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教育
2010年1月

「教育」で日本を建て直す
宮川典子/卒塾生

国家を想いながら教育のあるべき姿を考え抜いた3年間、一貫して同じテーマを掲げてきた。たくさんの人との出会いや気づきから得た、これからの私の使命とは何か。まだ成長中の自分の素直な想いを、今ここに綴る。

 

序章 あの日、私が「『教育』で日本を建て直す」と書いたワケ

 あれはいつだっただろうか。たしか、松下政経塾への入塾が内定し、ホームページの個人ページに掲載するプロフィールを書いていた時だったと思う。「研修テーマ」という項目を前に、私は少しだけ戸惑っていた。やりたいこと、やらなければならないと感じること、その他にもたくさんの想いはあるのだけれど、なんだか上手にまとめることができなかった。しばらく手を止めて、ハッと思いついたように綴ったのがこの言葉、「『教育』で日本を建て直す」だった。

 このテーマを目にし耳にした人は、必ずと言っていいほど「宮川さんの志は教育改革なのですね」と言う。しかし、その言葉が私にはどうもしっくりこない。教育改革も一つの大切な事柄ではあるが、私はその先に「日本の建て直し」、つまり「国家の建て直し」を常に見据えているからだ。

 日本は、国家である。これは、誰もが疑いようのない事実。

 では、国家とはどのようにして成り立っているのか。私は、その形成要素は大きく分けて2つあると考えている。1つは、国家は法によって統治され、政治や経済、社会福祉などさまざまな社会システムによって運営されている、いわば非常に大きな有機体であるということ。そして、もう1つは、国家はそこに生きる人々の意思によって創り上げられていく崇高な共同体であるということ。前者をハード、後者をソフトと置き換えればわかりやすいかもしれないが、私はハードの大切さを重々理解した上で、やはりソフトの強化こそが国家の建て直しには必要だと思ったのである。「『教育』で日本を建て直す」の『教育』は、決して「いかに学力の高い有能な人間を育成するか」などという短絡的な課題を解決することを指し示すのではなく、国家を創造する形成者をどのようにして育成していくか、つまり現代日本が求める国民をどう育成するのかが最大の課題なのである。

 どんなにいいハードがあったとしても、それを動かすソフトに力がなければ意味がない。どんなに性能のいいコンピューターがあってもそれを生かすソフトがインストールされていなければただコンピューターの形を成しているだけ、どんなに素晴らしい機能を備えたマシンがあっても使いこなす知恵がなければ鉄屑とさして変わらないのと同じである。国家にどんなにいい社会システムがあろうと、政治の場でどんなに優れた政策が出されようと、どんなに経済が成長して豊かになろうと、どんなに素敵な生活環境が整備されようと、それらの本質を理解して判断し、さらによりよい方向へと向かわせようとする国民の見識がなければ、国家は衰退の一途をたどるのである。これは、誰にも責任転嫁をすることができない、我々国民一人ひとりが担っている大きな責任なのである。

 しかし、私たちはこの揺るぎようのない事実を、どこかに忘れてきてしまってはいないだろうか。自分たちの行動が、自分たちの考えが、自分たちの想いが、この国家を創り上げているという真実から、私たちは目を背けてはいないだろうか。私の危機感は、まさにここにある。国民一人ひとりが見識をもって責任を全うすることを諦めてしまえば、政治や経済がどんなに成長しても、国家は足元から崩れ落ちてしまう―。そんな気がしてならないのである。だからこそ、今、国民としての見識と胆力を持つための「教育」が必要なのである。

 あの日、さらっと書いた「『教育』で日本を建て直す」という言葉。上手な言葉ではないが、しかし私の志をすべて言い表している。そして、この言葉は、私が私たち日本人の力を心底信じているからこそ発することができるものでもある。そんな信念を胸に、私はこの大テーマに果敢に挑んでいきたいと、あの日固く心に誓ったのである。

