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人間観
2004年8月

人間観に基づく人間道
谷中修吾/卒塾生

松下幸之助塾主の提唱する「宇宙観に基づく人間観」。それを実生活において実践していくためには、一体どのような道を歩めばよいのか。 塾主の考えを紐解きつつ、そのあり方について考察する人間観レポート第二段「人間観に基づく人間道」。

 

1. はじめに

 松下幸之助塾主の人間観を考察しながら「人間とは何か」について各自がテーマを設定し、それに基づいて自分の考えを述べるというこの「人間観レポート」において、第一弾たる前作では、塾主の「宇宙観に基づく人間観」について考察した。すなわち、そもそも宇宙とは何か、存在とは何かといった命題から掘り下げることによって、人間観論を展開する上での根源的部分について考察したわけである。その要旨は、「生成発展する宇宙において、人間が万物の特質を生かして物心一如の真の繁栄幸福を生み出すという天命を全うすべく、人間自身がその天命を認識し、素直な心で衆知を集めるべし」と集約されるものであった。今回は、その宇宙観に基づく人間観を実生活において実践していくためには、一体どのような道を歩めばよいのかについて、さらなる考察を深めることにする。そこで、「人間観に基づく人間道」と題して、塾主の考えを紐解きつつ、そのあり方を考察する。

2. 松下幸之助塾主の人間道の考察

 松下幸之助塾主は、その『新しい人間観の提唱』を通して、「人間には万物の王者として、たえず生成発展する宇宙に君臨し、万物を支配活用する偉大な権能なり役割というものが、その天命として与えられている」と明示し、且つ、「この新しい人間観に立脚して、衆知を集めつつその偉大な本質を逐次発揮し、物心ともに豊かな共同生活を営んでいくところに人間の長久なる使命がある」と説いた。一方で、着目すべきは、『つぎに考えなければならないのは、そのような偉大な本質を発揮する人間のあゆみとはどういうものかということ』であると指摘していることである。つまり、人間の本質の自覚に立って、人間が一体どのように歩んでいけばよいのか、人間の共同生活において具体的にどのような考えで諸活動を行っていけばよいのか、どうすれば人間の本質が発揮されるのか、そのような新しい人間観に基づく人間の歩む道というものを考えなければならないと言及しているのである。

 そこで、塾主が説いたものこそ、『新しい人間道の提唱』である。人間が新しい人間観のもとに、王者としての自覚をもって自らの諸活動の基本を求めていくとき、そこにおのずと万物を正しく支配活用しつつ、人間の共同生活を向上させていく人間としての道、すなわち『人間道』というものが考え出されると説く。加えて、『新しい人間観に基づく人間道とは、人間の価値を真に生かし、同時に万物の価値を真に生かす道でもある』と指摘する。つまり、人間道とは、新しい人間観を実践するための指針ともいうべきものであるといえよう。ここで、塾主の提唱するその人間道の内容に着目すると、二つの主軸原理とそれを支える二つの補完原理から構成されており、全体として四つの基本原理からなることが分かる。それでは、その人間道の基本原理とは何たるかにつき、以下、個別に考察を深める。

 第一は、『いっさいを容認する』というものである。すなわち、人間同士をも含めて万物をすべてあるがままに容認するということを意味する。松下幸之助塾主曰く、『人間道は、人間万物いっさいがそれぞれに天与の使命なり特質、意義というものをもって存在しているという基本の見方に立って、人間同士なり天地自然のいっさいのものをすべてあるがままにみとめる、容認するというところから始めなければならない』。したがって、いかなるものでもその存在を否定・排除しない。ただ、このいっさいをあるがままに認めるというのは、いわゆる事実を容認するということであって、決してこれをそのままよしとするということにはならない。しかしながら、まずは容認するという姿勢が求められるのである。

 具体的に解するに、人間社会における実践を考えるだけでも、この基本原理を体現することは容易ではないと思われる。満員電車の中で汚臭を放たれようが、意味不明な偏見で罵られようが、世界の中心で愛を叫ばれようが、まずはいっさいを容認するというのが人間道の基本である。ともすれば、自分の感情・利害・欲望などにとらわれて、互いに他を否認したり、排除・排斥したりしがちなのが世の常である。実際、人間を含む万物には、好ましい側面もあれば、好ましくない側面もあるわけで、常に万物に対して、それら全てをありのままに容認するのは、決して容易なことではない。それでもなお、一切容認の心をもち、善悪問わず全体を認めるという姿勢こそ、この原理の真意であると解せられる。

