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人間観
2004年12月

人間道に基づく共同生活像
谷中修吾/卒塾生

本稿は、松下幸之助塾主の「宇宙観に基づく人間観」及び「人間観に基づく人間道」を実践したところにある共同生活像について、塾主の考え方を紐解きながら考察するものである。人間観レポートシリーズ三部作完結編。

 

1. はじめに

 本稿は、松下幸之助塾主の人間観を考察しながら「人間とは何か」について各自がテーマを設定し、それに基づいて自分の考えを述べるという「人間観レポート」である。第一弾「宇宙観に基づく人間観」では、塾主の基本的人間観について考察し、第二段「人間観に基づく人間道」では、その人間観の具現化について考察した。これらを端的に総括するに、塾主は、「生成発展する宇宙において、人間が万物の特質を生かして物心一如の真の繁栄幸福を生み出すという天命を全うすべく、人間自身がその天命を認識し、素直な心で衆知を集めるべし」という人間観のもと、「『いっさいを容認する』『適切に処遇する』『礼の精神』『衆知』という四つの基本原理に則って共同生活を営むべし」という人間道を説いた。それでは、このような基本的考えに基づいて生まれる共同生活とは、一体どのようなものなのであろうか。本稿は、松下幸之助塾主の「宇宙観に基づく人間観」及び「人間観に基づく人間道」を実践したところにある共同生活像について、塾主の考え方を紐解きながら考察するものである。

2. 松下幸之助塾主の提唱する共同生活像の考察

 松下幸之助塾主の提唱する人間道とは、「万人万物をあるがままに容認し、適切に処遇することによって、よりよき共同生活を生み出す道」である。その本質は、『いっさいを容認する』『適切に処遇する』『礼の精神』『衆知』という四つの基本原理に則って共同生活を営むことにある。それでは、その人間道に基づいて共同生活を営んでいくとき、そこには具体的にどのような姿が現れてくるのであろうか。ここでは、塾主の考え方を紐解きつつ、人間道に基づく共同生活像を考察する。但し、一口に共同生活といっても、これにはいろいろな場合が考えられる。塾主の言葉を引用するに、家庭・会社・地域社会・国家・国際社会・人類社会そして宇宙というものさえも、全て共同活動が営まれる場であるといえる。つまり、共同生活は無数と言えるほどに存在し、しかもそれらが重なり合い、交じり合っているのである。その視点を踏まえつつも、ここでは"国家"を例にして考察を深める。

 初めに、人間道に基づく共同生活像としての国家像を端的に表現するならば、それは、「物心ともに調和のとれた文化国家」であると塾主は説く。世界の国々に着目すると、そこには多種多様の文化・伝統がある。それらは、「その国の歴史の中でそれぞれの時代に生きた人々がよりよき共同生活を求めて考え、用いてきたものの集積であり、いつのまにか国民生活の中に定着したもの」であると考えられることから、それぞれに文化の度を高めていこうとする文化国家は、まさに人間道からみて相応しい国家像であるという。ただ、文化の度の高まりは、物質的な側面と精神的な側面の双方において為されなければならないと塾主は指摘する。それが、「物心ともに調和のとれた文化国家」の必要性を説く所以である。加えて、塾主は、そのような文化国家を実現する上で、次に挙げる三つの柱が必要であるという。それらは、人間道に基づく共同生活像の輪郭を浮き彫りにするものでもある。

 第一に、『自由があること』が必要であると説く。すなわち、その国に広い自由が存在し、人々の自由な思想・活動が許されていなければならないという。人間道に立って国家というものを考えた場合、その国家に存在する全てのものをあるがままに容認するということになる。つまり、「人間万物いっさいの天与の特質をそのままみとめ、これを存分に生かしていく」ことが求められる。これを実現するために必要なものこそ、広い自由のもとに、人々の自由な思想・活動が保障されることであると塾主は指摘する。なぜならば、「人も物もいっさいのものは、自由な状態、自然な状態においてはじめて、あるがままに存在し、そのもてる天分を大いに発揮できる」と考えるためである。さらに、「自由のなかにこそ、人間の偉大な本質が大いに生かされてくる」とも指摘する。これらより、人間道からみた文化国家の第一の柱として、『自由があること』という要素が位置づけられている。