第1章 教師だった私が抱いていた想い

 「教師が究極目標に到達するには、少なくとも三つの段階を通過しなければならぬ。
 その一つは、生徒たちの一人びとりを、一個の生きた魂としてかき抱くということ。
 第二の段階は、自分の受け持っている子どもたちの一人ひとりが、親の身としては実にかけがえのない大事なお子たちだということが、真に実感としてわかるということ。
 第三の段階は、日々自分の眼前に居ならんでいる子どもたちは、その一人残らずが、やがては日本民族の一員として、極微的にそれぞれの角度から国家を支えるということを認識し常に心に留めておくこと」

 「教師は、この日本国家を支える小国民の人間的な基礎づくりをする重責を背負うわけであります。言い換えれば、この日本の国には、教師でなければどうしてもやれない仕事があるということなのです」

 これは、国民教育の父・森信三の言葉である。教師になる決意した時、ある本を手にとって何の気なしに読んでいてこの言葉に出会った。私の教師信条にもなっている言葉だ。

 「母校に帰ってきて、後輩を育ててみる気はないか?」―。その言葉は、私にとってはまさに青天の霹靂だった。大学では教育学を専攻し、特に教育行政学について研究していた。教職課程を履修し、教員免許も取得できる見込みだった。教育実習を行う中で、「自分は人と接することがこんなに好きなんだなぁ」と感じたりもした。しかし、教師になることなど考えたこともなかった。そんなある日、所属していたゼミの先生に相談をすると、「あなたは教育をよくしなくては、と思ってここまで勉強してきたのでしょう。ならば、現場を知らない教育学者になっても意味がない。思い切ってやってみなさい」との言葉。またある日、恩師に相談すると、「教育は、健康な人をより健康にすることができる。現場で味わう経験は何ものにも代え難いよ」との言葉。迷いながらモヤモヤしていた自分の中の霧が、すうっと晴れていくような気がした。その2つの希望ある言葉だけを頼りに、私は教師になる決意を固めたのであった。

 5年間の教師生活でたどり着いたのは「教育の目的とは、子どもたちがもっている“本分”“天分”を開花させること」だという、私なりの教育観だった。また同時に、教師としての使命とは何か、とも考えた。国民を育成するという国家づくりの基礎は、教育者に任されているといってもいい。子どもたちにとって、「今」は「今」しかない。何年後、何十年後に「あの時は失敗しちゃったからやり直し、ね」などと絶対に言えない重責を担っているのだ。だからこそ、「教師でなければどうしてもやれない仕事がある」ということを常に心に留め、教育という厳粛で崇高な仕事に携わっていかねば、と感じたのであった。

第2章 教育現場は一体どうなっているのか

1.教育ネガティブキャンペーンに一言申す!

 いつの世も、「教育問題」は社会の注目を浴びている。今この時だって、テレビや新聞、雑誌などで必ず教育に関係する話が取り上げられている。子どもたちの学力や道徳心や体力の低下、いじめ問題や自殺率の増加、学級崩壊、家庭の教育力の低下、受験戦争、校内暴力の増加、不登校の増加、子どもの不良行動―。挙げ出したらキリがない。むしろ、「教育問題」はどんどんどんどん増えていっていると感じずにはいられない。

 今の時代、どこに行っても誰と会っても教育について話をする機会が多い。「教育に対してはみな一家言もっている」と言われるだけあって多角的な意見交換ができる。教育の面白さは、同じ目標に向かって教育活動を行っていても、そこに到達するまでの方法は「十人十色、百人百色」というくらい、画一化とは程遠い“自由と多様性”が本質的に内在していることだ。そう考えれば、AさんはAさんなりの、BさんはBさんなりの教育観や方針を持っていてもおかしいことはないし、違えばこそ切磋琢磨をすれば無限の発想や改善を期待できるということでもある。しかし、私は思うのだ。世の中の人はこれほどまでに教育問題について意見をするが、その熱と反比例して、どうにか問題を解決しようと動き出そうとする人は数少ない。教育をどうにか良くしようとして話しているならまだわかるが、教育を良くしようという気概もないのに、いたずらに「日本の教育はダメ」だと言うなら、それは「教育ネガティブキャンペーン」に他ならないのではなかろうか。「教育に対しては、みな一家言もっている」というのは間違いで、「教育に対しては、みな無責任な批判ができる」ということになるのではなかろうか。

