論考

Thesis

「命知」にみる経営の聖性
――ヘンリー・フォードと天理教

はじめに

 「某教の事業は多数の悩める人々を導き、安心を与え、人生を幸福ならしめることを主眼として全力を尽くしている聖なる事業である。(中略)われわれの事業も、某教の経営と同等に聖なる事業であり、同等になくてはならぬ経営である。私はここまで考えてくると稲妻のごとく頭に走るものがあった。」[i]
これが、松下幸之助(以下、塾主)の脳内において「命知」が誕生した瞬間である。「某教」とは天理教のことであり、塾主は天理教の施設見学などを通して自身の経営観を再検討するに至った。命知とは、産業人としての真の使命を知ることであり、その真使命とは、物資を豊富たらしめ、貧をなくすことである。のちに水道哲学と言われるこの使命は、「物」を通じて社会を豊かにするという考え方であり、塾主が愛読した自動車王ヘンリー・フォードの経営思想、とりわけ「標準化」による大量生産の思想と深く通じ合うものであった。
 本レポートでは、「命知」以降の松下電器の経営理念にフォードの事業観と天理教の教えがどのように影響しているのかを考察する。すなわち、物心一如の繁栄における「物」――すなわち物質的な豊かさの実現――をフォードの経営哲学に、「心」――すなわち精神の安定と使命感に満ちた労働――を天理教から学んだ塾主の思想を紐解いていく。

第一回創業記念式

 昭和7年5月5日、松下電器産業では第一回創業記念式が挙行され、塾主は全店員168名を前にして「所主告辞」を述べた。その中で塾主は、次のように語っている。

所主告辞
「凡ソ生産ノ目的ハ吾人日常生活ノ必需品ヲ充実豊富タラシメ、而シテ其生活内容ヲ改善拡充セシメルコトヲ以テ其主眼トスルモノデアリ、私ノ念願モ亦茲ニ存スルノデアリマス。」[ii]

 この言葉は、企業活動の本質を「物資の豊富化」と定義し、単なる営利を超えて人々の暮らしの向上に寄与するという企業の公共性を明示したものである。告辞を聞いた店員は、自身の仕事が物資を豊富たらしめる聖なる事業であり、使命を持って取り組むべきであると自覚し、感激にうちふるえた。この日以降、店員の仕事に対する士気は一段と強まったという。
 実は、昭和4年に制定された「綱領」「信条」によってすでに企業の公共性は掲げられていたが、それらは当初、全社員への浸透を目指すほど重きを置くことはなかった。[iii]小さな町工場でこのようなものを有するのは珍しかった[iv]のもあり、昭和七年入社の丹羽正治氏は綱領、信条の掲示を見て「『この親父さん、本ものかいな』と、いちばんさきに疑問に思った」[v]という。綱領、信条の制定と「命知」の違いは、少なくとも創業記念式で集められた全店員が塾主の考える企業の聖性に深く共鳴したことである。(塾主の人間観や後年のPHP活動に冷ややかな見方を持つ社員もいた[vi]ようである。真使命が多くの店員を感動させたことは間違いないが、本当に「全社員」に行き渡ったのかどうかは疑問が残る)

フォードの商法

 経営において貧をなくす具体的な考え方は、のちに水道哲学と言われる。これは、水道の水のように貴重な生活物資を安価無尽蔵たらしめること、いかに貴重なものでも量を多くして、無代に等しい価格をもって提供することである。
 水道哲学は、フォードが考える「標準化」に非常に近い。標準化とは、フォード社が生産効率を高めるために行った独自の工夫であり、部品の規格化・統一、作業工程の分業化、ベルトコンベア式流れ作業などがある。フォードは次のように述べる。
「真の意味での標準化とは、消費者に対して最良の商品を十分なだけ、しかも最低のコストで生産できるようにするため生産上のすべての最良の点と、諸商品のすべての最良の点とを結合させることである。」[vii]
 この理念に基づき、フォードは車の大衆化を目指して、車の組み立て作業に大量生産方式を導入した。腕時計や銃の生産ですでに採用されていた移動式組み立てラインを、より複雑な自動車の生産に用いる事で、T型フォード一台の組み立てを僅か93秒に切りつめ、最終的には価格を300ドル以下にすることに成功した。[viii]これは、それまで富裕層のものであった自動車を大衆に開放するものであり、農民を馬車から解放したとも評されている。
 それまで企業の第一目的は利益追求が当然だった資本主義社会のアメリカにおいて、「製産されたる品物の質が上等で、そして代償は低廉なるべき」[ix]という理念を貫いたフォードはきわめて異色かつ先進的な存在であったと言える。フォードのこのような功績と思想について塾主は、「自分の製造する商品が、いかに大衆なり社会なりに大きな影響を与えるものか、という大きな使命感に彼は立っている」[x]と考え、感銘を受けるとともに、後年には横浜のフォード社の工場を視察するなど、標準化を実現した具体的な手段にも関心を寄せた。

