論考

Thesis

アフリカの「現実」を旅して

南アフリカにおいてアパルトヘイト終焉後、13年たった今もなお人間によって創られた差別の傷跡は大きく残っている。ヨハネスブルクの黒人居住区ソウェトを訪れて、自分の目でみた苛酷な「現実」のなかで感じたことを理屈抜きにして素直に表した、個別レポート第一弾。「人間」を見て「人間」であることに気づかされた旅を振り返って。

「世界の強大な国々は、世界に工業と軍事の外観を与えることに奇跡的な成功を収めてきたかもしれない。だが、偉大な贈り物がまだアフリカから届いていない。――――世界にもっと人間的な顔を与えるという贈り物が」
 スティーヴ・ビコ

序章 アフリカを旅して

 2003年12月、私は南部アフリカ3国(南アフリカ共和国、ジンバブエ、ザンビア)を訪れた。そのなかでも、アフリカ大陸最南端に位置する南アフリカ共和国での体験は非常に印象的なものであった。人間によって創られたアパルトヘイトによる差別の歴史を、壊したのもまた人間であった。ただ、一度創られた差別の深い傷跡は、アパルトヘイト終焉後10年経った今もなおくっきりと残っていた。

 プール付き家が立ち並ぶ白人居住区と今にも壊れそうなトタン屋根が立ち並ぶ黒人居住区。ヨハネスブルクの綺麗な街中では、労働者以外の黒人を見ることはできない。一方で、スコッターキャンプと呼ばれる最貧地帯では、黒人の知人を同伴せずして歩けるような環境ではなかった。ヨハネスブルク訪問の初日にレンタカーで街全体を一回りしたが、それだけでアパルトヘイトの傷跡は痛みを伴って伝わってきた。

 私は、紹介者を通じてソウェトと呼ばれる黒人居住区でホームステイさせてもらい、そのなかで現地での生活を感じることができた。今回の主な目的がHIV/AIDSの現状調査であったということもあり、ソウェトに住むHIV感染者であり、現在HIV患者へのコンサルティングを行っているググとルンギレという親子とともに、いろいろな話を聞きながらHIV関連施設やホスピス、精神障害者福祉施設などを訪問した。

 私達と同じ「人間」が地球の裏側でまったく異なる環境の下で生きている、この当たり前の出来事を同じ人間同士の係わり合いの中で強く感じさせられたアフリカでの体験であったといえる。

 今回のレポートにおいては、私自身のアフリカでの体験を踏まえて得たものを提示するのみならず、改めて日本から「遠くて遠い国」であるアフリカの現在の状況を学びなおしたうえで、厳しい現実に対して考察を深めていく。

第一章アフリカ社会の現状

 まず、以下にアフリカにおける現在の状況を数値データで提示する。カッコ内のデータは、特に環境が厳しいサブ・サハラ地域のものである。

  • 国数 53カ国 全世界の約28% (47カ国 約25%)
  • 人口 約8億人 全世界の13% (6億3千万人 約10%)
  • 面積 約3000万km3 全世界の22% (約2200万km3 約16%)
  • GDP 約5300億ドル 全世界の1.7% (3100億ドル 全世界の約1%)
  • サブサハラ地域一人当たりGDP 約500ドル
  • サブサハラ地域のGDPの約半分が南アフリカが占めているので、実質的には残り46ヶ国のGDPは約1500億ドルであり、これはマレーシア一国のGDPとほぼ同じ数値である。
  • 重債務貧困国(HIPCs) 全世界42カ国のうち、サブ・サハラに33カ国
  • HIPCsの認定基準(世界銀行及びIMFにより認定)
    1. 93年一人当たりGNPが695ドル以下
    2. 93年時点での債務残高が、年間輸出額の2.2倍もしくはGNPの80%以上
  • HIV/AIDS感染者 全世界で約4200万人中2940万人がサブ・サハラ
    (2002年12月 UNAIDS Reportより)
  • UNHCRが保護・支援の対象とする難民 アフリカで約417万人(全世界の約21%)
 以上の数値を見ただけでアフリカが世界のなかでも類をみない特殊な状況に置かれているかが認識できるのではないだろうか。

