私が寝泊まりし、主に作業をしていた寮から食事を取る寮までは、歩いて5分ほどである。この間子供達と、辞書を片手に会話をしながら歩くのが日課で、随分とタイ語の発音を学ばされた、ただタイ語には発音できない言葉が多く子供達からは何十回と繰り返させられ、またよく笑われた。午後からは天気や他のスタッフのスケジュールに合わせながら、施設のメンテナンス等を行う日もあった。子供達は15時くらいから帰宅しはじめる。彼らは非常に行儀正しく、帰ってくると必ず私の所までやってきて、ワーイ(合掌)しながら挨拶をしてくれる。それが十数人連続でやってきたりするので、こちらも挨拶を返すのが大変である。夕方5時に近づくと、彼女たちはまた食事に誘ってくれる。食事はほとんど三輪氏とともに取った。毎日気づいたことを質問したり、さくら寮や山の現状について多くを教えてもらう良い機会だった。三輪氏にはナイトバザールに連れていっていただいたり、食事や山へと連れていっていただいたりと個人的にも随分お世話になり、お話などを通してタイ社会について見識を深めることができた。

 さて夕食の後は7時まで子供達の自由時間である。男の子からはサッカーやバスケといったスポーツに誘われ、女の子からは散歩へとよく誘われた。スポーツは言葉を使うことなく交流ができたので、子供達との友好を深める非常に有効な手段であった。また散歩は近所の学校や寺を回ったのだが、色々話もでき非常に楽しく交流することができた。子供達も最初は緊張し、恥ずかしがって近づいて来なかったが、時が経つに連れ、積極的に私に近づいてきてくれた。7時からの勉強時間、彼らと同じ部屋で私はホームページ等の作業に戻るのであるが、勉強に飽きた子供達がよく話しかけてくれた。その分私は仕事に集中はできなかったのだが、一緒におかしを食べたり、お茶を出してくれたりしながら、その分彼らとの交流を深めることができ、夜遅くまで話をしたことも多い。そういう時間に大抵、私は彼らの生い立ちなどをじっくり聞く機会を得たのだ。日頃何を考えて生活しているのか、将来の目標は何なのか、そして今までのどのような生活を送ってきたのか。様々なことをオープンに話してくれて、大変勉強になった。その様な中で私の彼らに対する愛情も大きくなっていったのである。そのほかにも彼らと接しながら日本社会、日本文化、日本語、及び国際問題や英語を教え、伝えてきた。英語の宿題や英語の歌の練習もしたし、世界地図を広げて地理の勉強を無理矢理させたこともある。毎日同じ英単語や、地理のテストを出してあげたりしたので、彼らも忘れないだろうと信じている。英語は随分とレベルが低い、また日本語も数人が片言程度が話せるだけである。従って会話も英語、日本語、タイ語のチャンポンとなるのだが、それが非常に楽しく、子供達も私の辞書を取り上げてはタイ語を教えてくれる。交流は研修の中での重要な要素の一つであるが、その中で彼らも私から何かを学んでくれていれば非常に幸いである。

感想

 「学校教育」のない世界とは一体どのような世界であろうか。現在でもアフリカやアジア諸国を中心に、まだ世界中で大勢の子供達が教育機会を求めている。国際開発の分野では現状を伝えるため、「貧困の輪」というものをよく利用する。いわゆる貧困者の悪循環を表したもので、お金がない→教育が受けられない→資格、技術、教養がない→仕事がない→お金がない。このように一巡する輪のことである。私の様に教育面からの国際開発を唱える者にとっては、もちろんこの貧困の輪を断ち切るのは教育面からであるべきだと考える。教育援助を与えて、この悪循環を好循環に変えようとする方法論である。しかし現実はそう甘くはない。教育の機会が与えられたとして(どの程度与えられるかによるが)も、そこから好循環の輪が回り始めるかどうかは大きな疑問である。

 今回の研修を通して、この現実の厳しさを思い知らされた。まずもって途上国は子供=労働力であるということの認識を考慮する必要がある。次世代の社会の改善を選び、負担は大きくなるが、子供達への教育に投資するのか、それともその日暮らしを乗り切るために今を生きるのか。多くの場合は選択すら与えられていない。生きるために、老いも若きも皆働くのである。さくら寮には一旦は入寮を許可されながら、そして勉学の方でも好成績を上げながら、家庭の事情で山へと帰らざるを得ない者が多いのである。

 具体的な感想に入る前にもう一点強調するならば、彼らにとって山の下での生活はその生活スタイルが大きく異なるという点である。電気や水道の無い村もまだある、学校や車、家電などはごく限られた範囲である。家は狭く夜は暗い。村の多くが、NGOなどの支援を受けており援助の古着を着ている。大家族は当たり前で、子供達も農作業をはじめ多くの仕事に従事する。山の村においては、家庭環境の複雑な子供も多い。エイズや交通事故が死因の大半を占める国である。両親が病気を煩っている家、片親しかいない家庭も多く、またアル中や薬物中毒のケースもある。弟や妹が幼く、教育を受ける替わりに幼子の面倒を見る子供達、病気の両親に代わって働く子供達が非常に多い。出稼ぎも多く、多数がバンコクや台湾へと渡るのである。またタイ政府から正式にタイ人として認められていないケースも多く、そのような人々は他県への移動が制限されるなど、様々な差別を受けている。さくら寮の子供達はそのような家庭から来た子供達なのである。

