論考

Thesis

わが国づくり、わが街づくり、市川市に三つの基本原則を

目次

 

はじめに

Ⅰ.仲間外れをつくらないこと

 ・社会的包摂と社会的排除

Ⅱ.いのちを大切にすること

 ・いのちとお金

Ⅲ.自由を尊重すること

おわりに

はじめに

 一人の住民として、社会の中で有志のボランティア活動に取り組む者として、あるいは地方自治の現場に携わろうとする者として、どのような国にしたいのか、どのような地域であることが理想なのか。これについて、以下、三つの原則を示したい。

「①仲間外れをつくらないこと ②いのちを大切にすること ③自由を尊重すること」

 松下幸之助は、「国家に理念を、政治に理念を、(松下政経塾の)塾生は国是を創り、それを世の人様に訴えなさい」と繰り返し述べてきた。政経塾の塾生となり、わが街である市川の現状を見るにつけ、改めて、こうした原理原則を明確に示すことは、今日の地域経営において何よりも優先して大切にしなければならないと感じるのである。こうも、それを強く感じるのは一体、なぜなのか。

 地域には数えきれないほど多くの問題や課題が山積している。膨大な量の問題に対して、たくさんの人達が問題を解決しようと事にあたる。議論や作業がより具体的な局面に入っていけばいくほど、枝葉末節の判断が難しくなってゆくことがある。時には対立が生じることさえある。社会を良くしようという点で一致するはずの集団同士が、気がついたときには理性を失って対立を繰り返すばかりで、問題を解決するどころか、「対立」というもうひとつの深刻な問題ができあがってしまっていた、ということが起きてくる。こうした、歯車の噛み合わない街づくり、地域づくりが現実として起きている。これは、何よりも尊重すべきものが双方共に見えなくなってしまっているからではないか。つまり、私たちは何のために活動しているのか、どのような街をつくりたいのか、そのためには何をすべきか。これらが抜け落ちたまま、人々の価値観やライフスタイルが多様化し、問題も複雑になるばかりで歯止めのきくことが無くなっている。

 以下の項では、理念といった原理原則がなく、歯車が噛み合わない地域ではどういう問題が起きてくるのかということを例示しながら、街づくりにはこれが必須なのだ、と私が信じている三つの原則について述べていきたい。本稿は、あくまで具体的な政策論ではなく、すべての問題や課題への解決策や取組の根源となる私の国家観、地域観、信条ともいうべき原則である。繰り返しになるが、人々の価値観と生活が多様化し、問題や課題がより複雑化している今日こそ、地域づくりには理念ともいうべき大枠の考え方、価値観を掲げて事にあたることが、その一歩目として何よりも重要なことであると思うのである。

Ⅰ.仲間外れをつくらないこと

・社会的包摂と社会的排除

 社会の中で、社会の側が、人間を仲間外れにしてしまうことを、「社会的排除」という。もう少し具体的に定義をすれば「労働市場から追い出され、社会の仕組みから脱落し、人間関係から遠ざかり、自尊心が失われ、徐々に社会から切り離されていくこと」とされている。

 社会的排除は、もともとフランスで提唱された概念であり、EUをはじめ多くの先進諸国で注目されている考え方である。社会的排除が着目する問題点は、排除されていく過程やメカニズムだ。物質的・金銭的な欠如にとどまらず、居住、教育、保健、社会サービス、そして就労など多次元の領域における個人の排除を問題とするのである。社会的排除のメカニズムは、個人の社会参加や社会交流の機会を奪い、社会の側から個人を排除し、やがて生きることからも人間を排除してしまうとされる。

 こうした社会的排除のメカニズムに対する処方箋となる概念に「社会的包摂」がある。複数の領域にわたる社会的排除に対応し、人々の社会参加を促そうする理念が社会的包摂だ。

 当初は、労働市場からの労働者の排除を問題としていた社会的排除は、今日、より多くの社会の周縁に追いやられた人々をも対象にしている。今、LGBTの問題が国内外で大きく取り上げられている。性別を基準に設計されてきた日本の結婚制度、家族制度であるが、社会的包摂の考え方に照らし合わせると、こういった制度からこぼれ落ちてしまう人が社会に一人でもいるのであれば、社会はそれに対して包摂する手段を備えなければならない。また、震災によって生活困難に陥った人々、シングルマザー、障害者など、制度と制度の谷間、同じ社会に生きる人々からの無関心、偏見や差別によって社会の周縁へと追いやられている人がいるのならば、社会の側からこれを包摂していくべきという考え方なのである。