 「教育問題」は存在する。それは紛れもない事実である。しかし、誰かのせいにしてネガティブキャンペーンをしていれば済んだ時代は、もうとっくに終わったのだ。教育問題をその他の社会問題と切り離して考えず、「ダメだ」と諦める前にいいところを見つけ、小さなことでもいいから改善への一歩を踏み出すこと、「教育ポジティブキャンペーン」を始めることが大切だと、私は強く思うのである。

2.先入観を捨てて教育現場に目を向けよう

 「教育ポジティブキャンペーン」を始めるためには、まずこれまで持っていた先入観を捨てなくてはいけない。子どもたちはダメだ、親はダメだ、学校はダメだ、先生たちはダメだ、地域はダメだ、文部科学省はダメだ、と今まで悉くダメ出しをしてきたものに対する考えを一旦捨てていくことが先決である。

 これから綴る話は、私が実際に現場で見た光景そのままである。松下政経塾に入塾してからというもの、全国のたくさんの人たちと出会い、たくさんの学校に足を踏み入れ、たくさんの教育実践を目にしてきた。批判を浴びることが圧倒的に多い教育現場で今、一体何が起こっているか、ぜひ素直な心で目を向けていただきたい。

ア)夜間学校で涙する教師たちが目にしたものとは

 2007年の秋、私は「日本で一つだけの学びのスタイル」を実践している学校に足を運んだ。公立の中学校としては唯一、午後から学ぶ学齢期の生徒と、学齢超過の夜間学級の生徒がともに学び合う学校として開校して3年目の、まだまだ若い学校だった。不登校児童生徒等を対象とする特別教育課程を編成して教育を実施する学校(平成17年7月6日文部科学大臣決定)に関する指導要項に基づく指定校であり、中学校1~3年生までの昼間部に在籍する学齢期の生徒たち(約10名)は、不登校の経験を克服しようと努力しながら勉強にも積極的に取り組んでいた。また、40名前後の生徒が在籍している夜間部は、世代(17歳から最高齢87歳まで)も国籍も生育の背景の違いも乗り越え、お互いに熱心に学び合う姿が見られるという、私たちがイメージする「学校」とは一味違ったおもしろいシステムで運営されている学校だった。不登校児童生徒のために特別教育課程を組んで克服を狙おうとする試みは全国各地に広がりつつあるが、お話を伺ったり実際に生徒の皆さんとふれあってみると、実は“夜間中学校”が併設されているというところに非常に重要なポイントがあることに気がついた。

 まず、校長先生と昼間部の教室を覗いてみた。そこには、生徒が2名しかいない。昨夜遅く、というより明け方まで起きていたのだろう。席には座っているものの、グッタリして授業にならないようだ。その後も何人か登校してきたのだが、教室には入らない生徒あり、知らない間に帰っている生徒ありで、不登校からなかなか抜け出せない子どもたちの苦悩が見え隠れしていた。そうこうしていると、時計が午後4時を指し、そろそろ夜間部が始まる時間となった。その日は夜間部で調理実習をするとのこと、昼間部の女子生徒一人も調理に参加したいと申し出て、夜まで一緒に学校に残ることになった。

 夜間部の生徒さんや先生方と一緒に教室に入ると、教室の掲示物のほとんどがひらがなで書かれているではないか。漢字を見つけることが難しい。少し戸惑っていると、さっそく授業が始まった。ひらがなを練習する授業である。私が不思議そうな顔をしていると、そんな私に気づいた先生が声をかけてくださった。「話していると、普通に日本語を話すでしょう?でも、皆さんは字が読めないんですよ」と。授業前に雑談をしている時には気づかなかったこと―それは、夜間部の生徒の識字率が極めて低いということだった。

 識字率ほぼ100%の私にはわからない感覚だった。そこで、勇気を出して聞いてみると、あるおじいさんがこんな話をしてくれた。「ここの学校で字を習うまでの80年近く、私にとって世の中は怖いところだった。看板があっても何と書いてあるかわからないし、特定の生活ルートより外に出てしまえば右も左もわからない。細かいお金の払い方すら知らなかった。でも、ここで勉強したら、世の中が明るくなったんですよ。宮川さん、勉強するって世の中が明るくなることなんですよね」と。私は涙が止まらなった。