 第二は、『適切に処遇する』というものである。これは、あるがままに容認したものを、適切に処置・処遇して、これをともどもに生かしていくということを意味する。ここで、松下幸之助塾主曰く、『人間同士の場合でも、自然や社会の事物でも、適切な処置・処遇を得てはじめてそれぞれに生き、全体としても生成発展がもたらされてくる』。つまり、『適切に処遇する』とは、万人万物それぞれに与えられている天与の使命・特質というものを正しく生かすということである。そして、たくまずして万物を生かし、調和のもとにこれらを生成発展せしめている自然の理法にしたがい、いっさいのものを適所において、ともどもに生かしていくということが、自他共存・調和共栄の道につながると塾主は指摘する。

 思うに、この基本原理を実践するためには、万物の特質を見極めることと、その特質を引き出して生かすという二つの要件が求められる。したがって、これは極めて高度な実践能力を要するといえる。この存在は有り得ないと思われるような人間に遭遇したとしても、どう考えても不要であると思われるようなモノに対面したとしても、人間万物いっさいがそれぞれの特質をもつと考える人間道においては、それらの特質を見極めて、それを引き出して生かすことこそ、『適切に処遇する』という行為に他ならないといえる。そのためにも、人知れず万物の特質を見極める目を養うという不断の努力を惜しまず、実際に万物の特質を引き出して生かすための実践行為を重ねるという地道な取組が肝要であろう。

 第三は、『礼の精神』である。塾主は、人間道をより円滑に歩むためには、礼の精神に根ざさなければならないと指摘する。礼の精神に根ざすとは、すなわち、天与のいっさいのものに対して感謝と喜びをもってこれを容認し、処置・処遇していくということを意味する。『いっさいをあるがままにみとめつつ、これを適切に処遇しようという人間道は、この礼の精神によって支えられ、うるおいが与えられる』という言葉に明らかな通り、この礼という豊かな人間の精神こそ、人間道を歩む上での潤滑油になると塾主は説く。つまり、『礼の精神』は、人間道を支える補完原理なのである。それ故、お互いに礼の精神を養い高め、これに根ざしつつ、いっさいのものを容認し、処遇していくことが大切であるとされる。

 この『礼の精神』というものは、日常生活において、比較的容易に実践していくことができると思われる。すなわち、何事に対しても、感謝と喜びの念をもって接することを心がけるということである。親に叱責されても感謝の意をもって受け止め、会社の上司に非条理な態度をとられても喜びをもって受け入れる。多少のマゾヒズムを含みはするものの、このように礼の精神をもってすれば、日常生活が心穏やかなものとなるだけでなく、全てをあるがままに容認し、物事をいかに処遇するかについて適切な判断を下す素地をもたらすと考えられる。その意味において、松下幸之助塾主の指摘する通り、感謝と喜びをもって万物を受け入れる礼の精神は、まさに人間道を歩む上での潤滑油となるのであろう。

 第四は、『衆知』である。塾主は、個々の知恵を超えた衆知を生かしてお互いの見識を高めていくことによって、人間道をより正しくより力強く歩むことができると説く。これは、衆知を集めることによってお互いの判断力が高まり、是非善悪がさらに明らかになって、いっさいを容認し、それをいかに処遇するかという人間道の歩みがより的確なものになるという考え方に基づいている。それ故、衆知は、人間道を支える補完原理として位置づけられるのである。これに加えて、塾主は、諸々の学問について、その衆知を集める一環として興隆させていかなければならないと指摘する。学問によって個々の知恵や知識が増し、ひいては衆知が高められて、よりよく生かされることになると考えられるためである。

 この『衆知』という考え方は、先の礼の精神と並んで、日常生活において大いに活用できるものと思われる。要は、自分一人の世界に閉じこもらずに、古今東西の知恵を集めて活用するということである。確かに、独力で達成するということも貴重なことに変わりはないのであるが、全体としての叡智を高めていくという生成発展の観点に立てば、幅広く知恵を集めたほうがいい。進路・恋愛・美容・健康といった身の周りの些細なことから、人生・生命・宇宙・借金といった壮大なことまで、少し心を開いて多くの知恵を集めることによって、飛躍的に新しい展望が開けることも多かろう。このように、広く衆知を集めるという心構えは、いっさいを容認して適切に処遇することにも強く通じるといえる。