 例えば、わが街市川市において、精神に病気や障害を抱える方々が直面する現状は、私にとって到底、看過できるものではない。近年、全国的な傾向と比例して、私の住む地域においても、直接的、間接的にこれに苦しむ人々が増えている。精神の障害は、知的や身体の障害と比較して、その実態、当事者やご家族のニーズが異なるにも関わらず、制度の面で身体・知的障害の後追い的な制度設計になっている。また、同じ地域で暮らす方々の理解と協力をどのようにして進めるのかという点においても深刻な課題が残る。志ある支援者や専門家の方々の奮闘にも関わらず、当事者やご家族が孤立している現実があるのだ。

 人間に与えられた生の時間には限りがある。また、人間の人生は一度きりである。これを、良く知らないだとか、仕方ないという態度で看過するような街であってはならない。病気や障害といった困難は、誰にとっても等しく明日は我が身なのである。彼らの明日をより良くしようと考え、街づくり・人づくりに活かすことは、即ち、私たちが生きる街の姿を、今日よりも明日は良くなると信じて生きてゆくことのできる街に変えていくことなのである。

 こうした問題は精神障害の分野にとどまらない。あらゆる分野の問題の本質が、社会的排除という点にあるという場合が多い。社会の側に人間を包摂していない原因はないのか、あるいは意図せずとも人間を社会の側から排除してはいないか、という視点から社会の姿を眺め続けることは、これからの時代に生きる人々にとって、益々、重要な視座となっていくはずである。

 私が理想とする国や地域の姿は、そこで暮らす一人ひとりがこうした視座を持ちながら運営されていく社会である。「仲間外れをつくらない」という原則がある限り、たとえ地域の少数者が抱える問題、約50万人が暮らす市川地域からすれば小さな問題と思われてしまうようなことであっても、地域が彼らに対して見て見ぬふりをしたり、知らなかった、といって切り捨てるような態度を是とすることはできないはずである。そのような風土をコツコツと草の根から醸成していきたい。

Ⅱ.いのちを大切にすること

・いのちとお金

 私が理想とする国、社会、あるいは地域(地方自治)が最優先に考えるべきは命である。命のことについては常に心がけて注意を払い、尊重する必要がある。私は、政治の目的とは人間の命に寄り添うこと、であると思う。社会保障支出の増大が財政を圧迫する今日の状況からすると、より一層、この点についての心配りが必要である。

 財政を担当する地方自治の首長や、国の政権を担当する人たち、国や地域の財政の担当部署においては財政の勘定をいかに上手くやりくりするかが求められる時代だ。たしかに、いい加減な財政や無駄遣いは改めるべきである。しかし、財政とは何か、もっといえば政治とは何か、という視点を忘れてはいけない。とても単純なことであるとも思えるのだが、こうした単純なことと、現実が一致していないという実態がある。政経塾に入塾して、政治も財政も学び、行政の在り方を眺めていると、政治とは財政である、という考え方の方が当たり前になってしまっているのではないかと感じることが多い。先述した、精神障害の分野ひとつを取ってもそうである。たしかに財政はひっ迫している。だから、お財布のやりくりがいい加減ではいけない。そこで自治体は、「知恵を使おう。仕組みの変更によって効率と生産性を追求していこう」という方針になる。けれども、人間の命を軽視したり、無視したりしてまで財政のこと、お金の勘定を優先するということはあり得ないことなのではないか。財政を理由に仕組みを変更したことによって、生活が変わり、頼るべきものを失い、希望を失う人がいるのならば、為政者はそこで踏みとどまったり、歯止めにならなければいけないのではないか。生産性を最優先にすることが必ずしも正解ではない、という現実は、実社会においては少なからず存在している。何のためのお金なのか、何のための生産性なのか、ということについては、人間というものを大事に考えた上で、極めて慎重にならなければいけないことだと思うのである。「命を大事にする」という、誰にとっても大切で基本的な価値観が、いざ現実の業務や仕事、国や地域課題に関する財政的議論の場になると、そこにいる人々や集団から抜け落ちていくという実情があるのだ。(その逆もまた然りという点も忘れてはいけないことは承知の上である。)