 世界の4分の1の国数を持つサブサハラの国々に世界における100分の1のGDPしか生み出されていない現状を見るだけでその異常さを感じることができる。

 また、全世界で共通の課題となっているHIV/AIDS感染者の約4分の3をアフリカ大陸で抱え、難民の5分の1をアフリカが生み出している。地球規模での課題を生み出す温床ともなっているアフリカの現状とその背景を以下に考察していく。

1)アフリカにおける課題―多様な要因が相互密接に絡みあう状況

i)開発問題

 本来、アフリカは天然資源にも恵まれ、豊かな自然環境に恵まれている国は少なくなからず存在する。1960年代には、一人あたりGNPでアフリカは約500ドルと途上国平均の330ドルをはるかに上回っていた。現在でこそ世界の成長センターとしてのアジア諸国があるものの当時においてはアフリカの方が豊かであった。

 問題は、他の途上国が地域開発を進め、着実に所得を伸ばしている中でアフリカだけが停滞するどころか低下している現状にある。1970年代に約600ドルあった一人当たりGNPが90年代以降500ドル前後のレベルの落ちている。現在、6億を越えるサブサハラの人口の半分以上が1日あたり0.65ドルで生活しているという現実がある。

 世界銀行の「アフリカは21世紀に生き残れるか」という報告書の中でアフリカの開発問題の課題として次の4点を指摘している。

  • 紛争の頻発と弱い統治制度
  • 脆弱な人的資源―教育問題、年間2万人を超える頭脳流出、感染症
  • モノカルチャー依存経済の脆弱さー交易条件悪化により、対外債務は97年度末で2200億ドルとなっている。
  • 外国からの援助資金の低下
 冷戦終焉後のアフリカにおいては「MARGINALIZATION」の危険性が最も大きい。つまり、各国がアフリカを周辺地域として無視することで「世界から忘れられてしまうこと」である。開発援助を見てみると、アフリカ一人当たりのODA受け取りは90年には32ドルあったものが98年には19ドルへと減少している。DAC諸国の二国間ODA全体に占めるシェアも、89年の22%をピークとして漸減し、98年には16%と大幅に低下している。この背景としては、第一に、もともと対アフリカ援助は東西冷戦を背景とした両陣営からの援助合戦の要素が強かったものが、冷戦終焉後アフリカの戦略的価値が低減したことが挙げられる。第二の要因としては、冷戦終焉後に東欧や中央アジアへの援助需要が高まり、アフリカにとっての競争相手が登場したことが大きな意味をもつ。そして第三の要因としてはいくらODAをつぎ込んでも改善しないアフリカの状況のまえに援助国に「援助疲れ」現象によるあきらめと無関心の空気がただよいはじめていることがある。

ii)紛争の頻発

 サブサハラ47カ国のなかで、これまで国際紛争も内戦も経験したことのない国は20カ国、クーデタすらも経験したことがない国となるとザンビア、ボツワナなど10カ国しかない。ほとんどのアフリカ諸国が何らかの形で紛争の被害にあっているといえる。紛争により5人に1人が被害にあい、アフリカ全土に2000万個の地雷が埋没され、紛争によって1600万人の国内避難民と300万人の難民が生じている。紛争は貧困の主な原因の一つであり、コンゴ紛争を抱える中部アフリカを例にとるとGDP成長率を2%引き下げているという分析がある。

 紛争は、冷戦終焉後むしろ活発化している現実がある。紛争の発生数は、60年代6件、70年代5件、80年代6件と推移してきたが、冷戦終焉後の90年代には15件と急増している。アフリカにおいては冷戦下でのイデオロギー対立が覆い隠していた民族対立や地域紛争が顕在化されたといえる。

 アフリカの紛争の要因となるものを以下に具体的に提示する。

  • 部族対立・・・ルワンダにおけるツチ・フツ対立などアフリカにおける全ての紛争の背景には何らかの部族対立の要素があるといわれている。
  • 資源争奪・・・本来、経済発展の基礎となる天然資源の存在が紛争を引き起こし、かつなまじ資源があるだけにそれを資金として武器輸入が継続され、紛争がいつまでたっても終結しないという現象を生じさせている。
  • 貧困・・・貧困が紛争を呼び、紛争がさらなる貧困を招くという悲劇の悪循環を生じさせている。また給料未払いの兵士の不満がクーデターとなり、これが大規模な内戦へと発展するケースが中央アフリカを中心に比較的多く見られる。
  • その他・・・冷戦時代の代理戦争、宗教対立、権力闘争、国境紛争、解放独立闘争など様々な要因のもとで長期間国家を疲弊させる紛争が継続している。
iii)感染症問題