 確かに、『いっさいを容認する』という人間道の基本原理に鑑みれば、『自由があること』が必要不可欠であるということは容易に理解できよう。ただ、ここで留意しなければならないのは、自由の行使についてであると思われる。たとえ自由であるからといって、個人の自由が他人の自由を侵害するようであっては、全体として、その生活共同体に自由があるとは言い難いであろう。塾主自身も、「一人ひとりが自由に考え、自由に活動するとともに、その活動が他人の不自由をしいるということのないように、互いに配慮し合い、そういう共同生活のルールというものを考え、守り合うことが大事」であると指摘している。つまり、共同生活の中での自由の行使は、その共同生活をよりよくしていこうとする上で妨げにならぬよう配慮されるべきものといえよう。そのような自由こそ、人間道に基づく共同生活像に現れる核心的な要素の一つたり得るものと考えられるのである。

 第二に、『秩序があること』が必要であると説く。すなわち、文化国家という共同生活体の中においては、正しい秩序が打ち立てられなければならないという。大自然にある一切のものは、調和のうちにそれぞれの特質を生かし、生成発展している。そして、そこに自然の秩序、宇宙の秩序というものが働き、そのもとに万物一切が生かされている。同様に、「人間の共同生活において、万人をともどもに生かしていくというからには、そこにそれなりの秩序、ルールというものがおのずと考えられなければならない」と塾主は指摘する。別の言葉では、「相寄って共同生活を営んでいくためには、自由とともに、各人の自由を真の自由たらしめるために、社会的秩序が必要」であると述べている。自由の行使が他人の自由を抑圧しないようにするためにも、共同生活に『秩序があること』が必要なのであり、一人一人もその重要性を自覚することが求められるというのが塾主の考え方である。

 思うに、ここにいう『秩序があること』とは、まさに『自由があること』と表裏一体である。塾主も指摘する通り、人間全てが聖人君子であるわけではなく、全ての人間が欲望のままに自由な活動をして他人の自由も侵害しないということは極めて難しい。そこで、「共同生活全体としてこれだけは守り合って、それぞれの自由を生かし合おうという、なんらかの規定というか、法律、規則、約束などの秩序というものが必要になってくる」と塾主がいうように、自由を守るための社会的秩序というものが求められるのである。したがって、そのような秩序は自由を抑制するためのものではなく、各人の自由を支えて生かし合うために必要なものであることが理解できる。実際、人類の自由獲得と立憲民主主義の確立の歴史をみれば、それはなお明らかであろう。かくして、社会的秩序の必要性には、いっさいを適切に処遇してともども生かすという人間道の基本精神も窺えるのである。

 第三に、『生成発展していること』が必要であると説く。すなわち、国家国民が物心ともに常に生成発展しているということが文化国家として不可欠の要件であるという。前作で考察した通り、人間道とは、「人間万物いっさいのありのままの容認と適切な処遇とによって、これら全てのものを生かし、よりよき共同生活を生み出していく道」である。したがって、国家という生活共同体も、調和共栄の世の中を目指して、よりよき社会を実現するために絶えず進歩発展していかなければならないというのである。勿論、広い自由と高い秩序があれば、自ずとその国は生成発展していくという面も考えられるのであるが、塾主は、「その国家が生成発展しているかどうかということを一つの独立した基準とみなして、自由や秩序のあり方を考え、いっさいの人間活動、社会活動のあるべき姿を求めていくというのも、大いに意義あること」であると、その著書において述べている。

 ここで、人間道に基づく共同生活像の三本柱の一つに、塾主の人間観の中核をなす『生成発展していること』という要素が改めて位置づけられていることを考えると、生成発展の重要性を見て取ることができるであろう。また、人間道に基づく共同生活においては、その歩みは遅くとも、一歩一歩着実に共同生活の向上を目指していくことが求められるという主張を酌むこともできる。塾主も、別の言葉で、「政治、経済、教育、思想、芸術、さらには諸般の福祉活動など、物心両面にわたるさまざまな分野において、たえずそこに創造が行なわれ、発展が生み出されていなければならない」と説いているが、共同生活において日に新たな創造活動が実現される必要性があることを強く指摘していると解せられる。かくして、自由と秩序に生成発展を加えた三つの柱が揃ってはじめて、人間道から導き出される共同生活像としての文化国家の輪郭を浮き彫りにするものといえるのであろう。

