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松下政経塾伝統の100キロ行軍。24時間以内に100キロを歩ききらなければならないという政経塾始まって以来の荒行だ。三人一組のグループで歩き、一人でもリタイアが出ると翌年も歩かなければならない。リーダーとして迎えた私の死闘を綴る。
松下政経塾の塾是の冒頭にある「真に国家と国民を愛し」ということは、どういうことなのであろうか。我々、塾生はこのことを常に真剣に考え続けなければならない。
この一つの回答として、4月に来塾された小野晋也塾員は次のようにおっしゃっていた。「国家と国民全員の痛みを自分の痛みとして考えられるようになること」。これを聞いたとき、私には大きな壁を感じた。果たして国民全員の痛みを自分の痛みとして考えることはできるのだろうか。これを誠実に捉えるなら、赤の他人の痛みも自分と全く関わりのない人の痛みも自分の痛みと考えなければならない。非常に難しいと考えていた。
しかし、国民全員というところから始めるのではなく、せめて同期の痛みを自分の痛みとして考えられたら。私は今回の100キロ行軍のテーマを「同期の痛みを自分の痛みとして考える」ことに置いた。
振り返れば4月。100キロ行軍の担当者を決めるにあたって、私は迷わず立候補をした。32期唯一の体育会出身者として、体力だけには自信があったからである。しかし、これが後悔に変わるには、それほど時間を要さなかった。理由は二つある。100キロ行軍はグループで歩く。誰か一人でもリタイアしてしまったら、翌年そのグループはもう一度歩かなければならない。先輩方の話を聞くうちにリーダーの役割が如何に重要かを理解した。過去にはグループ制が故に無理をし、救急車で運ばれた方もいたという。そういうときのリーダーの判断力、つまり棄権をするという判断は非常に難しい。できるならばクリアしたいという考えが先に立ち、取り返しのつかないことになる可能性もある。こんな判断が私にできるのかという疑問があった。もう一つは、9年連続で全員がゴールしているというプレッシャーであった。私の代でこの記録を途切れさせてはいけないというプレッシャーである。リーダーとして非常に大きな責任があると改めて実感した。
100キロ行軍の準備として、30キロと50キロの歩行を実践した。30キロ行軍は7月30日に実施。塾をスタートし、藤沢、鎌倉、江の島を通って、帰塾するというルートを通った。50キロ行軍は9月24日に実施。京急線の三浦海岸駅をスタートし、本番と同じルートの後半50キロを予行演習として歩いた。いずれも周到な準備をしたため、これが後々大きく影響する。
そして本番当日。前日から降り続いていた雨もあがり、雲一つない非常にいい天気であった。我々イ組は高橋舞子塾生と物江潤塾生と私の三人。私がリーダーを、高橋舞子塾生が地図を担当し、物江潤塾生がタイムキーパーを担当した。我々の作戦は50分で5キロを歩き、10分の休憩をする。決して前半飛ばさないという計画であった。後々、この計画などなかったに等しいことになるのではあるが。
10時にスタート。20キロまでは予定通り歩いていく。さらに40キロまでも想定の範囲内であった。メンバーに疲れが見え始めてきたのが45キロ付近。最初に変調が見られたのが高橋塾生だった。既に35キロの観音崎付近でマッサージをしたときにはふくらはぎがパンパンの状態であったが、久里浜の尻コスリ坂を上りきったところで遂に限界に近い状態になっていく。45キロ、50キロと休憩ポイントでの先輩方の温かい支援によって、疲れたふくらはぎをマッサージし、その度に回復するも、次の5キロで再び限界に来るという騙し騙しの闘いになる。
55キロ。スタートからは既に11時間半を経過。ここで支援に来て下さった大谷塾員から坂道での歩き方のコツを教わった。これを忠実に実施する。足の疲れのペースが鈍ってくるのがわかる。
三浦市内ののどかな漁港を越えていくと風車のある宮川公園が見えてくる。60キロポイントだ。ここでは先輩方が総出でサポートして下さった。なんとか高橋塾生のふくらはぎがもってくれ。祈る思いで、このポイントを越えた。
さらに先を行く。高橋塾生の足が厳しいという状況に変わりはないが、我慢して歩いてくれている。しかも、いざとなれば物江塾生と二人でかばいながら、なんとかゴールしよう。そう見通しを立てていた。この時点では…
その見通しが甘すぎるということに気づくには、それほど時間を要さなかった。県道215号線に別れを告げ、「城ケ島入口」交差点を右折するとダラダラと長い上り坂に差し掛かる。そのときである。私は思いもかけない状況を目の当たりにした。今度は物江塾生に異変が起きたのである。前週から足の裏に裂け目のようなものができていて、気にはなっていたのだが、ここにきてそれが潰れてしまったのだ。さらに、足をかばいながら歩き続けたため、両足に痛みが走り続ける状態となってしまっていたのである。正直想定外の出来事だった。しかし、諦めるわけにはいかない。メンバーを必死に励ましながら65キロを迎える。