 UNAIDSの発表によると、2002年度末で世界のエイズ罹患患者4200万人のうちおよそ4分の3にあたる2940万人がアフリカである。これはあくまで公表数字であり、先進国に比べ確実なデータを取りづらいアフリカでの実数はこの数を大幅に上回っていると考えられる。1990年から2000年の間で、南部アフリカの多くの国では、エイズの為に平均寿命が50歳台から40歳台へほぼ10歳短くなっており、さらに今後対症療法にとどまらない抜本的な対策が施されない限り、アフリカ人全体の平均寿命を20歳短縮するとの予測がある。国によっては、すでに成人のエイズ罹患率が30%を上回っている例があり、そのような状況では国家、社会の存続そのものが問われていることになり、エイズ問題こそが最大の安全保障問題となっている。

 また、エボラ出血熱、西ナイル熱など治療法が確立していない新しい感染症もアフリカの劣悪な衛生環境のなかから発生・拡散している場合が多く、先進国にとっても武力では防げない安全保障の問題としてアフリカの感染症の問題は決して他人事ではない。

第二章体で感じたアフリカの現実

 上記の客観的なアフリカの現状に加えて、以下においては私自身がアフリカ3国を訪れて、感じたアフリカの現実を述べていく。

1.アパルトヘイト後10年たった社会の現実

 私はまず、南アフリカ共和国のヨハネスブルクを訪れた。南アフリカ共和国は、1990年代前半までアパルトヘイト体制のもとでの悪名高い人種差別の国として世界の注目を集めてきた。1994年に南アフリカ史上初の全人種参加の総選挙が行われ、ANC(アフリカ民族会議)の指導者、27年間の獄中生活を送ったネルソン・マンデラ大統領が大統領に選出されて以来、全人種が平等な権利のもとで生きることができる国家「虹の国」を目指している。

 到着した初日は、アフリカに長年在住している案内者の方に車で市内を案内していただいた。まず最初に訪れたのは、ヨハネスブルクの中心部のショッピングモールであった。ショッピングモール内の各店舗及び飲食店内の人種の配置は異様なほど明確であった。販売員または清掃員として労働している人々はほぼすべて黒人である一方で、客として買い物に来ている人々は例外なく白人であった。案内人の話によると、白人のほとんどは知的労働に従事することが多いため、肉体労働を要するような仕事に就くことはほとんどなく、一方、住み込みの店員を除いたほとんどの黒人は、街に出てくるために交通費すら払えない状況のため、ショッピングモールで買い物することは非常に困難であるという話であった。

 その後、ヨハネスブルク中央駅付近で外務省から危険情報が出ている地域を車で移動した。ゆっくりとした速度で車を移動していると、黒人の若者が車の周りに寄ってきて窓をたたいてお金をせがむシーンが何度となく見られた。この地域では、外国からの単独旅行者が強盗にあうことが多く、周囲のひともその光景があまりに日常的なため関わろうとはしないということであった。中央駅隣のカールトン展望台からは、ヨハネスブルクの全景が見ることができた。数百年のあいだ、白人経営者のもとで黒人が酷使されてきた広い金山跡から目を隣に向けると、豪華な庭園とプールつきの家が立ち並ぶ白人中心の居住区があまりにも対照的に見ることができた。また、長いフリーウエイの両脇にはスコッター・キャンプと呼ばれる不法居住地帯が続いており、トタン屋根の家屋が長く立ち並んでいた。黒人居住区に入るまでもなく、アパルトヘイト廃止後十年たった今もなお、根深い人種の格差が存在していることは明らかであった。

2.黒人居住区(ソウェト)において

 黒人居住区内に入り、案内人の友人で黒人居住区(ソウェト)に住むググとルンギレという親子と一緒に行動をすることになった。ググは、10代前半で3人の男性にレイプされ、ルンギレを妊娠するだけでなくHIVに感染してしまった。娘のルンギレも出生後、母子感染と診断されていた(これまで、ルンギレは数度検査を受けてHIV陽性とされていたが、私が帰国後再度検査を受けて陰性との結果を得たということで、周りの人はその結果を信じたいと言っていた)。まだ、20代前半で重荷を背負ってしまったググにいろいろ話を聞きながら様々な場所を訪れた。