天理教などから学んだ「使命感」

 塾主は、自身の人生観の多くを宗教から学んでいたようだ。例えば、塾主の公私両面の相談役でもあった加藤大観は真言宗醍醐派の僧侶であった。また塾主は、戦前において「生長の家」や「モラロジー」の教えに触れたことがあるとされ、[xi]昭和42年からは創価学会の池田大作名誉会長との会見も重ねている。[xii]こうした宗教への強い関心の例として、昭和7年3月の天理教施設の見学がある。
 塾主は知人に勧められ、天理を訪れた際の印象を「その建物の規模の壮大さといい、用材の結構さといい、普請の立派さ、ことに掃除の行き届いて塵一つ落ちていないありさまなどには自然と頭が静かに下がるのを覚えたのである」[xiii]と述べている。また、塾主は神殿で参拝者の靴を磨いていた若者に「君はここでいくら給料を貰っているの?」と尋ねたところ、「いえ、私たちは給料どころか、ここへ来る旅費も滞在費も全部自分で出して参ります」と返され、そんな馬鹿な、と思ったという記録が残されている。[xiv]
 この頃の天理教は、教祖の死後50年の節目となる「年祭」に向けて、教祖殿の改修や神殿の増築が信者の無償労働によって進められていた。塾主が来訪した昭和7年3月だけでも、参拝者数は10万人に達したとされる。「昭和普請」と呼ばれるこの時期の凄まじい発展ぶりは、「雨御年祭気分の白熱化につれて、全国あるひは海外各地よりも地場団参はいよいよ等比級数的に増加して、今やお屋敷めがけて押し寄する団参の潮は強い力を以て本教内に一種のア・ラ・モードを現出して…」[xv]という記述からもよく分かる。
 このような発展を支えたのは、「陽気ぐらし」の実現という宗教的使命である。天理教信者は、人々が互いに助け合う社会をつくるという使命のもと、神から与えられた身体を使って奉仕することを喜びとしていた。労働は「ひのきしん」と呼ばれる神恩報謝の思いの発露による信仰実践[xvi]であり、そこには有償労働を超える精神的な高揚が伴っていた。生活が決して楽ではなかった時代に、これほど多くの無償奉仕者が天理に集まったのは、このような宗教的使命感があってこそである。
 塾主は、この日の帰りの電車の中で、人の幸福は物質的な豊かさと精神的な安心の二つから成り立つと悟った。両者は「車の両輪のごとき存在」[xvii]あり、どちらが欠けてもならない。「我々がやっている仕事と言うものは、心に安心立命を与えない。しかし、日常使うものを与えて、富を与えている。だから天理教は心を救うのだ、我々は貧をなくすんだ。社会を豊かにして貧をなくす。貧乏を克服する仕事をやっているんだ。」[xviii]というように、自身の事業が宗教活動と同じくらいの聖性を持つものであると気がついた。これが、冒頭で塾主の述べた稲妻のような衝撃である。
 しかし、どちらも聖なる事業であるにもかかわらず、宗教は繁栄し、産業界では恐慌により倒産が多く起こっている。この違いは、「宗教の場合は、なんとかして多くの人を救おうという信念に立っているが、われわれは、ともすれば自分のために商売をしている」[xix]ことである塾主は考えた。すなわち、経営もまた「多くの人を救う」ことを目的に据えることで、より大きな繁栄につながるのではないかと確信するようになったのである。
 そして、塾主はこの二つの車輪のうち、自身の経営産業において前者の物質的な豊かさを推し進めることで社会の繁栄に貢献すると心に誓ったのである。経営の現場においても、社員一人ひとりが「貧をなくす」という社会的使命感を持って労働に従事することで、「ひのきしん」と同様、精神的充足を伴った働き方が可能になると考えたのではないだろうか。これらが、天理教本部の見学を機に「命知」が誕生した一連の経緯である。