 日本の教育は、世界の中でも指折りのレベルに位置しており、世の中にある文字という文字を読めない人などいないといっても過言ではない。私たちにとって当たり前のことが、実はとても幸せなことだと教えてもらった気がしたのだ。教師に戻れるのなら、子どもたちに伝えたかった。「学問とは、お金を稼ぐための道具でもなければ、地位を得るための手段でもない。本当は手探りのモザイクがかった世の中を明るくすることなんだよ!」と教えてあげたかった。学びの本当の意味を知らず苦しむ子どもたちと、84歳にしてその真の意味を知ったおじいさんと、どちらが幸せかは一目瞭然だった。あの昼間部の生徒がいつも夜遅くまで残って夜間部の生徒とふれあいたいのは、きっと自分が未だ発見できないそんな喜びを一緒に分かち合いたかったからかもしれない。

 「この学校、変わってますよね。勤務も大変です。でも、私はずっとこの学校で教職生活を送りたい。もう普通校には戻りたくない。だって、本当の学びがここにはありますから・・・」と、生徒の皆さんのたどたどしいひらがなばかりの文集に目を落とし、少し涙ぐんだ先生の表情。教育の現場で忘れ去られてしまった大切なことが、街中のひっそりとした中学校に息づいていたことに、私は希望の光を見出すことができたのだった。

イ)「自己研鑽より“集団研鑽”。自分たちで努力しなければ」

 昨今、教育問題の中でも「教師」に関わる問題は大きく取り沙汰されている。指導力不足や度重なる不祥事などはその最たるものの一部だと言えるが、現場にいると教師に対する不信感は年を追うごとに大きくなっていったような気もしている。実際、本当に教育者としての使命を痛感して死に物狂いで仕事に打ち込んでいる人もいれば、他の職種とはちょっと変わった勤務体系や仕事内容を隠れ蓑にして本分を忘れてしまっている人もいる。話を聞けば、高校生に1時間ずっと漢字の練習をさせて、自分は内職をしている先生もいるという。また、世間でも話題に挙げられるとある労働組合に参加している先生方は、本分である教育活動を放棄して子どもたちの教育機会を奪っておきながら、自らの地位の確立や利権争いに奔走している。批判を浴びてもしかたない現状があるのだが、そんな教職の“悪習”から脱却しようと努力をしている先生方が、関西地方で自主的な勉強会を開催していることを知り、私は何度も足を運んだ。

 勉強会の会場に入ると、土曜日だというのに100名以上の現職教師たちが集まっていた。勉強会の題材は「道徳教育」、私は「えっ?」と驚いた。関西地方と言えば、「道徳反対!同和問題を強化すべし!」と道徳教育を軽視する傾向が強い地方だったからだ。未だに道徳教育に関しては乗り越えねばならない反対の声があることも忘れてはいけない。しかし、その難題ばかりの道徳教育について自主勉強会を月に1回、定期的に行っているというのだからビックリするのも無理はない(教師時代、県の研修会で「道徳教育の強化を」と発言したら、「そんなもの必要ありません」と一蹴された私だからであろうか)。しかも、そこには関西地方の教師だけではなく、北は北海道、南は福岡からも休日返上で勉強をしに来ている人もいて、さらに驚かされたのだった。

 講師は、関西学院大学教授の横山利弘先生、日本道徳学会の会長を務めあげた道徳教育の第一人者だ。道徳教育の根本的な考え方から丁寧に教えてくださり、その言葉に教師たちはのめり込んでいた。3時間にわたる勉強会は横山先生の講義だけでなく、教師たちがグループに分かれてワークショップなどを行う。ただ座って講義を聞きながら居眠りをして帰る・・・という生産性の低い従来の教員研修とは正反対の、教師たちが本当に学びたくて来ている様子が手にとるようにわかった。

 同じグループにいた先生に話しかけてみると、その方は道徳教育反対運動が非常に強いある県からいらしていた方だった。どうして道徳を?と聞くと、「今までは子どもたちや学校の荒廃を誰かのせいにしてきたんですが、やはり私たちが道徳教育について手を抜いてきた罰が当たったんだと思います。道徳をきちんとやるようになってから、子どもたちの様子がみるみる変わってきています。そんな姿を見たくて、遠くてもこの勉強会に来ちゃうんですよね」と言う。そして、「自分自身の力だけでは変えるにも限度がある。ここに来ていろいろな先生方と意見交換や情報交換をすると、新たな道がまた一つ拓けた気がするんです」とも話してくれた。