 以上のようなことを見聞きする中で、私は当初、子供達は苦しみ、悲壮感をも漂よわせているのではないだろうかと想像した。しかし、子供達と接すれば接するほど、私は子供達の素直さ、勤勉さ、行儀の良さそして何よりも、彼らの明るさと優しさに大きな感動を覚えることとなった。お互いに言葉の壁や文化の壁はあったものの、彼らのそのフレンドリーさとホスピタリティーに大いに助けられ、楽しく研修が行えると共に、彼らとの生活は、自分の生活を見つめ直す良い刺激を与えてくれたように思う。

 彼らはよく働く、早朝や帰宅後の掃除や草むしりなどの寮の仕事もそうであるし、大きな子供達は小さな子供達の面倒をよく見る。また夜遅くまで勉強をしている姿や縫い物、洗濯などしている姿もよくみかける。それぞれ自立し、自分のことはすべて自分で行うとともに、責任感や他人に対する思いやりも大いに持っているのである。与えられた環境に感謝し、そして与えられた機会を最大限活かすために努力する彼らの姿は非常に美しいものである。

 さくら寮には現在147名の子供達が滞在している。それぞれ皆、いろいろな形で私に接してくれたが、その中でもより長く時間を過ごせた子供達とは、会話のなかからさらに多くを学ぶことができた。彼らの置かれた現状をより理解していただくため、ここではその中での会話から学んだことを少し紹介しておきたい。一番始めに私の隣に座って、いろんな質問を浴びせたのがマンセンという20歳の女の子である。少しおっちょこちょいな子ではあるが、笑顔が絶えず誰からでも好かれる女の子である。非常にフレンドリーで、そして好奇心に満ちあふれている。実際彼女に会った日本人の支援者の方々も、彼女を是非支援したいと申し出る方が非常に多いそうである。そんな彼女も、その笑顔の裏には大きな問題を抱えているのである。三輪氏のレポートに詳しく述べられているので引用したい。 (http://chmai.loxinfo.co.th/~sakura/news/19-children.htm)

「マンセンの母親は、彼女が8歳の時、32歳で亡くなった。母の弟が脳炎にかかり、チェンライにある公立病院に入院したので、その見舞いに行った帰りのことだった。メーサイ行きのバスに乗った母は、自分の村への乗り合いトラックに乗換えるべきバス停を少しすぎたところで、乗り過ごしたことに気づき、あわてて車掌を呼び、降りようとした。ドアを開けたまま走っていたバスは一旦停車したが、マンセンの母が完全に降りきらないうちに発車し、母はステップから転げ落ちて、脳挫傷で亡くなった。明らかに運転手と車掌の確認ミスだったが、バス会社からは5万バーツ(日本円にして13万円)の見舞い金が出ただけだった。それはヤオ族では葬儀代にもならない額だった。これがタイでの命の値段だ。マンセンは母が亡くなったとき、涙を流さなかったという。本人に聞くと、マンセンは母の亡骸を見ても、まだ生きているように見えて、おじいさんからもらったおこずかいでお菓子を買ってきて、病院のベッドに横たわっている母にあげたのだという。  その頃から霊能力があったのだろうか。マンセンは母がその日、チェンライの町に行くというと、「行かないで」と、泣いて懇願した。しかし母は弟の見舞いに行って、結局亡くなった。それは運命だったのだろうか。運命といえば、もともとマンセンは生きられなかったかもしれない運命の子だった。出生時、マンセンの頭の皮膚にはある種の異常があった。ヤオ族では、このような障害を持って生まれた乳児は、間引きされて殺されるのだ。しかし、マンセンを殺すのに忍びなかった母は、マンセンを育てることにした。母が亡くなったとき、マンセンを殺さずに育てたために、自分が身代わりに亡くなったのだと村人は噂した。そんな話を聞くたびに、マンセンは涙が止まらないという。  現在、父親は再婚し、マンセンに新しい母親ができた。奥さんにも連れ子が2人おり、父親は実の息子たちも含めて6人の子供を養わなければならない。生活はきびしい。一番上の兄は、台湾に出稼ぎに行っている。17歳と15歳の弟はバンコクに出稼ぎに行った。父親は農業に行き詰まりを感じて2年前に個人の乗り合いトラックの運転手になろうと、無理をして中古のピックアプトラックを購入した。しかし業績は思ったように伸びず、莫大な借金だけが残った。最近はいつ会っても深刻な顔をしている。マンセンが親からもらえる小遣いも微々たるものだ。小遣いがなくなってお金を無心に家に帰ると、父はひどく憂鬱な表情になり、来年はもう進学させることはできないという。  彼女は職業訓練校に進学したがっている。