 まず私達が訪れたのは、アパルトヘイト・ミュージアムであった。アパルトヘイト・ミュージアムでは、アパルトヘイト下での差別を示す実物資料や写真が数多く展示されており、それぞれが心を締め付けるような痛みを伴って当時を髣髴させる迫力があった。まず、入場チケットを買って入る入り口が「BLACK ONLY」ともう一方の2つに分かれており、その不合理さを身をもって感じることが出来た。また、特に説明書きもなく無造作に置かれてあったベンチも座る際にふと見ると、そこには「EUROPEANS ONLY」と書かれてあり、それも当時の実物資料の一つであったようだ。当時、黒人を制圧した装甲車も展示してあり、実際になかに入って見学することもできた。タイヤについたくすんだ血の跡は、当時の状況を想起させるのに堅くなかった。展示物一つ一つが当時の人々の叫びをあらわすようななまなましさがあり、案内人の方の説明を聞きながら時間が経つのを忘れて見入ってしまっていた。

 続けて訪れたのは、ヘクター・ピーターソン・ミュージアムであった。1976年に起こったソウェト蜂起において、最初に犠牲になった11歳の少年の名前をとった博物館であった。「ソウェト蜂起」とは、1976年6月16日、学校の授業におけるアフリカーンス語(主に白人移民が話す、オランダ語に各種言語が混じったような言語)強制に反発するソウェトの学生,少年達約1万人が抗議のデモ行進を行ったが、それに警官隊が発砲し、約300人が死亡した事件であり、その後、それを契機に騒乱が南アフリカ全土に拡大していった。死んだヘクター・ピーターソンを抱きかかえた写真はその戦いの悲しさと切実さが伝わる非常に印象的なものであり、また、その戦いでなくなった二十歳にも満たない少年達の名前が記された石版にも心を動かされた。同行したググとルンギレもその石版を拾い上げてみつめながら、非常に複雑な表情をしていた。

 2つの博物館を訪れて気づいたのは、訪問者のほとんどが黒人であったということである。ともに決して治安がいいとはいえない黒人居住区内に存在することもあり、白人が単独では入ることがやや危険な地域にあることが大きな要因となっているといえる。まだ、貧富の格差が大きく、また黒人と白人間のわだかまりが解けていない現状だからこそこのミュージアムの意義は大きいように思われた。過去を振り返り憎しみをぶり返すのではなく、愚かで醜い争いを二度と起こさないようにする契機となりうる非常に印象的で、アパルトヘイト時代の悲しさを伝える象徴的なミュージアムであった。それだけに、いまだに黒人への差別感情が感じられる多くの白人にもぜひ見ていただきたいと感じざるをえなかった。

 宿泊は、ソウェト内の集合酒場のような場所で一間借りて約一週間ステイさせていただいた。夜には、酒場に集まる若者(HIVの蔓延の影響で、そもそも若者しか目につかないのだが)とともに、地元の若者が集う「クラブ」にもいってきた。そのクラブに黒人以外が来ることはきわめてまれらしく、かなり不思議な目で見られた。ただ、黒人の多くの女性からダンスを申し込まれ、その場にいた人々といろいろ話をする機会にも恵まれた。普通にマリファナを吸う人々、一夜だけの愛を約束し会う人々、1日稼いだお金をすべてお酒につぎ込む人々、決して長くは生きられる環境を自覚しているかのようにあまりにも「刹那」を輝こうとしている人々であったように思われる。4人の黒人と私が深夜に一緒に歩いていると、警察に呼び止められたこともあった。私が、他の四人に拉致されたと思われたようで、私も友人だと説明したのだが一緒に歩いていた人は入念にボディーチェックされた。それだけ、黒人と他人種が一緒に歩いているのはこの社会で「普通」のことではないのだと感じさせられた。

