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心が洗われるような3日間であった。人生の記憶に残る3日間になることであろう。とかく理屈で物事を捉え、頭で考えがちな私は、今回、できるだけ考えず、感じることに専念した。
そうは言っても、完全に雰囲気を味わいきれるレベルでないことは言うまでもない。手前の優美さをどうこう考える以前に、手前の順序自体があやしいレベルである。初めて稽古の番がまわってきた際には、手元以外はあまり目に入らず、「順序」を考えていたように思う。裏千家の畳を薄茶の粉で緑に染め上げた人間はそう多くはないだろう。その時、私の手からお茶の入った棗(なつめ)はポロリと落ち、粉末が畳に飛散していた…。
吹っ切れた私は、これ以降、感覚が徐々に鋭敏になっていったように思う。墨が時折音を立てて燃え、ほのかに墨のいい香りが漂う。障子の向こうから射すやわらかな光が茶器の影をつくる。床の間に飾られた軸はその前に生けられた花とあいまって、茶室全体を整えているように感じた。凛とした空気が流れながら、どこかにホッとする会話のやりとりがある。こうして私は少しづつ、「茶の心」を感じていくことができた。
「和敬清寂」。茶の心を表す言葉とされる。茶室という狭い空間で、客ともてなす主人とがお互いに身分・立場の上下なく敬いそして空間とも和す。心を清らかにしつつも一本の筋を通して緊張感を保つ(寂)。若干の語意のぶれがあるかもしれないが、私が感じた茶の心である。侘びという美意識の下に、余計な装飾等を一切排除した、必要最低限かつ十分な環境の中で、客と主人が一期一会を愉しむ。主人はその為にあらゆる気づかいをし、客もそれに礼をもってこたえる。一つ一つの所作は、こうした心が全て反映されているのである。ある意味では、これ以上の贅沢はないかも知れない。一回の呼吸につい感情移入してしまう空気はなかなか作り出せない。
この感覚を「美」と感じられるのはなぜだろうか?理屈ではない。やはり、親をはじめとして様々な環境から我々が教えられてきた価値観が、茶の道のなかに凝縮されているからなのだろう。そう考えてみると、私はやはり日本人であることを再認識してしまう。アイデンティティといったやや大げさな言葉はしっくりこないが、400年の歴史を体現する裏千家の茶の心に私自身の価値観も違和感なく溶け込むのである。しっかりとした原則を底流に持ちつつも、他者に対して決して高圧的でなく、強制的でないというバランス感覚。一期一会を最大限満喫する為に、絶妙な気づかいとやさしさが「茶の心」には感じられるのである。
最終日には、お家元と先代のお家元のお二人からそれぞれお話しを頂くことができた。振りかえれば、まさに茶の道を経て人生へ通じるお話であったように思う。お家元からは、「まずは自分自身を知り、その後で他者を論じるべし」とのお話しがあった。実践の為には敬の心をもって他者と和そうとする態度が必要だろうし、清の心なしくて自分自身を知ることはできず、それなくして寂という揺れ動かない自分自身の形成は不可能であろうと思う。
また、先代の体験談、特攻隊の戦友が言った「活きて還ったら茶室で一服飲ませてくれ」とのお話しは、一期一会の重みを理屈抜きで私に実感させた。茶の心、もてなしの心とは、それほどまでに繊細で重みのある心なのである。その体験をもとに、「一服のお茶で平和を」と世界中でお茶を立てていらっしゃる先代の人生に、ただ頭が下がる思いであった。
感じたことを文字にするのはなかなか難しい。どうしても理屈っぽくなる。気張らずに筋の通った文字が出てこないのは、私の「和敬清寂」があまいからであろうか。まだまだ、ほんの入口を垣間見たに過ぎないことは分かっているが、それでも今回の体験は大切にしたい。茶の心「和敬清寂」を人生の心として。
以上
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Yosuke Kamiyama
第24期
かみやま・ようすけ
神山洋介事務所代表