ウ)「まるで“コンビニの店長”ですよ」―教育行政の複雑さが生む寂しさ―

 2009年4月より、私はとある自治体より「教育政策主任研究員」という職を拝命し、教育委員会で“仕事”をしながら、教育改革の方向性を示す「教育振興基本計画」の策定に関わった。初めて行政の仕事に本格的に取り組んだが、現場からは少し離れた場所から教育を見つめ直すことができたのは非常に重要な経験となった。教育振興基本計画を策定するにあたっては、やはりその自治体の特色を知らなければならない。そこで、指導主事にお願いして、市内の小・中学校55校をすべて回って実態調査を行った。

 教育現場で話を聞くと、問題の傾向はだいたい3つに分けられる。まずは当然のことながら「子どもたちの困った現状」、次に「家庭や地域の教育力の低下」、そして「教師の問題」である。一般的に語られる問題や課題はどの学校にも共通しているように見えるが、細かく見ればやはり実態の違いがある。教育は「人」に大きく左右されるものであるから、一律に何かいい施策を打てば効果が出て改善されるという簡単なものではない。実際に施策を考える側になって思うのは、部分最適を満たしていたらとんでもないことになってしまうが、どうにかして「全体最適」、つまりそれぞれの学校が抱える独自の課題にもっと積極的に取り組めるような仕組みづくりができないものかということだった。

 学校訪問を続けていたある日、小学校の校長先生がこんなことを口にした。「僕たちはね、コンビニの店長のようなものですよ。日本の教育には全国の教育者をまとめ上げる理念が必要。でも、主軸となる理念がないから現場は振り回されてばかりで、教育課題は増す一方です。しかし、学校が100校あれば、100の違う課題が起きる。この学校の子どもたちにこんなことをしてあげたらもっと良くなるに、そうできるだけの財源も権限も少ないのが現状。自分のお店をもっているのに、やりたいことがスムーズにできないコンビニと同じなんです」―。私が常々思っていたことが、まさに現実として目に見えた。現在の日本は教育予算が他分野に比べて低く、どこもギリギリまで切り詰めて教育行政を行っているはずだ。それは学校現場も例外ではなく、どの学校にも豊かな財源がない。学校運営の責任者である校長が自由に采配できる金額は、年間100万円程度だとも言われている。学校ごとに個別課題に取り組みたくても、それがかなわないのが教育現場の抱える切なさなのである。しかし、一方で確かな学校経営力をつけるような養成・研修カリキュラムを有していない日本では、“コンビニの店長”でもいいと思っている人がいるのも、また現実である。学校が各々の課題に取り組む力強さが求められている今、“コンビニの店長”から抜け出す行政からの仕掛けづくりと、教師の学校経営力の修得が不可欠となるだろう。

 今の日本は、子どもたちに何か問題が起きると「学校が悪い」「先生が悪い」と責めてしまいがちだが、学校には学校の厳しい現実がある。先の校長先生が“コンビニの店長”だと言ったのは、子どもたちにできる限りのことをしてあげたいという教師として当然の気持ちの顕れである。その証拠に、その先生は不平不満を言うだけではない。自分がもっているものをすべて生かして、学校独自の取り組みも積極的に行っている。厳しい現実を乗り越えるため、一生懸命に奮闘する教師のあるべき姿を見た気がした。行政と現場がもっと手を携えて、教師が経営力を養い、大きな目標を達成するために小さなことからコツコツ解決していこうとする姿に、私は「まだまだこれからだ!」と希望をもったのであった。

第3章 ホンモノの教師を育成する ―教育問題を乗り越えるカギ―

 第2章では、私が全国を回って教育の実態を調査した時に出会った、たくさんのエピソードのほんの一部を紹介した。ここで自信をもっていえるのは、「大人が変われば子どもも変わる」ということだ。大きな課題を抱えながらも努力して乗り越えてきたところには、必ず教師の変化がある。そして、子どもたちの姿がどんどん変わっていくのを、私は目の当たりにしたのだ。「教育問題を子どもたちや保護者のせいにしてばかりはいられない、まずは自分たちが変わっていかねば」という強い思いが、解決困難だと考えられてきた課題を次々と解決していく。そんな現実を見て、私はたまらなく感動したのだった。