3.HIVに包まれた社会

 今回のアフリカ訪問の主な目的がHIVの現状調査であったため、HIV関連施設は数多く訪れた。ググとルンギレ親子も同行して、一緒に施設を見学した。まず最初に訪れたのが、ソウェト内にあるアフリカ大陸最大の病院であるバラグアナ病院であった。この病院は国家で指定された無料で診察が受けられる病院のひとつであり、病床数3400床、外来患者3000人/日という非常に規模の大きい病院であった。また、臨床病棟のみならず、基礎研究施設も充実しており、HIVの専門研究施設においては世界中から約300人の研究員が集まっているということであった。その病院で長年臨床を担当している医師に約30分間話を聞くことができた。確かに、患者にとっては無料診察を受けることのできるこのような病院は貴重であるのは当然なのだが、このような巨大病院であっても、有料病院に通うことができない患者がソウェト内から連日押し寄せてくる一方で臨床医療従事者は不足しており、救急患者であっても長時間ストレッチャーでほっておかれる患者や病棟でも看護婦の目が十分に届かずに死んでいってしまう患者が後を絶たないということであった。毎日、しっかりとした医療を受ければ死ぬ必要がない患者を死んでいくのをみるのが最もつらいと話してくれた。実際に、病院内をまわると近代的な施設のなかで、外観上あきらかに末期の感染症を示す患者が外来で寝転がっていたり、苦しそうな症状を示している患者が薬を待ち長い列をなしている状況は日本の医療施設では決して見られないものであった。

 妊産婦のケアクリニックのデータで、1990年には0.7%だったHIV感染率が2002年のデータでは27%という数値を示しておりこの十年で大幅な増加を示しているということであった。バラグアナ病院の入院施設の約40%はHIV/AIDSの患者で占められているということからも現在のHIV拡散の深刻さが示されている。また、妊産婦のHIV感染率が高いということは現在の問題のみならず、将来の世代にHIVを引き継ぐことを明示しているのであり、この問題の根の深さを示しているのである。

 別の日には、ヨハネスブルク郊外でカトリックのフランシスコ会が無料で運営している「聖フランシス・ケアセンター」を訪れた。そこでは、日本人の根本昭雄神父が中心となってエイズ患者の末期患者のケアを目的に運営している。21歳から58歳の成人患者と、生後2か月から7歳までのエイズ孤児を、非常勤の医師1人と看護師数人で介護している。孤児の大半は授乳によって母親から感染し、親をエイズで亡くした子供たちであった。

  入所者の多くは黒人だが、平均月収が3000ランド(約3万6000円)しかない彼らにとって、発症を遅らせる治療に必要な毎月約6万円の支出はかなわない。死の差し迫った状態で周辺の病院や自宅から運び込まれ、多くは1週間以内に、苦しみながら死亡していくということであった。私達が根本神父と話している間にも、入所希望者の連絡が入っていた。「ファーザー・ニコラス」と呼ばれる根本神父は、施設内で暮らしていた。1日3回、患者を巡回し、毎週1回、教会でミサを行う。スキンシップを心がけ、患者の手を握り、抱擁する。「その場その場で心が和む会話をしています。温かい雰囲気の中で息を引き取ることにホスピスの意義がある」と話していた。たまたま医師がいなかったので、胸が苦しく軽度の発熱がある患者の診察を持参の聴診器でさせていただいた。明らかに肺炎を併発していたが、十分な抗生物質もなければそれを正しく用いることのできる医師も常勤ではなく、近くに搬送する病院もないということであった。ただ、診察する以外何もできなかったにもかかわらず、本人と家族には涙を流して感謝をされたのは非常に心苦しく、自分の未熟さを悲しく感じた。

 このホスピスでは半年間で、約150人が死亡したということであった。最近では、ほぼ毎日死亡者がでるような状況であり、明らかに若年層を中心とした患者の数は増えているということであった。

 ググとルンギレもずっと一緒にまわっていたのだが、そのなかで同じ痛みを持つ患者に対してググは常に暖かい言葉と前向きな励ましの言葉をかけ続けていた。ググは、普段から自分の体験にもとづいたHIV患者に対するカウンセリング活動や講演活動などを行っている。ググが、「私は、HIVになったからこそ自分自身の生きがいとしてこのような活動ができるし、多くの人々に自分自身の体験を伝える貴重な仕事ができて非常に幸せである」という言葉からは、HIVに感染した事実をしっかりと受け止めて前向きな生き方をする人間としての強さを感じることができた。「芯」をもった人間の強さというものをあまりにも鮮烈に感じさせられたのである。