65キロからの道は、畑の中を一直線に歩く。直線のため、歩けど歩けど、なかなか前に進んだ感じがしない。私が先頭で歩くといつの間にか二人が遥か後方を歩いているということが多くなった。最後尾を歩き、後ろからペースを刻ませることにする。もうすぐ70キロだ。
70キロでは古山塾頭はじめ多くの先輩方がサポートして下さった。特に4月から我々32期生をサポートして下さり、今回も山梨から遠路応援に来て下さった宮川塾員の姿を目にしたときは、正直涙が出そうになった。ビデオによる記録を撮っていた堀塾生に「ここまでは準備体操です。これから30キロが本番です」などと精一杯の強がりを言って、70キロポイントを後にした。
75キロまでの道はイ組にとっての一つの大きな山になった。後半に坂はあるものの比較的歩きやすいこの区間を1時間以上かかってしまったのである。高橋塾生の足は限界を超えていて、マッサージすると激痛が走る状態まで悪化していた。一方の物江塾生は、両足をかばい続けたため、腰にも疲労が出てきている。歩くフォームが定まらないという状態に至っていた。そうした中で75キロを迎えた。
75キロでは、ある事実を目の当たりにする。ロ組の情報である。この時点で我々イ組とは一時間以上の差がつき、快調に歩いているとの情報であった。しかも、このままのペースを維持すれば大会新記録の可能性もある、とのこと。仲間の素晴らしさを感じるとともに焦りも感じた瞬間であった。出発前に6人全員で一緒にゴールしたいと宣言した私にとって、この情報は複雑な情報であった。様々な葛藤の中、75キロ地点を出発する。
80キロ地点まで続く道。海沿いに国道134号線を北へ北へと歩いていく。もう二人はまともに歩ける状態ではない。私は二人のリックサックを取り、三人分の荷物を持つとともに、ある決断をした。そして、ロ組のリーダー丸山哲平塾生の携帯電話にコールをする。「イ組は厳しい。ロ組は新記録をつくってくれ」、と。全ての雑念がふり払われた瞬間だった。
もう勝負はどうなるかわからない。ここまで個人としては余裕だった私の身体も、三人分の荷物を背負う5キロは腰にきた。ペースをとることも儘ならず、この5キロを1時間18分もかかってしまう。ここからは時間との闘い。24時間以内にゴールしなければならない100キロ行軍。既に時計は4時半を回っている。残りは5時間半。長めの休憩はこれが最後にし、先を急ぐことにした。
「メンバーの痛みは自分の痛み」。当初掲げていた自分の目標を再度思い出す。両足が限界に来ているのであろう。高橋塾生の目からは涙がこぼれていた。物江塾生は足を庇いながらの歩行のため、フォームが定まっていない。相当つらいのである。みんなで乗り切りたい。なんとか歩き切りたい。100キロ歩き切ったその先にはきっと何かあるはずである。
時間は刻々と過ぎていく。そんな中、必死にペースをつくっていった。時に中腰でメンバーを押しながら、時に「1、2、1、2」と口に出しながら。一度予行演習で歩いた道である。コースは把握している。このあたりからラストまでの15キロは、大阪から来て下さった北川塾員をはじめ多くの方がサポート地点以外のところでも声援を下さった。その姿を見る度に元気が湧いてきた。
90キロ地点。奇跡は起きた。この5キロを54分で歩き切ったのだ。目の前に希望が広がっていく。残り10キロ。まだまだ油断はできないが、確かな手ごたえを感じた。ここまで来たら、歩き切るしかないだろう。みんなで頑張ろう!
9時19分。我々イ組はゴールした。23時間を超えるタイム。しかも、最後は冷や冷やしながらのゴールになってしまった。しかし、当初の私の目的は達成できたのではないかと感じる。見事大会新記録を達成したロ組。彼ら3人がゴールの100メートル手前で我々を待っていてくれた。6人全員で肩を組みながらのゴール。これ以上何を求めるのだろうか。我々6人が真に団結できた瞬間だったと思う。
100キロを経て。同期の痛みを自分の痛みとどこまで考えられていたかわからない。しかし、あの時の私は理解しようと必死だったのは間違いない。「真に国家と国民を愛し」。人間観の修業は一生続いていくのであろう。
※サポートして下さった諸先輩方、塾員の皆様、職員の皆様、関係した全ての皆様に感謝を申し上げます。海外インターン生1名を含む、我々32期生6名が全員ゴール出来たのは一重に皆様のお陰です。本当にありがとうございました。
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Genki Eguchi
第32期
えぐち・げんき
東京都立川市議/自民党