 先述の通り、現在、日本には本当に多くの教育に関わる問題が山積している。あまりに数が多いため、その対策を行っていくには実に多角的な解決手法を考えねばならない。無論、対策を一気に進めることは難しく、やはり効果的な手法から一つひとつ着実に行っていって、一歩一歩全体の解決へとつなげていくしかないであろう。

 そこで、私がその「一歩」として着目したのが教員制度の見直しである。見直していくべき教員制度は2つに区分することができると思うのだが、まず一つは高等教育機関における養成制度、もう一つは教師になってからの研修制度である。

 まず、養成制度についてだが、現在の流れで最も注目しないといけないのは教育学部廃止の動きである。これまでは教育学部、特に国公立大学の教育学部が昔の師範学校の流れを汲んで、教育のプロを育成する機関として大きな役割を果たしてきた。それに乗じて私立大学でも教育学部が設置され、国公立大学に対抗しながら独自のカリキュラムで運営をしてきた。しかし、国公立大学の独立行政法人化が進み、近年志望者の少ない教育学部が廃止される動きが強まってきてしまっている。有能で人間性のある教師を育んできた師範学校を基礎とする国公立の教育学部がなくなっていく―。これは、日本の教育が破綻する未来を予測させるような一大事である。

 現在、教師として仕事をしている人たちの中で、実は教育学部出身者の数は減少傾向にある。教師の多くは一般学部(人文科学系学部や社会科学系学部、理工系学部など)で勉強しており、「教育」を学問として体系的に学んだのはおそらく教職課程での数時間の講義と、公立学校の教職員であれば教員採用試験の時の教育教養くらいであろう。哲学的観点から言えば、教育とは人間の深部を探っていく学問であるし、それは実際に子どもたちの前に立って教鞭をとる上でも決してなくしてはいけない観点である。しかし、人間を知るという作業を学問的にすら行っていない人が教職に就くという矛盾が、現実として存在しているのである。また、教科教授法なども積極的に行われておらず、教職課程を履修すれば成績の優劣に関係なく修了証が発行されてしまうのでは、「教職とるのなんて簡単だ」という安易な風潮を打破することはできない。このような不十分なカリキュラムを第一に改善せねばならないだろう。

 続いて、研修制度についてだが、これはどの都道府県・市町村でも教育委員会を中心として行われているが、実態は形骸化の一途をたどっているとしか言いようがない。本当ならばどこの教師もアクセスしやすいような立地条件にあるはずの教育センターが中心地から車で1時間以上行かないとなかったり、長期休暇中に行われる研修も資料を持ち寄って各学校の状況を話すだけに留まったり、さらには講演会ばかりで実質的ではないなど、その内容についての議論は尽きることをしらない。確かに、意図昔前と比較すると、教師の研修時間は長くなった。しかし、それは時間がむやみやたらに長くなっただけで、内容が伴っていないのがほとんどである。そんな状況下で、教師の質は着任当初から右肩上がりに向上するわけはなく、日々変わっていく教科内容に戸惑い、後退することも十分にある。

 教師は、教職課程を履修したから、免許が取れたから、採用試験を通過して学校に配属されたからといって、立派な教師になれるわけではない。私は、教師はいろいろな経験を通して「教師になる」ものだと思っている。机上の勉強や教育実習においては経験できなかったこと、予想もしなかったことが現場では起こっている。想像と現実がこうも違う現場において、ただ免許をもっているからといって安座しているような教師では、現代の教育界にある問題を解決することなど、到底できない。子どもたちの学びを促進させるためには、まず教師が有意義かつ効率的に学び、子どもたちを学びの楽しさへと導くことが大切なのである。