 政治の世界で、これをわかりやすく例えるならば、選挙によって選ばれる政治家からすれば、マイナスをプラスにした、という財政収支の数字的な結果を残し、有権者に示すことは、とてもわかりやすいアピールになるかもしれない。それによって獲得する票の数は増えることもあるだろう。また、政治家個人にとって切実な問題でもあろう。しかし、政治家個人の事情はそうだとしても、財政はあくまでも政治の手段であって目的ではない、という強い信念を持つことが、この時代だからこそ地域の経営者には求められるのではないか。借金もなくなって、黒字になったけれど、そこで暮らす街の人々から笑顔や安心が消えてしまったということだけは避けなければいけない。それどころか、人間の命が消えてしまったということは決してあってはならないのである。

Ⅲ.自由を尊重すること

 社会的排除に関して、社会の周縁へと追いやられている人が存在していることは既に述べた通りである。人間同士が支え合う社会は、私の理想とする国や地域の姿である。ただし、ここで同時に忘れてはいけない重要な価値がある。それは「自由」という価値である。

 自由とは何か。個人が選択の機会を持つこと。または、社会の側から個人に自由な選択の機会を提供している姿である。いかに国民の救済や互助を目的とした社会保障・社会福祉の分野といえども、法律や制度によって個人が享受すべき自由な選択、意志、行為やその他の権利をがんじがらめに縛りつけることは避けるべきである。また個人と個人の権利がぶつかった結果についても、無理のない範囲で、できるだけ法律や制度に依存せずに、個人の良識や個人と個人の間で私的に解決する社会が望ましい。お金や健康問題が絡んだ場合に、これが現実に難しいことは百も承知ではあるが、あえてそうした原則を、今一度、一人ひとりがよくよく考えていくことが求められる時代に入っているのではないかと感じるのである。

 健康に良いから、流行しているから、科学的には正しいことだからという理由で国家が個人に良かれと思って施したことであっても、それが良いものなのか、悪いものなのかを判断する機会は、常に個人の自由な意志に委ねられるべきである。

 かつてのナチスドイツ、アメリカ、そして日本では優生思想が流行したことによって、人間の自由、命、尊厳を侵害する考え方が法制化され、国家が個人の領域に過剰に干渉し、重大な個人への権利を侵害するという事態が生じたという教訓がある。そこでは、人間の命の選別や人間の価値の選別が行われたのである。恐ろしいのは、優生思想を支持した人達には悪意のない人がほとんどで、人間の命や尊厳に対する冒涜をはたらいているという意識がほとんど見られなかったという事実である。むしろそこには、国家に尽くし、個人の義務を果たす、至って真面目な人達の姿があった。過剰な科学・法律信仰や制度依存は、人間を幸せにするとは限らない。むしろ人間を傷つける危険性すら大いにあり得るということを私たちは忘れてはいけないと思うのである。そのためには、いかなる時代に、いかなる事情があろうとも、私たちには、批判する、批判される、議論する、考える、選択する、「自由」という価値を常に維持し続ける必要がある。経済をはじめとする分野と少し異なり、特に社会保障や社会福祉の分野においては、自由をいかに守りぬくのかということについて、きわめて慎重なバランス感覚が求められることになる。その象徴的な例として、優生思想といった過去の教訓を省みたときに、その難しさ、危うさを垣間見ることができる。

 政治とは、人間の命に寄り添うことである、ということを私が信じていることは繰り返し述べてきた。ただし、だからといって、社会保障や社会福祉という名目のもとに、国家による個人に対する過剰な介入が起こってはいけないと思うのである。何が過剰で、何が適切なのか。その基準として、個人の「自由」を守るという大原則が大切なのである。これを念頭に入れながら、この社会保障や社会福祉の在り方が問われている時代において、国や地域を慎重に運営していく必要があると思うのである。

おわりに

 社会に生きる一人ひとりの人生は不確実である。誰でも病にかかるし、老いや死は必ずやってくる。生活に困窮する可能性もある。高校を卒業して、20代を漫才師として過ごした私は、今日よりも明日はきっと良くなると信じることができたからこそ、貧乏や多少の不安はあれども、毎日を豊かに送ることができた。そんな私も、漫才を廃業する事態に直面してはじめて、世の中には病やその他の不条理や理不尽が無数に存在していることを認識することとなった。