 以上の通り、松下幸之助塾主の提唱する人間道について、それを構成する四つの基本原理が何たるかを個別に考察した。塾主自身も指摘する通り、この人間道の歩みというものを個別具体的に考えていくならば、広範なあらゆる分野について考えられるわけであるが、人間道の基本の考え方として抽出したのが、ここにみられる基本原理である。これにより、その基本の考え方を様々な局面に適用することが可能となり、個々の分野における人間の歩み方もおのずと明らかとなるとされる。つまり、人間道の基本理念が明確化されることによって、政治・経済・教育など、現実の共同生活における全ての活動のあり方の是非を判定する拠り所が生まれたわけである。ただ、考察から明らかな通り、四つの基本理念を日常生活において実践することは、そうたやすくはない。したがって、松下幸之助塾主の提唱する人間道を如何に実践していくかということが、次なる着眼点となるのである。

3. 人間道の実践に関する考察

 たとえ崇高な人間道が提唱されても、考えるだけでは何の役にも立たない。この人間道を社会の各面にわたって実践していくことこそ、極めて重要である。そこで、その実践をどういう姿で進めていけばよいのかについて、塾主の考えを紐解きながら考察する。

 第一に、人間道の実践者である人間が、人間以外の森羅万象に対して、いかに人間道を実践していくべきかについて考察する。ここで、塾主は、お互い人間は、自然の理法ともいうべき大きな宇宙の働きをあるがままに認め、これに素直に順応しながら、自他ともの共同生活の向上を図っていくことが肝要であると指摘する。そのため、学問的にも、実際生活の上でも、様々な自然の働きというものを正しく解明し、これをよりよく共同生活の上に積極的に役立てていくことが、人間道の実践というものにつながるという。

 第二に、お互い人間同士が、どのように人間道を実践していくべきかについて考察する。塾主曰く、『人間道では、人間同士は王者同士であるという意識をもって、お互いの特質、特性をありのままにみとめ合い、適正な処遇をし合うことによって調和のうちに共存共栄していこう…という考え方に立っています』。つまり、一人一団体たりとも存在価値のないものはなく、全ての人・団体を生かし合っていくことが、人間同士に対する人間道の実践なのであり、それに尽きるといっても過言ではないという塾主の想いが読み取られる。

 以上の通り、塾主は、人間以外の森羅万象と人間同士に対する人間道の実践のあり方について見解を述べている。私自身は、その基本的考え方については、深く共感している。しかしながら、日常生活における実践を考えると、その解説だけではいささか抽象度が高く、腑に落ちないように思われる。確かに、人間道そのものの基本理念としての性質上、総論的な解説にならざるを得ないが、実践への指針としては、あと一歩の後押しが望まれよう。そこで、私自身の考える人間道実践の要諦を極めて平易に記すと、次のようになる。

 まず、人間道を実践することは、極めて楽しいことであり、「人間道を実践すると、万事好転する」と考えてよい。つまり、人間道とは、万事好転の黄金律と解釈してよいだろう。その人間道とは、平易に換言するに、1)全てをあるがままに認める、2)それぞれの良さを引き出すよう適切に対処する、3)何事も感謝と喜びをもって接する、4)広く知恵を集める、以上四つを実践することである。ここで、実践の着眼点は、1)兎に角、あらゆる物事に対して実践してみる、2)それを楽しむ、3)すぐに成果が出なくても気にしない。そして、この一連の過程をまずは三回試してみる。これが、私の考える人間道実践の要諦である。

 私の一貫する理念の一つは、「まず、やる」。何事も実践してみなければ、それに対する自分自身の判断対象たる経験すら生まれない。私自身にとって、実体験をもたずに物事を批判することほど空虚なものはない。この人間道についても、同じことが言えると考える。判断するのは、ひとまず実践してみてからでも遅くはない。少なくとも、私自身は、曲がりなりにも人間道の実践を日常生活に取り入れてみて、心地よいものであると感じている。百聞は一見に如かず。百見は一験に如かず。極めて身近な些細なことから、塾主の提唱する人間道を実践することの妙味が堪能されることを願い、本論の結びとしたい。


参考文献
『人間を考える』 松下幸之助 (PHP文庫)
『松下幸之助の哲学』 松下幸之助 (PHP研究所)
2004年8月 執筆
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