 現代の教育政策は、子どもにばかり視点が置かれているが、実は子どもの成長を最も促す方法は彼らを取り巻く大人を変えることである。子どもたちは、私たちが想像もつかないくらい教師のことを見ている。信頼したいから、生きるヒントをもらいたいから、一緒に歩んでほしいからこそ、教師の言動を本当に細やかに観察している。翻って考えれば、子どもたちにとって教師とはそれほど大切な存在なのである。教育者にとって、それほどまでに求められていることを喜びとしなくてはいけない。この「喜び」を忘れず、いつまでも続いていく向上心をもてるように、すぐにでも教員制度の改革に着手していくことが大切である。教育が「主軸となる理念」と「人の力」によって展開されている真理に今一度目を向け、“真の教育改革”を行っていきたいものである。

終章 「教育」で日本を建て直すことができるのか

1.韓国で受けた大きな衝撃
ア)「教師は誰からも尊敬される存在です」

 さて、これまでは日本国内のことについて述べてきたが、私はこの3年間の中で海外研修を体験することもできた。訪問先は韓国、教育を自らの一生のテーマとして取り組んでいる私にとって、一度訪れて現地現場研修を行いたいと思っていた場所だった。受験戦争が激化の一途をたどっていることで有名な韓国だが、実は教師になるためにも大変な難関が待ち受けている、ということを耳にしていたからだ。

 私が注目していたのが、韓国の教員養成のシステムだった。韓国では、小学校教諭は教育大学(全国11校)、中学・高等学校教諭は師範大学(全国40校)にて免許を取得し、さらに教師としての力を高めたい場合は教育大学院(全国21校)に進むとのことだった。私が訪問したソウル大学も、師範学校を設立し教師の育成を引っ張っていっているのだが、他大学と大きく違う点は中・高の教師を育成するというよりは、国家の指導者を育成する意味合いのほうが強いようだ。先述の通り、国家の要人の中でこの師範学校出身者が多いことからも、ソウル師範学校に関しては教員養成機関とは言いがたいものがある。

 教員養成課程では、教育学(哲学、心理、統計学)だけではなく、教育行政学をも学ぶという点においては、教育行政学が軽視される傾向にあり、まだ浸透していない日本との大きな差が見受けられた。もう一点、日本においては道徳は科目ではなく、つまり教師に免許が与えられないので、専門性が担保されていないという大きな問題がある。しかし、韓国では「子どもの道徳心の向上は、時間数に関係なく教師がどういう人間であるかどうかにかかっている」との共通認識から、教師の道徳観形成にも力を入れているそうだ。

 日本では今や教師の地位が低下するばかりで、子どもたちに将来なりたい職業を聞いても、「学校の先生」と答える子が極端に減っている。厳しい面ばかりがクローズアップされるし、社会的に低く見られがちな傾向にもある。子どもが自分の未来を切り拓く手助けをしてあげられるのはやはり教師だと思うのだが、現在のような状況が続けば、その崇高にして厳粛な仕事の意義よりも、目に見える不利益さや不合理さばかりが先に立って、教師という職に夢をもてない子どもが増えていくのもしかたないことであろう。翻って韓国の現状を垣間見るに、韓国ではいまだに教師は大人気の職業であり、採用試験の倍率も異常に思えるほど高い。また、教員免許をとったら誰でも教師になれるわけではなく、「教師任命試験」という国家試験に合格しなければならない。もちろん、それだけ努力をし、高い競争率を潜り抜けてくる鋭い知性と強い精神力を持ち合わせている人間が教師になるのだから、教師に対しての尊敬の念が保たれるのは当然のことといえよう。このように、社会的ステータスが確保されているので、教師たちがモチベーションを高めあいながら教育活動に臨めるという環境も自然とつくられているのだと思う。

 「教師」と呼ばれる人は世界中に数多いるが、国が変われば「教師」に対する考え方や扱い方、生み出し方が違ってくるというのが実感だ。教育に行き詰った時は、一度立ち止まって「比較してみる」ということが大切だと、この話を通して感じた。