 彼女の夢をかなえさせてあげたいなどと、きれいごとを言うつもりはない。進学しないことに よって彼女が直面するであろう過酷な現実を、私はみたくないだけのことなのだ。 幼い頃から食が細く、病気がちで、いつ死んでもおかしくないといわれていたこの少女が、18歳まで生きてこられたことを思うだけで、私はこの子の存在が、とてもいとおしく、かけがいのないものに感じられる。」

 マンセンに出会って、一週間ほどしてこのレポートを読んだ私は非常に大きなショックを受けた。同一人物だとはとても思えなかったのである。レポートを読んだあと、初めてマンセンと顔を合わせたとき、私は本当に涙が出そうになった。彼女は私たちの何倍も人間としては強いのであろう。彼女は幸い日頃の努力が認められ、日本研修ツアーに昨年参加することができた。参加できたことの対して、また支援してもらっている日本人サポーターに対して彼女は非常に感謝をしている。私の出発の朝、彼女は私に手作りのプレゼントをくれた。これからどうなっていくのか、本当に長い目で見守ったやりたい。

 彼女のような問題を抱える子はここでは特異な例ではない。私の到着の翌日に散歩に連れていってくれ、その後仲良くなった女の子Aは帰る数日前、母親が病気になったと私につげた、言葉の問題もあり、病状までは理解できなかったが、危ないと言っていた。彼女は4人兄弟の年長者であり、兄弟のうち2人は聾唖者であるという。これから勉強が続けられるのか、それとも山に帰り兄弟の面倒を見なければならないのか、私の中では大きな不安が残る。またB子は5人の母親のうち、二人が亡くなり(本当の母親は生まれてすぐに亡くなった)、二人が実家に帰ってしまったという。父親はミャンマーに親戚の葬儀にいったまま、紛争で国境が閉ざされて帰ってこれなかったという。その彼女からは帰国後、早速手紙を頂き、いつか日本にいってみたいと夢を語ってくれた。このような例を挙げ始めればきりがない。さくら寮で働くスタッフとてそれぞれに問題を抱えている。そして彼女たちの多くは、さくら寮で働きながら勉学を続けていることも忘れてはならない。

 将来は通訳や看護婦、またはタイの開発に従事したいと彼らは夢を語る。私はそんな彼らに別れ際に数点の想いを伝えてきた。まず一生懸命勉強して欲しいということ。日本は裕福だと思われてはいるが、不況の中、若い世代の競争は激化している。日本の子供達も受験地獄の中、競争にうち勝とうと必死になっているという事実、そしてアフリカや他のアジア諸国ではまだまだ教育機会の与えられていない子供達も多数いるという事実。それらの事実を踏まえた上で、援助してもらっていることへの感謝と、勉強ができることの喜びを常に頭の片隅において、勉強に励んで欲しいと伝えた。また語学の大切さも伝えてきた。日本語や英語を独学で学ぶ子供達も多く、私も研修の中で彼らにタイ語を教わりながら、両言語を教えてきた。語学を学びマスターすることによって広がる世界やその喜びについて伝えてきた。そして最後に夢を諦めないで頑張るようにと伝えた。一生懸命頑張る彼らと、いつか世界中で再び出会い、共に仕事ができる日が来ればと心から願う。

 そんなことを伝えながらも、恵まれない環境下にあって、彼らの努力が将来報われ、結果に結びつくことがあるのだろうかという悲しい疑問も同時に抱いている矛盾した私がいる。真の平和とは機会の均等であるという話を以前したが、タイ社会、特に山岳民族は努、力をしても恵まれないことが多い。このような環境の改善の抜本策はタイの経済発展や政治向上でしかなく、個人レベルで寄与できる分野は非常に限られている。その中でも、理解者や支援者を増やすべく広報活動や支援の訴えを継続的に行うこと、そして、出会った彼らがどのような人生を送るのか見届け、その中で彼らの置かれている環境に対する改善を求めていくことが私の使命となろう。

 今回現地での交流を通して、国際交流とそこから発展する協力の重要性を再確認することができた。お互いが出会い、理解し合い、そして生活環境について学び合う。そして必要であれば、お互いの得意分野で助け合えばいいのである。顔の見える交流、協力とはまさにこのような体験や取り組みを言うのではないだろうか。個人的な強い問題意識と愛情は今後の活動において、大きなエネルギーとなるであろう。このように始めの「出会い」を体験する者が増えれば増えるほど、国際協力は促進されると信じている。私も彼らの笑顔と優しさを忘れることなく、今後の研修につなげていければと思う。最後になったが、さくらプロジェクトの三輪隆代表を始め、特にタイ語の話せない私を優しくサポートしてくれた現地スタッフの皆さん、そして楽しい時間を過ごさせてくれた子供達に感謝の意を表したい。

2001年7月 執筆
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