おわりに

 塾主にとって、天理教本部への訪問は産業人としての真使命を考えさせることになった直接のきっかけであり、結論として得た真使命の内容をなす水道哲学そのものの発想の根底に、フォードの社会的な企業思想があったと推察される。しかし、塾主本人はフォードの思想に関心を寄せつつも自身の思想との関係性については明言しておらず[xx]、あくまで一筆者の見方であることを明記しておく。
 フォードと天理教はともに事業の「聖性」、つまり経営が単なる営利活動ではなく、人間や社会の幸福を目的とする倫理的・精神的な価値を持った営みであると自覚させる上で決定的な役割を果たした。前者は物資の大量供給という形で社会の貧をなくす術を、後者は精神的な使命感をもって労働する尊さを示した。産業は直接心を救うことはできないが、「物」の豊かさを通して人々の生活を支えることはできる。その一方で、使命感に裏打ちされた「心」ある働きが、仕事に真の価値と尊厳を与える。塾主が経営において目指したのは、まさにこの「物と心」の両輪が調和した働き方であり、ひいては物心一如の幸福社会の実現であった。

引用・参考文献

[i] 松下幸之助『私の行き方考え方』実業之日本社、1962年、P290

[ii] 同上、P299

[iii] 住原則也『命知と天理: 青年実業家・松下幸之助は何を見たのか』道友社、2021年、P86

[iv] 松下幸之助『成功への軌跡 その経営哲学の源流と形成過程を辿る』PHP研究所、1997年、P190

[v] 丹羽正治『いま壁にぶち当っている君に―おやじ松下幸之助の教え』波書房、1976年、P3

[vi] 川上恒雄『松下幸之助の死生観 成功の根源を探る』PHP研究所、2024年、P17

[vii] ヘンリー・フォード(著者)、稲葉襄(監訳)『フォード経営―フォードは語る』東洋経済新報社、1968年、 P99

[viii] マイケル・ポラード(著者)、常盤新平(訳者)『フォード ヘンリー・フォード 世界を変えた6人の企業家4』、岩崎書店、1997年、P33

[ix] ヘンリー・フォード(述)、サミュール・クローザー(編)、加藤三郎(訳)『我が一生と事業:ヘンリー・フォード自叙伝』加藤三郎(出版者) 1926年、P22

[x] 松下幸之助『仕事の夢暮しの夢: 成功を生む事業観』PHP研究所、1986年、P77

[xi] 川上恒雄『松下幸之助の死生観 成功の根源を探る』PHP研究所、2024年、P95

[xii] 木野親之「松下幸之助氏の王道の経営としての人間主義経営」2016年、創価経営論集 第41巻第1号、P14

[xiii] 松下幸之助『私の行き方考え方』実業之日本社、1962年、P283

[xiv] みちのとも 2011年10月号 第57回 井筒正孝「松下幸之助と天理教」P42

[xv] 天理時報 昭和7年3月31日版

[xvi] 身近なところから始めよう | 天理教・信仰している方へ
https://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/hinokishin/mijikana/
(2025年5月6日最終閲覧)

[xvii] 松下幸之助『私の行き方考え方』実業之日本社、1962年、P290

[xviii] 松下幸之助「命知五十年を期して決意を新たに」(PHP総合研究所研究本部「松下幸之助発言集」編纂室『松下幸之助発言集28』PHP研究所、1992年)、1980年、P377

[xix] 松下幸之助『決断の経営』PHP研究所、1991年、P165

[xx] 川上恒雄「松下幸之助の思想的背景はいかに把握されてきたのか――経営学者による研究を中心に」『論叢松下幸之助』(第11号)、PHP研究所、2009年、P112-115

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