イ)「国家目標を達成するために教育がある」

 「『教育』で日本を建て直す」という人生の大テーマをもつ私が一番強く興味をもっていたのが、韓国における道徳教育の内容である。現在、韓国における道徳教育は日本とは明らかなる違いとして道徳が教科として扱われており、小学校・中学校・高等学校1年生までは「道徳」、高等学校2~3年生は「倫理」と位置づけて行われている。中学校1~2年生が週2時間の年間68時間、その他の学年は週1時間の年間34時間と時間設定されており、高等学校2年生からは他の教科も含め、学期ごとの選択制となっている。道徳の指導要点としては「人格教育・民主市民教育・民族統一教育・国家安全保障」の4つが挙げられ、倫理では「市民倫理・倫理と思想・伝統倫理」の3つに絞られている。中学校1~2年生という最も多感な時期に道徳の授業時間数が増える点はおもしろいし、倫理の中に、思想や価値観といった日本ではどちらかというと避けられてきた分野がきちんと組み込まれているのも興味深い。また、学年を経るにあたって、「個人→周囲の人間→社会→国家」と教える範疇が変わってくるのも、道徳教育の本来あるべき姿を正確に捉えているとの印象を受けた。

 しかし、今回の研修で感じたのは、韓国における道徳教育の大切なポイントは「市民倫理」をきちんと創り上げることだ。それは何故か。大きな原因として考えられるのは、市民の意識を「国家を形成しているのは自分たち国民である」というレベルにまで高めていくことが、もともとの国が南北に分断している現状を打破し改善していく原動力になると考えて発達したのだという。国家を一つの強固な共同体として見るなら、思想・信念・意志が確固として形成されていることが必要で、それが国の愛国心や団結力につながる。私の予想に反して儒教が道徳教育に及ぼす影響はそれほど大きくなかったのだが、それは儒教が軽視されているというよりもむしろ、儒教を礎にしてきた家庭中心主義社会から共同体中心主義に移行していかなければ「民族統一」という朝鮮民族の悲願を達成することはできない、との考えが韓国に根付いた証拠だろう。道徳教育の成果を決して個人的レベルで収めようとせず、次世代に「国家たるは何か」「韓国国民たりえる精神性とは何か」を明確に教えようとしている姿勢こそ、日本が見習う部分ではないかと強く感じた。

2.今こそ日本の国家の方向性を示す時! ―日本の教育問題の「核心」―

 私の心の師・福澤諭吉は『学問のすすめ』の中でこう語っている。

「日本国民もただちに学問に志し、気力を養い、まず個人としての独立を意図すべきである。そこから国の富強が生まれるのであり、そうでなければ西洋人の力も恐れることはない。つまり、個人が独立してこそ一国の独立も可能だ、というのはこのことをいう」

 「国家は、いい政治で良くなるのでもなく、安定した経済力で良くなるのでもない。そして、他の誰かに良くしてもらうものでもない。国家は国民が創っていくしかない。国家の命は、私たち国民の手に委ねられているのである。繁栄していくのも、滅亡していくのも、すべては私たち次第なのである」―。私は福澤の言葉をこう捉えている。

 私はずっと前から、日本の最も大切な財産は「人」だと思っていた。見識を以て共に協力し、少しでも今よりよくなるために必死に考え行動し、次世代に少しでもいいバトンリレーをしてあげることが、私たち人間の最大の役目である。これは日本人だから・・・というわけではなく、それは人として生を受けた者すべての使命であり、国家はこの使命が強く結合したところに初めて成り立つものなのである。国家形成者としての気概をもち、見識をもつための確かな眼力を備える努力を怠らない。国家とは、そんな人間たちが創っていく、非常に崇高な共同体なのである。教育という一つの分野で、この国家形成者としての気概を育んでいくことこそ、私が目指している「教育」の姿そのものである。

 そして、もうひとつ、日本を建て直すために必要なのは、明確な国家理念を創り出すことである。教育は、国家の方向性が変わればその影響を直接受ける。逆を返せば、国家の方向性を真摯に汲みながら、教育は整然と行われていくべきなのである。しかし、今の日本には明確な理念がまだない。国家の方向性が決まってこそ、教育のあり方、経済・社会福祉・産業・外交のあり方を論ずることができるのである。

 私は「『教育』で日本を建て直す」と口にしてきた。今後の私の使命は、国家形成者としての気概をもった人間育成の実現を目指すこと。そして、これからの日本の未来を見据えた、国家国民の背骨になるような国家理念を構築すること。この使命にあらん限りの力で挑んでいくことを誓い、政経塾での3年間を終えたいと思っている。

2010年1月 執筆
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