 ソウェトに滞在していた最後の日には、ググがボランティアで働く診療所を訪問し、診療後にはHIV孤児があつまったクリスマスパーティーに参加した。診療所のカウンセリングボランティアは、ググを始め常時10人ほどおり、すべてのボランティアがHIV陽性の患者であった。HIV感染という事実を受け入れた経験を持っているからこそ、新たに感染した患者と真摯に向き合い、痛みを理解しながら話を聞くことが出来るのである。HIV感染者に対してのカウンセリングにおいては、その病気を理解し、感染拡大を防ぐ教育を行うことも重要だが、患者が自分自身がHIV陽性であるという事実をしっかりとうけとめ、そのうえで前向きに生きていくサポートをしてあげるという役割が非常に重要であるということを改めて感じさせられた。クリスマスパーティーでは、ググら診療所のボランティアスタッフが中心となって、孤児30人ぐらいとともに屋外で行った。すでにエイズが発症している子供もいたが、自分の病気をまだよく理解していない無邪気な笑顔をみていると、非常にやるせない気持ちになってきた。この状況のなかでは、何の罪もない子供たちが当然のように未来が失われていくこの「現実」を地球の裏側に住む他国のこととしては決して見ることはできなかった。同じ人間、同じ命、たまたま生まれ出でた環境の差によるあまりにも違いすぎる運命の差を、私自身のなかで他国のことだからと位置づけることは一生できないだろうと感じさせられた

終章 理屈でまとまらない「人間」としての感覚を得て

 南アフリカを出た後、私は一人でジンバブエ、ザンビアの貧困地帯を歩き回った。南アフリカにおけるスコッター・キャンプと同様に、非常に衛生環境も治安も悪く、若い路上生活者に囲まれたり、悪性の発疹が全身に出ている老人を連れた子供にお金をねだられたりすることも少なくなかった。南アフリカのスコッター・キャンプにしろ、ジンバブエ、ザンビアの貧困地帯にしろ、現地の警察権力・行政権力が実効性をもっていないだけではなく、日本を含めた海外のNGO団体もみることはほとんどなかった。本当に支援を必要としている場所であればあるほど、危険を伴うということもあり、なかなか実効的で継続的な支援活動をすることが難しいということが現実のようである。また、ヨハネスブルクで日本のODAに基づいた医療・保健施設もいくつか見学させていただいたが、建物そのものは非常に立派なのだが、薬の保管庫がなく、温度管理がきっちりできない冷蔵庫に様々な薬がごちゃ混ぜにおいてあるという状況で、さらにはそれを用いる専門知識をもった医師や薬剤師はいないうえに、投与に不可欠な注射針や診察に必要な医療機材がまったくないという明らかに現場をみていない支援が行われていることを如実に示していた。

 総務省の調査によると、70%の日本人はアフリカに関心がなく、親しみを感じないとしている。また、日本が拠出しているODAも大部分がアジアに対するものであり、アフリカに対する比率は非常に低いものとなっている。もちろん、アジアとアフリカの国々に対して、国家として対応が異なるのは、そして、国民意識の差が生まれるのは、歴史的経緯の違い、地政学的な戦略拠点としての意義の違い、つまり日本にとっての「国益」としての意味あいに差がある以上仕方がないともいえる。これまで、私は日本がアフリカに関わることの必要性を示すために(1)長期的な地球規模での課題への対応(2)日本国が国際社会でプレゼンスを示すための重要な地域、などと理屈づけを意識的に行ってきた。

 ただ、今回実際にアフリカを訪れて私が得たものは、「この現状は正常ではない」という人間として当たり前の感覚を持ったことである。日本が、そして国際社会がどのようにアフリカという「MARGINALIZE(辺境化)」された社会に関わっていくか、それを具体的に変化させていくためにはもちろん各主権国家の利害を合致していくことが必要であるのは当然である。しかし、やはり最後に必要なのは、この現状が正常ではないと感じる人間の当たり前の心情に訴えていくことではないだろうか。現実感のない甘い言葉かもしれないが、現地をみて感じたのは理屈では分析できない、もはや「人間」を信じるしかないという気持ちにさせられる現実だったのである。

 冒頭に述べた言葉にあるように、アフリカの悲惨な現状は、今こそ世界が人間らしい顔を得るために神が与えたもうたひとつの試練でもあり、贈り物でもあるのではないだろうか。

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山中光茂の論考

Thesis

Mitsushige Yamanaka

松下政経塾 本館

第24期

山中 光茂

やまなか・みつしげ

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