 以上を総括するに、人間道に基づく生活共同体としての国家像とは、「物心ともに調和のとれた文化国家」であり、『自由があること』『秩序があること』『生成発展していること』という三つの柱からなるものといえる。このことは、単に国家にのみあてはまる基準ではなく、家庭・会社・団体など、およそ共同生活と考えられるもの全てにあてはまると塾主はいう。したがって、人間道の実践によって得られるよりよき共同生活とは、これら三つの基準によって判定できることになる。また、「ひろい自由と高い秩序、限りなき生成発展こそ、人間道を実践しやすくする社会の要件である」と説く通り、この三本柱の実現は、塾主の人間道ひいては人間観の具現化と密接に関係している。それ故、塾主は、それらを「人間道にもとづく共同生活の…基準として正しく認識し、…よりよき共同生活をきずくため、…力づよくあゆんでいかなければならない」と強く訴えるのである。

3. 人間道に基づく共同生活像の実現の考察

 ここまでにおいて、松下幸之助塾主の考える「宇宙観に基づく人間観」「人間観に基づく人間道」「人間道に基づく共同生活像」について考察してきた。根源的な部分から順次考察を深めることによって、建設的な人間観の考察を企図したものである。それらを全て総括するならば、松下幸之助塾主は、「生成発展する宇宙において、人間が万物の特質を生かして物心一如の真の繁栄幸福を生み出すという天命を全うすべく、人間自身がその天命を認識し、素直な心で衆知を集めるべし」という人間観のもと、「『いっさいを容認する』『適切に処遇する』『礼の精神』『衆知』という四つの基本原理に則って共同生活を営むべし」という人間道を説き、「『自由』『秩序』『生成発展』という三つの柱をもとに、物心ともに調和のとれた文化社会を目指すべし」という共同生活像を提唱したといえるであろう。それでは、このような共同生活像が具現化されるためには、一体何が必要なのだろうか。

 結論から言えば、人間道をただ実践するのみであるといえる。前作にて考察した通り、結局のところ、如何にして日常生活において人間道を実践・応用するかに尽きるのである。したがって、『いっさいを容認する』『適切に処遇する』『礼の精神』『衆知』という四つの基本原理を各人の生活のあらゆる面にわたって実践・応用し、それによって導き出される共同生活が『自由』『秩序』『生成発展』という三つの要件を満たしているかについて常に配慮を払うということこそ、目指すべき共同生活像の具現化の要諦に他ならないといえる。先述の通り、家庭・会社・地域社会といった身の周りのものから、国家・国際社会・人類社会そして宇宙といった壮大なものまで、生活共同体としてはあらゆるものが考えられる。それぞれの局面において、一人一人がそのような要諦を自覚・実践していくことが、人間道に基づく共同生活像の具現化への王道であり、唯一の道であるともいえよう。

 塾主自身も指摘する通り、「現実の共同生活、共同社会を営んでいくにあたって、つねに真の自由、秩序と生成発展の姿をともどもに高め保っていくということは、まことにむずかしい」といえる。実際、頭では理解できていても行動が伴わないということは、人間の生活においては誠によくあることである。しかしながら、塾主の考え方に立脚すれば、お互いが真の幸せを得ていくには、いかに困難であっても、そのことに力を合わせて成功を収めていかなければならないということは明らかである。そして、「そうした成功はたとえ一朝一夕に生み出せなくとも、たえざる努力を一つ一つ積み重ねていくことによって、次第に実現の度が高まっていく」と塾主もいうように、一人一人の小さな努力が最大の鍵であるといえるだろう。

 私自身は、塾主の説く宇宙観・人間観・人間道・共同生活像には賛同するところが大きい。もっとも、世界の各種宗教の本質には類似点が多いように、塾主の説く思想もそれらとの共通部分が多いとも思われる。ただ、塾主の説く思想の優れたところは、平易で分かりやすいことにある。端的ながら本質を突いたその言葉は、とりわけ日本人の心には響くものがあるのではなかろうか。また、私自身、日常生活における人間道の実践は、極めて興味深いものと思っている。あらゆる生活局面において、『いっさいを容認する』『適切に処遇する』などと心の中で唱える様を想像すると、いささか怪しく不気味であるともいえるが、その行為がもたらす結果を考えてみたとき、それが物事を円滑に進める潤滑油となることが体験的に分かる。それ故、楽しみながら実践するのもまた一手かと思う。最後に、この人間観レポート三部作をご拝読頂いたことに感謝申し上げつつ、本稿の結びとしたい。

以上

参考文献

 『人間を考える』松下幸之助(PHP文庫)
 『松下幸之助の哲学』松下幸之助(PHP研究所)
2004年12月 執筆
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