論考

Thesis

結局「人物」がいない!

 先日ある方から、話題になった映画「タイタニック」にまつわる小話で、次のような 話を聞いた。あの豪華客船タイタニックが巨大氷山に衝突して沈没するのであるが、ボートさえあれば大半は助かったわけである。そこで、国民性を皮肉った話が流行しているという。

 最初に女、子供を助けるために先にボートに乗せようとするわけであるが、それを納得させるやり方として、イギリス人には「君らは紳士だろう」といえば良い。アメリカ人に対しては、「英雄になりたくないかね?」といえば納得する。ドイツ人に対しては、「女・子供を助けるのは社会的ルールである」といえば良い。では、日本人に対してはどうするかというと、「みんなそうしているから」といえばそれで納得するというのである。 誰が作ったのか知らないが、しかしながらその国のリーダーシップや特性といったものをよく見抜いていると思う。

 日本経済が低迷したといわれて既に10年以上が経過した。それは「失われた10年」といわれる。しかしながら、それは「失われ続ける10年」、いや、もっと正確に言えば、「残された10年」というのが適切であろう。これに関して、私自身今日まで、内外で様々なことを発言もしてきた。しかしながら、最近つとに、そしてつくづく思うのは、結局のところ、この国には「人物」と呼べるに足る人そのものが、実はほとんどいないということが最大のネックになっているのではないか、ということである。というよりは、もうこれが全てと言い切っても良いのではなかろうか。例えば、仮に、日本の全ての人が一日に百円だけ消費せずにいれば、経済は約4兆4千億円もダウンするといわれる。逆をいえば、「この人なら」といえるような人物がいれば、もうそれだけで世の中は雰囲気がらりと変わる。人間社会というのは、結局のところそういうことに帰着するのではないか。

 政治家には信念が必要-よくいわれる言葉だ。しかし、通常意味するような「信念」が大事というのであれば、ヒットラーだって、それはそれは強い信念を持っていた。つまり、理性によって生み出されたある一つの概念の程度を単に強くしただけのもの、そんなものは信念とは呼ばない。そういう身勝手な「信念」を振り回して世の中を惑わす人が多すぎる。そしてそれが結果として日本を混乱に貶めている。

 例えば、理性というのは発達性を伴うものである。であるからこそ、一年前の考えと現在の考えには多少の相違がある、というのが普通である。従って、理性のみによって形成された考えを信念だと思っている人の「信念」は、実はくるくる変わる。しかしながら、よくいわれるとおり、偉人と称される人の信念はまさに動かざること山の如しでゆるぎない。この辺の違いが一体何なのか、そして自分は一体何にだまされてきたのか・・・それが最近ようやくわかってきた。

 こういっても恐らくよく分かってもらえないのかもしれない。しかしながら、何が「本物」の議論で何が「偽物」のそれなのか-こういった識別も、結局は偽りない信念を「煥発」する(そう、「煥発」である。概念を形成うんぬんといった次元の話ではない)以外に結局は方法がないのではないか。例えば、私の尊敬する尾崎行雄がそうだ。この人の発するところ、必ず普遍的な原理・原則があり、たとえ脅されても曲がるところがない。だから、権力にも媚びるところがないし、金銭にもおもねるところがない。この種のことは、いちいち理性を働かして意識的にやって出来る芸当ではない。

 理屈百篇ベラベラいう人の多い中、そういった正信念を「煥発」して一つの「気」としてそれが伴っている人、そういう人がいわゆる人物なのであろうと思う。別に特別なことではないし、実際そういう人にもお目にかかったのだが、なぜか日本の政界にはほとんどいないのである。こういった「人物」が一人でも多く出る以外に結局のところ道はないのではないか・・・最近特にそういったことを考える。そして、そういったことが多少なりとも分明し始めたことを、心強く感じている。

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奥健一郎の論考

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Kenichiro Oku

奥健一郎

第20期

奥 健一郎

おく・けんいちろう

一般社団法人ハートリボン協会理事

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