 その時に手を差し伸べて再スタートの機会をくれたのは、家族であり地域の友人、仲間たちであった。大学に進学することが叶い、何とか再スタートを切った後で、手を差し伸べてくれた友人たちが人知れずに自身も困難を抱えていたことを知ることになった。終身雇用制度の崩壊、非正規雇用の増加、晩婚化や待機児童。時代の波は容赦なく私たちの世代(いわゆる就職氷河期世代)を呑み込んでいく。私は、生まれ育った市川の風景も大好きではあるが、やはり、何よりも故郷から温もりを感じるのは、そこで暮らす家族や親せき、そして苦しいときに助けてくれた古くからの友人だ。愛国心という言葉があるが、私の場合、地元で共に暮らす人たちがいてこそ、国を愛する、故郷を愛するという感情が湧いてくる。国を創っているもの、地域を創っているもの、私という人間を育んでくれたものは、周囲の人たちの汗と涙と人情だ。

 29歳で大学に入学し、広くボランティア活動に取り組むようになったとき、人間は生まれた時から平等ではないということも思い知らされることとなった。性別や容姿、血縁、地縁といった環境も違うし、能力も違う。不条理、理不尽の中で、私が経験した挫折よりも大きな困難に直面している人たちがいることを恥ずかしながら30歳を手前にして知ることとなった。

 政経塾に入塾した今では、その違いが人それぞれの個性となり、社会に生きる人々の考え方や価値観ひとつで、その個性が社会の発展や人々の幸せに貢献していくことにもなるのだということに気がつかされた。病や障害とされているものにしても私はその人の個性だと信じている。こうした個性を生かすも見過ごすも同じ社会に生きる同じ人間である私たち次第なのである。

 社会的排除を無くしていきたいと考えるときに、私が特に強く信じていることがある。それは、困っている人に手を差しのべることは、全能の神様や巨大な権力を手にした王様が、困窮する人間に対する慈悲によって手を差し伸べることとは違うということである。社会の中で不確実性と共に生きる人間にとって、困難に直面することは、誰一人として他人事で片づけることはできない。老いも死も、あるいは天災による被災も、すべてのことは「明日は我が身」なのである。生まれながらにして地縁や血縁に恵まれない可能性にしても、自分自身はそうした縁に恵まれた環境であったとしても、自分が大切にしたいと願う子どもたちや身近な人たちが、自分と同じように恵まれた環境の中で生きていけるという保証はないのである。

 こうした世の中の真理を前提にしたとき、困っている人に手を差しのべることは他ならぬ、自分自身のためなのだ、ということを私たちは認識する必要があるのではないだろうか。人が他者に手を差し伸べることについて、「それは偽善である」と指摘する人もいる。私は、そう言う人に言いたい。こうしたことは善でも偽善でもなく、自分自身のためなのだ、と。社会保障の制度にしても、社会福祉といった分野にしても、これについて真剣に考えることは、明日の自分の生活や幸せについて考えることと同義である。自分がされて嫌なことは何か、自分がされて嬉しいことは何か。安心することは何か。自分であれば、どう感じるのか。また、それを同じ社会で生きる人々と話し合い、相互理解を図り、知恵を絞っていく。そうした営みの繰り返しがあって、はじめて、社会はすべての人にとって居心地の良い姿に向かって生成発展していくはずである。

 ここに示した、仲間外れをつくらないこと、命を大切にすること、そして自由を尊重することは、少なくとも、私自身が生活をする市川の未来にとって欠かせないものであると心から信じるものである。また、それは地域や国境を越えた普遍的で、人間にとって大切な価値観だと信じている。私は、これから先も不確実性の中で、大切な人達とわが街、市川で生活をしていくつもりだ。果たして、その営みの先に、すべての市川市民が今日より明日は良くなると信じることのできる未来は待っているのだろうか。それは、いつ、いかなる時であっても本稿で示した三原則を、まず私自身が信じて守り抜くことができるかどうかに懸っている。そういう強い覚悟を持って、この先の道を歩んでいきたい。

 
参考文献

阿部彩著『弱者の居場所がない社会』(2011年 講談社現代新書)

西山千明 監修 『ハイエク全集 自由の条件Ⅰ』(1986年 春秋社)

西山千明 監修 『ハイエク全集 自由の条件Ⅲ』(1987年 春秋社)

宮本太郎著『生活保障~排除しない社会へ~』(2009年 岩波書店)

厚生労働省 「新規学卒者の離職状況に関する資料」

厚生労働省 「精神障害労災補償認定の状況」

筒井美紀 櫻井純理 本田由紀 編 『就労支援を問い直す』(2014年 勁草書房)

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土屋正順の論考

Thesis

Seijun Tsuchiya

土屋正順

第36期

土屋 正順

つちや・せいじゅん

千葉県市川市議/無所属

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